妄想幕末風雲録 − 6


話の続きの関係で掲示板のままコピーした部分もあります。 アイ


田安家・一橋系 投稿者:kazuya 投稿日:2004/12/06(Mon) 07:17 No.368  

← 春嶽公
徳川慶喜のあと宗家を継いだ徳川家達(いえさと)公は、田安亀之助と言いこの方は一橋系の継承者でありました。
勝もこの方については大事に思って接していたようですが、御三卿の田安家のいわれを言えば、ご承知のように八代将軍家の吉宗の次男の田安宗武が創始者であり、この方の八男が奥州白河の久松松平に養子に出された松平定信公です。
田安家は六男の治察(はるあき)が継ぎましたが跡継ぎがありませんでした。
田安家からはもうお一方、七男の定国(さだゆき)が伊予松山の久松松平の九代目当主として養子に出されました。
跡継ぎがすべていなくなった田安家は徳川(一橋)治済(はるさだ)の五男の徳川(田安)斉匡(なりまさ)を養子に迎え入れたのです。
11代将軍は治済の長男の家斉が継ぎ、一時はこの家斉の子が代々の清水家当主となるなど(後に水戸系が継承)一橋系の独占状態が続きました。
七代目の亀之助の家系をさかのぼれば→五代目徳川(田安)慶頼(よしより)の次男→三代目徳川(田安)斉匡(なりまさ)の五男→二代目徳川(一橋)治済(はるさだ)の五男→徳川(一橋)宗尹の四男→八代将軍徳川吉宗(よしむね)とさかのぼれます。
田安家は亀之助{家達(いえさと)}のあと父親の徳川(田安)慶頼が再承し五男の徳川(田安)達孝(さとたか)に引き継がれました。
徳川達孝 生没年:1865-1941
田安家当主 伯爵 貴族院議員 侍従長 学習院評議員
父:田安徳川家五代、八代当主 徳川慶頼

蛇足ながら紀州家は十三代徳川慶福(よしとみ)が十四代将軍家茂となったあと伊予西条藩主松平(紀伊)頼学(よりさと)の七男の徳川茂承(もちつぐ)が継承しました。
これでこの家系は初代家康の十男の徳川頼宣(よりのぶ)の系譜に戻りましたが跡継ぎに恵まれず、田安家より養子として頼倫を娘の久子に娶せました。

徳川茂承
生没年:1844-1906
父:伊予西条藩九代藩主 松平頼学
義父:征夷大将軍 徳川家茂
幼名:孝吉、賢吉
松平頼久
1858-1869 紀伊和歌山藩十四代藩主
-1906 紀伊和歌山藩元藩主家当主
従二位 大納言
第一次長州征伐総督
1865 第二次長州征伐先方総督
1869- 和歌山藩知事
侯爵
正室:倫宮 則子(父:伏見宮 邦家親王)
久子(夫:侯爵 徳川頼倫)
保子(夫:西条松平家当主 松平頼和)
妻:溝口広子(義父:溝口直溥)
1872-1925 (養子)頼倫
徳川頼倫
生没年:1872-1925
父:田安徳川家五代、八代当主 徳川慶頼

ところで前にも出たことのある春嶽公も田安家の出ですね。
驚いたことに54才・56才にもお子様を作られています。
お元気なものです。
松平慶永(春嶽)
生没年:1828-1890
父:田安徳川家三代当主 徳川斉匡
義父:越前福井藩十三代藩主 松平斉善
幼名:錦之丞
1838-1858 越前福井藩十四代藩主
1851 従四位上権中将
1862 幕府政事総裁職
1864 京都守護職
内国事務総裁 議定 民部卿 大蔵卿

1836-1890 (養子)茂昭
1882-1948 慶民 お子様は大正4年生まれの松平永芳さん元靖国神社宮司(この方はまだご存命のようですが詳細不明としておきますが、旧掲示板に関連のあることを載せておきます。)
1886-1976 義親(尾張徳川家へ)


Re: 田安家・一橋系 kazuya - 2004/12/06(Mon) 22:03 No.371  

← 家達公 後年の写真は見た覚えがあるのですが手元に今無いのです。
徳川家達
1863年8月24日(文久3年7月11日)生
1940年6月5日 (昭和15年)死亡
bR68のところがわかりにくいので書き直しました。
八代将軍徳川吉宗(よしむね)の次男→徳川(一橋)宗尹の四男→二代目徳川(一橋)治済(はるさだ)の五男→三代目徳川(田安)斉匡(なりまさ)の五男→五代目徳川(田安)慶頼(よしより)の次男→七代目の亀之助と家系をさかのぼれます
1869年 静岡藩知事
1884年(明治17年) 公爵
1889年(明治22年) 貴族院議員
1898年(明治31年)〜1944年(昭和19年) 華族会館館長
1903年(明治36年)〜1933年(昭和8年) 貴族院議長
1914年(大正3年)、シーメンス事件が発覚して山本権兵衛内閣が総辞職しました。
そして総理大臣にと組閣の大命をうけたのですが、家達は一族会議を開いた上で、固辞し徳川家達首相は幻になってしまいました。
1921年(大正10年)11月12日〜1922年(大正11年)2月6日
ワシントン会議日本全権団に参加しましたが、条約の内容が(イギリス・アメリカ・日本の海軍主力艦保有比率を10:10:6にするとの条約を締結しました)
国民の不満(軍部と新聞社の煽りもあったので)を招きました。
1929年(昭和4年)11月、第6代日本赤十字社社長に就任
1934年(昭和9年)アジア初の国際会議である第15回赤十字・赤新月国際会議の東京開催に尽力しました。
1935年(昭和10年) 第12回国際オリンピック大会招致委員会会長
1936年(昭和11年) IOC委員(杉村陽太郎の後任)
1939年(昭和14年) IOC委員辞任

そのほかにも明治の終わり頃に東京府知事に(市長・どっちだか今手元に資料がありませんので覚えてないのですが)立候補を頼まれましたが断っています。





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