石 川 除 (いしかわよけ) 江戸時代の土木遺構
これは、天竜川の水害から田圃を守るために江戸時代に造られた延長128間5尺(約346m)に及ぶ石造りの堤防です。文政11年(1828年)に着手し、3年後の天保2年(1831年)完成しましたが、明治までに何度か決壊、補修普請を繰り返しながら、明治元年の補修普請のものが、現在残っています。これを市が史跡指定しようと準備中ですが、それを紹介します。
実は、小生のカントリーハウス(生家)は、この石川除の起点付近にありますが、家屋の一部がこの上に建っています。これは明治24年(1891年)村境を流れる南大島川の氾濫原だったこの地(石川除の堤外地)を、曾祖父が開拓しようと、一家を挙げて入植しましたが、その際水害に対し最も安全なところということでここを利用し、そのまま、現在に至っているようです。今は埋まってしまっていますが、屋敷内に大きな石が少し見えるところがあります。子供の頃はこの大きな石畳みが、家への通路でした。江戸時代に造られた、天竜川の石の川除けは、現在この地方ではここしか残っていないようです。
石川除断面図
起点、着工した年、古文書によりますと、”長18間、巾2間半、9尺の水門、井蓋共出来上る”との記述がある水門です。この川は、76年前の宝暦2年(1752年)、上流約2.5km遡った市田出砂原(現、高森町)に築造された、惣兵衛堤防と同時に、天竜川から取水し、水田を開発するために開鑿された大井という用水の下流で、わが村では内井と呼ばれています。この用水は、さらに下流の隣村まで続き、総延長約6km、この地方有数の美田を潤しています。
水門は上下流とも9尺(約2.7m)の石が架設されています
(上流側)
(下流側)
石川除の形状が良く残されている部分です。堤外地は企業が立地し埋められていますが、
かっては田圃でした。
水門に架かる9尺の石や、ここに積んである大きな石は、どこで調達し、どうして運搬し、どのように張りつめたのか、残念ながら工事の記録はなく定かではありません。お城の石垣を積むことと比較すれば、規模は小さいですが、水との闘いが大変だったと思われます。
天保2年(1831)古文書に”長60間1尺、中水門1ヶ所あり、石川除128間5尺出来上り、皆大悦”
と記された中水門が飯田市教育委員会によって発掘されました。古地図によれば、大嶋川、天龍井が
この水門に流入していますが、曾祖父の開墾によって、大嶋川は東に、天龍井(用水路)は石川除けの
終点部に付け替えられ、用水路はその名をとってか、中水門と現在も呼ばれています。
平成24年12月1日石川除の現地見学会が行われました。
石川除に守られた水田地帯。
右の写真の高い山は、市のシンボル、風越山(標高1535m)です。