「魂が・・・そこから動けない」

  50年前のまま犬夜叉を憎しみ続ける桔梗。裏陶により復活した桔梗の想いは
 50年前のまま、変わることはありません。
 桔梗は永遠の時の中に犬夜叉への想いを封じられてしまっているのです。

 るーみっくには、この「想いを封じられたまま時をさすらう」というモチーフ
 が重要なファクターとしてくり返し登場しています。


 たとえば、『めぞん一刻』の音無響子を挙げることができます。彼女の惣一郎
 への想いは、惣一郎が死んだその時で止まっています。
 五代の「死人は無敵だ」という述懐も、このことを言っているのでしょう。
 彼女もまた、永遠の時に封じられた女性なのです。

 そして、この構図は『らんま』の中にも見てとれます。
 「鏡らんま」編の大鏡は「ナンパしまくりたい」という令嬢の想いが封じられ
 たものであり、コミカルな描写ながら「私は永遠にひとりぼっち」という言葉
 は一抹の寂しさを感じさせるものでした。
 他にも、「夏彦さんにほめてもらいたい」という想いをずっと持ち続けた
 水着も桔梗や響子と同じ苦しみを持つ存在といえますし、以前に考察した呪泉
 郷の呪いもこの延長上にあります。
 すなわち、呪泉郷の呪いは泉で最初に溺れ、死に直面した者の強い生への想い
 が呪泉の水を媒介にして泉という場に焼き付いたもの、という考え方で、これ
 に従うならば1500年前に溺れた若い娘の想いは、今もらんまの中に封じら
 れたままなのです。

 この「永遠の時に封じられた想い」というテーマをもっとも典型的に表現して
 いるのは、言うまでもなく人魚シリーズです。
 妹への復讐に自らを封じた登和。赤い谷で永遠に湧太を待ち続ける苗。
 彼女たちの苦しみは「無常の中の常」という仏教が唱える苦しみの根源に触れ
 るものなのかもしれません。

 この「永遠」に対し、湧太と真魚は「飽きるまで生きてみるのも悪くない」と
 言うことによって、響子は彼女の永遠を受け入れる五代によって救われます。
 いわば、ニーチェのいう「永遠回帰」を受け入れる「肯定」によって救われる
 のです。
 しかし、桔梗にはこの方法をとることはできません。

 死魂を食らわなければこの世にいられない桔梗は、反魂の術によって蘇り、
 生き胆を食わなければ生きられないなつめと同じく、決して祝福され得ない
 存在です。
 桔梗の「永遠」を終わらせるためには、かつてなつめや登和がそうしたように
 犬夜叉と共に滅びるしかないのでしょうか。

 桔梗が彼女たちと同じ道を歩まないためには、やはりかごめがその鍵となるで
 しょう。陰と陽に分かたれたお互いがどちらも自分自身であることを知った時、
 すなわちかごめが自分が自分であるわけを知り、本当の自分にめぐりあった時、
 桔梗の「永遠」も終わりを迎え、おそらくは『忘れて眠れ』の若苗のように
 かごめの中へと還っていくはずです。

 それがこの旅の終わる時ならば、かごめの旅は今まさに始まったばかりなのです。

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