日常的日記


2005年3月29日(火)
月詠
いまだ「萌え」がその名を与えられず、少年漫画や青年漫画の中のラブコメ描写に過ぎなかった時代を脱し、意識的に「萌え」を中心に置き始めた作品には「毒気のあるギャグ」を「萌え」と並ぶ中心として位置づけるものが多い。
代表例が『デ・ジ・キャラット』『ギャラクシーエンジェル』『シスタープリンセス』等であるが、おそらくこれは「萌え」を意識的に作品の中心に置くことを自虐的なブラックジョークとして認識しているためであり、「もえたん」等もその系譜に属すると言える。ここには「萌えている自分」と「萌えている自分を見ている自分」とが同時に存在している。

この『月詠』におけるドリフギャグもその一環であるが、ほぼすべてのドリフギャグがツッコミとして使われていたことは興味深い。
『月詠』においては「萌え」、そして作品自体がボケであり、落ちてくるタライはツッコミなのだ。この点、「毒気ギャグ」よりも効果的に「萌え」に対する免罪符となっている。

その意味で『シスタープリンセス リピュア』『苺ましまろ』等のより純粋な萌え作品はいわば「ツッコミなしのボケっぱなし」であり、それが非日常の世界に置いてけぼりにされたような前衛的な不安感を呼び起こすのであろう。
「萌え」が弛緩的な日常描写の中にあることはこれまで述べて来た通りであるが(ゆえに『もえたん2』のストーリーは「萌え」とは言えない。おそらく桑島氏は「弱いものや儚いものに対する庇護欲」を「萌え」と考えたのであろうが、それは半面でしかない。依存されると同時に自分自身も依存するという「相互依存関係」が「萌え」である。あたかも母胎内に居るような「弛緩的な永遠の日常」が「萌え」を呼び起こす理由がここにある。)、その「日常」が現実世界から見れば「非日常」というのは、なんとも皮肉な話ではないか。

2005年3月28日(月)
ジャンプ17号

ゲームブック
懐かしい。遊んでないけど、ゲームとしては面白いのか?

ユート
いかにもな子供の喧嘩が楽しい。
躁系キャラと鬱系キャラでいいコンビなんじゃないか。

HUNTER×HUNTER
ゴンと同様、雑魚キャラとの集団バトルなのに、なんでこっちは面白いんだろう。
戦闘のスピード感か、修正が入ったグロ画像のせいか、あるいは最後のスナイパーの存在感か。

武装錬金
今が旬の女装ネタ。何故に躊躇う、和月。
秋水クンだったらやったかもなぁ。

DEATH NOTE
Lやリュークを美形にしなかったのは英断だ。

ふるさと
非日常のボケキャラと日常のツッコミというのは基本通りだが、今はもう立ってるキャラが一人だけでは漫画としてもたない。
最低でも二人は同レベルのキャラがいないと。


2005年3月19日(土)
ジャンプ16号

RARE GENE 4

最近の連載プロトタイプとしては一番出来がいいんじゃないか。

一人一芸の能力バトルモノながら、トリックバトルに走らずにキャラの魅力を前面に出すあたり、読切企画でなく連載を強く意識しているのが判る。
長編展開の布石も打ってあるし、これならほとんど設定変更なしで連載できるんじゃないか。連載1話が読切版とまったく同じになるんじゃないかと心配なくらいだ。

ヒロインがバカという設定にちゃんとした理由付けがしてあったのが偉い。コメディとシリアスの二面が出来ないと長期連載は難しいのだが、これだけ理詰めで描く人ならその二面が乖離することもないだろう。

サービスシーンがショタキャラの裸というセンスは無くさないで居て欲しい。

DEATH NOTE

読切版、好評だったのか……。
連載版になって同じ作者とは思えないほど作品の方向性が変わったから、余程考えを変えたのかと思ってたが。

武装錬金

女子校に潜入……なら当然カズキも剛太も女装するんだろうな。
『パピヨン様がみてる』の世界に突入だ!


2005年3月16日(水)
マガジン16号

ネギま!

萌え系作品はそのままの自分を全肯定してくれる母性的な依存関係によって成り立つ為、主人公が成長することは有り得ない。
加えて、弛緩系の日常の中での関係が萌えを醸成してきたことを考えれば、終わりなき日常描写に特化し、物語の放棄へと趨勢が向かうのは必然であった。
連載漫画がジャンプ帝国の下で「アンケートの支持が続く限り終わらない」ものとなったことにも、「終わりが無く、いつでも終われる」というこの形式は附合していたと言える。

ここで確立したのがギャルゲー型のハーレム作品群であるが、ここにはまだ読者の視点を代理する主人公が存在していた。
だが、主人公が中心となる以上、その人間関係の構造図式は一種のハブ構造に限定されてしまう。
物語が無くなったことで主人公の存在意義が薄くなった今、主人公を取り去ることで多元連結点方式のネット構造に人間関係を進化させた作品群が現れ始めた。
それが『あずまんが』『マリみて』『スクラン』等であるが、『ネギま!』もネギが読者の視点の代理ではないという意味で同系列の作品と言える。

しかし、ネギが読者の代理で無くなることによって、逆にネギは萌え視点を持たず、真っ直ぐに少年漫画的な目的に進むキャラとして成立してしまっている。
一周して元の位置に戻ったのだが、その軌道はコイル状の螺旋を描き、一段階高い位置に『ネギま!』は立っている。
『いちご100%』の真中も映画という目的を持っているのだが、この作品はまだギャルゲー型の段階にあるため真中は読者の視点を代理せざるを得ない。映画のことばかりを考えてはいられないのだ。

赤松は「自分が求められているモノ」と「自分にできるモノ」と「自分がやりたいモノ」とをおそらく日本で最も完璧に把握している作家だろう。自らの才能と限界をここまで把握し、さらに商業的成功を挙げた上で自分の目指すものを盛り込むとは、これはある種の奇跡である。

ツバサ

さくらの無力を強調して保護欲をそそるのは少年誌仕様だろうか?

2005年3月8日(火)
waqwaq 2巻 ジャンプコミックス 藤崎竜 感想

単行本で見ると、意外に普通の少年マンガだ。

フジリューのアドバンテージはその圧倒的な画力だが、今作ではそれが逆に見にくさになって足を引っ張っている。
ジャンプの紙質では細かすぎて潰れてしまうのか、デジタル作画をマンガの文脈に乗せることに作者が慣れていないのか、読者が慣れていないのか…

ヒロインがシオ以外とほとんど接点を持たないまま表舞台から消えたのも惜しい。早めにフラン等の能動系のキャラと接点を持っておけば生かしようもあったと思うが。
もともとキャラの強さより画力による世界観の提示でツカみを狙ったんだろうが、それに失敗した時点で立て直しは難しかったか。

無機質な終末論的世界観、物語とひたすらマイペースなキャラクターはフジリュー正統だが、それだけではコアなファン以外ついてこないよなぁ。
今後は本気でウルジャン行きか?デジタルマンガの新しい地平を開く可能性を持つ、数少ない旗手なのだが。