日常的日記
2005年12月31日(土)
コミケ 69
2005年12月26日(月)
ジャンプ 04・05号
氷姫奇譚
やはりこの路線か……反動で違うもの描きたいとか思わないんだろうか?
まぁ 今のジャンプはお色気担当が少ないから(リナリーの美脚フラッシュくらいか?)、早く復帰したほうがいいとは思うが。
しかし、これ全然連載向けの企画じゃないなぁ。ジャンプの読み切りで連載意識してないってのも珍しい。
暖めてる企画でもあるんだろうか? ジャンプでは「作家が長年暖めた企画はコケる」ってジンクスがあるの知らんのか。
内容としては、真相バラシの部分が曖昧過ぎてまとまり切れてなかった。
姫が殺されたのと男が逃げたのと住民虐殺の時間関係も解らんし。
べしゃり暮らし
うわ めっちゃそば屋やる気や……
お笑いに命かけてるけど、プロになる気はないって、どーゆー考えだ。
自信がないってことはないだろうし、そば屋継ぐのが当たり前で考えたこともないってことか? 無理がある…
進路で悩む高校生ってのは等身大のキャラなんだろうけど、ジャンプのメイン読者って高校生ではないよなぁ。
サンデーかマガジンに行ってるから。あとはヤンジャンとかか。
ジャンプの高校生って「ヒーローのお兄さん」だから、こーゆー生々しさはやっぱ浮いてるわ。
2005年12月25日(日)
マンガは今どうなっておるのか?
マンガは今どうなっておるのか? 夏目房之介 メディアセレクト
2005年9月初版。
ヲタク論としては、「読者作者共同体」というテーマで取り組んでいるようだ。
アニメやゲームは個人で製作するのがほとんど不可能になっているし、マンガも編集者やアシスタントは勿論、読者アンケートやキャラの人気投票で出番の量や展開まで左右されるという状況では、芸術が個人の精神の内面を表現する、というロマン主義的なモデルは通用しないだろう。
ただ、ヲタクというのも意外と保守的なところがあって、ジャンプでも「編集の介入」が諸悪の根元のように言われた時期があった。
「ドラゴンボール」末期から「幽遊白書」終了時の混乱が頂点で、
野火ノビタ氏の立場が典型的なものだろう。
「作家主義>商業主義」は根強いもんで、現在でも
赤松の評価が低いのはこのへんに起因している。
もう少し広げると、共時代的には作品が生まれた「現在」の空気を反映するし、通時代的には先行作品の影響を受けているだろう。
だが、別にそれは昨日今日始まった話ではない。編集やアシスタントは週刊連載のシステムと表裏一体だし、さいとうプロの分業システムも目新しい事項ではない。
さらに言えば、「個人の精神の内面」そのものにしたって、単に生まれてから現在までの「記憶の集合」に過ぎないという思想史的立場も存在する。記憶を完全に移植すれば人格をコピーできる、というSFのアイデアもあるし、そうすると「オリジナル」自体もともと存在しないとも言える。
むしろ「現在」の状況として特筆すべきは、かつては共有されていた「歴史」や「時代の空気」が細分化されてしまったということではないか。
「マンガしか読まないやつがマンガ家になるな」とは言うが、今はマンガを網羅的に読むことすら不可能だ。
腐女子と萌えヲタでは先行作品という「歴史」も違うし、感じている「時代の空気」もまったく別だ。
おそらく、夏目氏が感じている我々とのギャップ以上の文化格差があるのではないか。
結果として、「種死」や「テニプリ」など、一つの作品を見ているのに感想が正反対という事態が生じる。
文化が細分化されれば母集団の構成人数は減るし、同時に、交わされる情報量は格段に増えているので、集団としての濃度は飛躍的に高まる。この段階が氏のイメージする「読者作者共同体」であり、この延長上に『電車男』を生んだ「個にして全、全にして個」という共有的無意識があるのだろう。
2005年12月22日(木)
テヅカ イズ デッド
テヅカ イズ デッド
伊藤 剛 NTT出版
2005年9月初版。現時点で最も新しいマンガ論の一つだろう。
面白いのは、マンガ評論に既に「論壇」が出来かかっていること。これからは些細な違いを元に自分を差別化し、派閥を組み、主導権争いのために足を引っ張り合う泥仕合へとなだれ込んでいくのだろう。いいことだ。
本書では『動物化するポストモダン』の「物語の終焉」を受けて、物語の中で一定の働きを果たす人格を「キャラクター」、物語以前に一定のアイデンティティーを以て描かれた存在を「キャラ」と定義し、現在の「萌え」はテキストから「キャラ」が自律化したことに起因するとしている。
これは人格が物語に従属し、物語に貢献することによって価値を与えられた「モダン」のモデルから、全てに価値付け、意味付けを与える唯一の物語が消失した「ポトモダン」への移行を模しているといえる。
氏が「キャラ」を定義する際、内面ではなく「絵」のレベルによって行ったのも理性よりも肉体を重視するポストモダンの文脈に沿っているのだろう。勿論、内面を描くと必然的に「ドラマ」や「物語」になってしまう、という事情もあったのだろうが。
だが、「萌え」の対象は必ずしも「絵」であるとは限らない。絵がないライトノベルのキャラに萌えることも可能である。
挿し絵が全くないライトノベルも存在するし、すべてのキャラに絵がつくとは限らない。そこにも「萌え」は成立するのだ。
元来、ポストモダンにおける肉体性は単なる物質としての肉体ではなく、盲目的な生を求める「内なる野生」としてのものだった。「キャラ」概念が一元的な物語支配から脱却し、キャラそのものに価値を見いだすことを目論んでいるのだとすれば、その根拠を「絵」のレベルに求めるのには無理がある。
私の意見では、物語から自律する根拠は「絵」ではなく「設定」に求めることができる。
だいたい、ヲタクとは「設定」が大好きな生き物である。
これがSFファンの時代は「世界設定」だけだったが、『キン肉マン』の時代には「ぼくのかんがえた超人」という「キャラ設定」が成熟しているし、今でもヲタクが作る作品はファンタジーの世界設定とやたら最強なキャラ設定で埋め尽くされている。
果ては作品に全く現れてこない「裏設定」が作品自体よりも大きくなっしまうケースもあるほどだ。
この「キャラ設定」は外見だけでなく、性格、生い立ち、特殊能力、その他もろもろを含む。
東の言う「データベース」が成立するのはこのレベルであり、筆者の言う「キャラ」もここで成立するものだろう。
これらの「設定」は作品開始の時点で与えられるもので、時間によって変化しない。
それに対し「物語」はなんらかの「変化」を意味する。
主人公が成長したり、目標を達成したり、あるいは歴史そのものだったり。
だが、作品を統括する「本筋の物語」がなくなった萌え系作品には「設定」しか残っていないかと言えば、そんなことはない。
設定として与えられた「行動原理」を持つ個々のキャラ同士の関係が永劫回帰の中で描かれるのが現在の萌え系作品である。
当然、「物語」−「関係」−「設定」の境界は明確なものではなく、それぞれ浸食しあっている。
「ツンデレ」も元々は関係のあり方だったのが属性として「設定」化した例だろう。
本書では、「萌え」そのものについての考察はほとんど行われていない。
世代的にも、筆者本人は「萌え」の渦中にはいないのではないか。
2005年12月18日(日)
こどものじかん 二次元美少女論 感想
こどものじかん 1巻 私屋カヲル 双葉社
4コマ誌で猫愛漫画を連載している作者だが、ペット萌えとロリ萌えにこれほど親和性があるとは思わなかった。
オフェンシブツンデレの完成型とも言えるりんはまさに猫系少女の典型である。
少女に翻弄される男主人公という構図は、
にったじゅん作品にデレ分を加えて強化したものと言えるだろう。
元来萌えは「保護したい」という感情と「癒されたい」という感情が表裏一体となった相互依存関係と規定できるが、前者は「嗜虐心=サディズム」を、後者は「被虐心=マゾヒズム」を裏に秘めた感情である。
萌えとはこれら4者の互いに矛盾した感情の相克なのだ。
萌え系作品が常に「死の影」を「毒」や「鬱」として孕むのはこのためであり、『灰羽連盟』はそれを最も洗練された形で表現し、『エルフェンリート』は最も露悪的な形で表現したと言える。『Gunslinger Girl』はちょうど両者の中間点だろうか。
『こどものじかん』においては「保護欲」と「マゾヒズム」が前面に出ているが、この「無垢であると同時に残酷である」という二面性は萌えそのものが持つ二面性の表現として重要なモデルとなるだろう。
この作品が成人向けでなく一般向けとして出版された事実に、大きな驚嘆と拍手を贈りたい。
二次元美少女論 吉田正高 二見書房
初版は2004年9月。二次元美少女の歴史を属性別に考察した本書であるが、現在の最重要キーワードである「ツンデレ」は影も形も見えない。僅かな期間でこれほど人口に膾炙した概念も珍しい。
本書で取り上げられている属性は「甲冑」「メカ」「パイロット」「格闘」「アイドル」「ゲーセン」の6種に、「メイド」「ネコミミ」「触手」等への言及が加わる。
気がつくのは、これら美少女の属性はそのままその美少女が登場する作品の属性となっている点である。
すなわち、かつては一つの作品に登場する美少女は一人かせいぜい二人であったのが、現在では一つの作品に多数の美少女が登場し、それらのキャラクター間の差別化のために「属性」が使われているということである。
本書における「属性」概念は現在的な意味での萌え系作品が確立する以前を基準としており、勢い、「萌え」に対しては批判的な立場である。
「萌え」をキャラクターの類型化・記号化と見て、ストーリー性・ドラマ性の欠落を批判する立場は「動物化するポストモダン」の
東浩紀氏と同様であり、ヲタク第一世代の視点を代表するものであろう。
だが、類型化・記号化はジャンルが成長すれば必然的に起こるものであるし、物語という長い歴史を背負っている以上、漫画やアニメは初めから類型化の危険の中にある。
多くの作品が類型を脱しきれず駄作として忘れられる一方、僅かの例外が類型の中から卓越した個性を表現するのであって、これはいつの時代も変わらない。
さらに、ストーリー性・ドラマ性の欠落がそれ自体では批判の対象とならないことは本稿で繰り返し述べてきた通りである。
「単一の主人公による成長物語」が無くても作品は成立するし、中心となる主人公が欠落してそれぞれのキャラクターが属性を以て「差異の体系」を構成する、という「脱中心化した多極的ネットワーク構造」とも言うべき作品は極めて大きな可能性を持っている。
美少女文化の形骸化を嘆く本書であるが、現在の美少女を要素に分解して、「この要素は以前にもあった」と言うことはどんな要素についても可能だ。(無論、源流を探る研究には大いに価値がある)しかし、それでは新しい属性を創造することなど不可能だし、事実その種の試みは不毛だろう。
だが、「属性」の表現を洗練させていくことや「属性」相互の関係性の追求、さらには「属性」の根底にある「萌え」意識の本質へ迫る試み等は十分に可能であるし、現在でも注目すべき作品はいくつもある。
大切なのは、駄作を駄作と評価し(時には駄作として愛しながら)、卓越した個性を(作品としては失敗したとしても)正当に認める目を1人1人のヲタクが持つ、ということだろう。