記紀神話と三人のスサノオ

出雲の神社といえば出雲大社が有名だが、出雲には「大社」が2つあり、しかももう一つの「大社」はかつて出雲大社より格上だったという。それが熊野大社である。

熊野大社はスサノオを祀るが、ここでの神名はクシミケヌとされ、これは食物神を意味するという。

熊野大社は一帯の平野を流れる意宇川の源流に位置し、現在の社は山の麓にあるが、本来は川の水源たる山そのものが神体だった。

この周辺は古代出雲の中心地であったと見られ、その穀倉地域の水源を食物神として祀るのは自然ななりゆきであろう。この神が出雲の祖神とされ、これを古スサノオ(第一のスサノオ)とする。

スサノオ神話の一つにヤマタノオロチ征伐がある。治水や製鉄の象徴ともされるが、ここでは出雲地域のムラを統合してクニへ、そして出雲勢力へと統合していく過程を表したものと考える。

それは数世代にわたるものであったろうし、形態も和戦両様であっただろう。それでも麻の如く乱れた地域を一つの勢力としてまとめ上げる過程があり、それを一柱の英雄神に仮託した神話がヤマタノオロチ征伐ではなかったか。

出雲の神は基本的に龍神であり、オロチ征伐は出雲系神話としては異質だが、多く(八つ)の蛇を殺して地域を平定する過程と見れば矛盾はなくなる。

この英雄譚は古スサノオの事跡に帰せられ、ここに英雄神としての原スサノオ(第二のスサノオ)が現れる。

なお、「スサノオ」の名は元来は山間の小村である須佐郷で信仰されていた神の名であって、クシミケヌとは起源が異なる。もしかすると、この統一戦争で大きな力を果たした須佐郷出身の人物が実在し、その影響でスサノオとクシミケヌが同一視されるようになった、という想像も可能である。

後世、天孫系神話にスサノオを組み入れる際、三貴神の一柱としてアマテラスと同格とされた。古代出雲の勢力はそこまで大きかったのであろう。

そのスサノオがどうして出雲の祖神となったのか。それを説明するのが神逐である。つまり、さんざんやらかして追放されたから出雲にいったということ。「英雄神なんて言っているが、俺達から見れば犯罪者だぜ」という話を後付で盛ったわけで、ひどい話ではあるが、歴史を語るのは勝者の特権であるので責めても詮無いことである。こうして稀代のトリックスターたる現在のスサノオ(第三のスサノオ)が出来上がった。

神逐の中に岩戸隠れの挿話があるが、おそらくこれは本来スサノオと関係なく、アマテラス固有の神話であろう。太陽が隠れ、それを復活させる(太陽の死と再生)神話は類型として数多い。スサノオ固有のヤマタノオロチと、アマテラス固有の岩戸隠れを結びつけるのが神逐である。

視点を出雲に戻すと、スサノオが統一した出雲を受け継ぎ、発展させたのがオオクニヌシである。このオオクニヌシの時代が出雲勢力の最盛期だった。いや、出雲勢力の最盛期を神話として表現したのがオオクニヌシというべきか。

この時代、日本は交易や交流はあったにしろ、出雲勢力、近畿勢力、九州勢力の政治的な統合はできていなかった。各勢力はそこまで成熟していなかったし、海や山を越えて支配権を行使できるわけでもない。

出雲は「最も発達した地域」としての地位は確立してはいたが、出雲が日本を統治していたわけではない。

天叢雲剣が出雲から近畿に渡ったのはこの時代であろう。神話では弟が姉に献上したことになっているが、当時としては出雲が格上である。君臣関係や同盟関係ではなく、友好の印という位置づけの進呈だったのだろう。

奈良の大神神社は出雲系の祭神であるが、これもこの時期近畿が出雲の影響下にあった証左であろう。荒神谷遺跡に見られる繁栄ぶりもこのころと思われる。

しかし、出雲勢力はその後急速に没落し、精神上の聖地として意識されるだけになってしまう。これを反映した神話が国譲りである。

国譲りを近畿勢力と出雲勢力の武力衝突と捉え、出雲が近畿の支配下に落ちた事件と捉える向きもあるが、そもそも国譲りは神武天皇以前の「神話」として位置づけられている。

実際に武力衝突があったのなら、それは神武天皇以降の「歴史」として記述されたはずである。出雲の没落は近畿勢力と無関係に起こったもので、天孫系神話ではそれを自らの支配の正統性の証拠として記述したのであろう。

国譲りの後、九州系の高千穂神話を挟んで神武天皇の事跡に入る。神武天皇は、近畿地方から見れば「西から来て、近畿を平定した」という人である。神武天皇とは近畿のムラやクニを統一して近畿勢力をまとめ上げた過程を一人の英雄に仮託した存在ではないだろうか。出雲にとってのスサノオが、近畿にとっての神武であるという見立てである。神話と歴史とでだいぶ時代が違うが、実際には両者の統合過程の時期はそんなに離れたものではなかっただろう。

近畿を統一し、国力を蓄えた後、全国統一に乗り出すのが崇神天皇である。これ以降の全国統一の過程を仮託されたのがヤマトタケル。日本の各地域が政治的な統合を果たすのはこの時期だろう。ヤマトタケルはクマソタケルを征伐するが、これは近畿勢力が九州勢力を支配下に置いたことを意味する。その帰路、ヤマトタケルはついでのようにイズモタケルを殺害するが、出雲勢力が近畿勢力の支配下に落ちたのもこのころであろう。日本書紀にはこの挿話すらない。没落して久しい出雲勢力が近畿勢力に対抗できるはずもなかった。

しかし出雲は精神上の聖地として宗教的権威だけは残っていた。出雲大社の創建は、実はこのころではないか。

出雲を支配下に置いた近畿が、その宗教的権威を組み入れるため、財を尽くして作り上げた神社、それが出雲大社である。出雲大社は神紋に花菱があることから分かるように、天孫の影響が色濃い神社である。近畿勢力に下った出雲の豪族が、近畿の代理人として祭祀を司る。代理人である出雲国造家は元々神魂神社の一帯が本拠であり、ここは意宇川流域で熊野大社とも近い。出雲国造家の始祖が出雲勢力の中核をなす一人であったとすれば、それも当然だろう。

数世紀後、記紀が編纂される際に出雲大社の創建はヤマトタケルの時代から国譲りの時代にまで引き上げられたのだろう。ヤマトタケルの時代の後、近畿勢力は国内を平定して大陸との外交に乗り出す。倭の五王である。

2018/7/14 未完

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