「おやじグラフィティ」で見せた対話の可能性から打ってかわって、ディスコミュニケーションモデルの作品。

好意も悪意も、その人自身ではなく幻想のフィルターを通したもの、というテーマは何度か見られたが、ここでは相当意地の悪い形で表れている。

しかし、そのディスコミュニケーションを誤ちとして対象化した作品ともとれるわけで、今後の見通しは不透明だ。

あるいはこの作品を蛹の時期として評価するべきか。

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