← 春嶽公
徳川慶喜のあと宗家を継いだ徳川家達(いえさと)公は、田安亀之助と言いこの方は一橋系の継承者でありました。
勝もこの方については大事に思って接していたようですが、御三卿の田安家のいわれを言えば、ご承知のように八代将軍家の吉宗の次男の田安宗武が創始者であり、この方の八男が奥州白河の久松松平に養子に出された松平定信公です。
田安家は六男の治察(はるあき)が継ぎましたが跡継ぎがありませんでした。
田安家からはもうお一方、七男の定国(さだゆき)が伊予松山の久松松平の九代目当主として養子に出されました。
跡継ぎがすべていなくなった田安家は徳川(一橋)治済(はるさだ)の五男の徳川(田安)斉匡(なりまさ)を養子に迎え入れたのです。
11代将軍は治済の長男の家斉が継ぎ、一時はこの家斉の子が代々の清水家当主となるなど(後に水戸系が継承)一橋系の独占状態が続きました。
七代目の亀之助の家系をさかのぼれば→五代目徳川(田安)慶頼(よしより)の次男→三代目徳川(田安)斉匡(なりまさ)の五男→二代目徳川(一橋)治済(はるさだ)の五男→徳川(一橋)宗尹の四男→八代将軍徳川吉宗(よしむね)とさかのぼれます。
田安家は亀之助{家達(いえさと)}のあと父親の徳川(田安)慶頼が再承し五男の徳川(田安)達孝(さとたか)に引き継がれました。
徳川達孝
生没年:1865-1941
田安家当主 伯爵 貴族院議員 侍従長 学習院評議員
父:田安徳川家五代、八代当主
徳川慶頼
蛇足ながら紀州家は十三代徳川慶福(よしとみ)が十四代将軍家茂となったあと伊予西条藩主松平(紀伊)頼学(よりさと)の七男の徳川茂承(もちつぐ)が継承しました。
これでこの家系は初代家康の十男の徳川頼宣(よりのぶ)の系譜に戻りましたが跡継ぎに恵まれず、田安家より養子として頼倫を娘の久子に娶せました。
徳川茂承
生没年:1844-1906
父:伊予西条藩九代藩主 松平頼学
義父:征夷大将軍 徳川家茂
幼名:孝吉、賢吉
松平頼久
1858-1869 紀伊和歌山藩十四代藩主
-1906 紀伊和歌山藩元藩主家当主
従二位 大納言
第一次長州征伐総督
1865 第二次長州征伐先方総督
1869- 和歌山藩知事
侯爵
正室:倫宮 則子(父:伏見宮 邦家親王)
久子(夫:侯爵 徳川頼倫)
保子(夫:西条松平家当主 松平頼和)
妻:溝口広子(義父:溝口直溥)
1872-1925 (養子)頼倫
徳川頼倫
生没年:1872-1925
父:田安徳川家五代、八代当主 徳川慶頼
ところで前にも出たことのある春嶽公も田安家の出ですね。
驚いたことに54才・56才にもお子様を作られています。
お元気なものです。
松平慶永(春嶽)
生没年:1828-1890
父:田安徳川家三代当主 徳川斉匡
義父:越前福井藩十三代藩主 松平斉善
幼名:錦之丞
1838-1858 越前福井藩十四代藩主
1851 従四位上権中将
1862 幕府政事総裁職
1864 京都守護職
内国事務総裁 議定 民部卿 大蔵卿
1836-1890 (養子)茂昭
1882-1948 慶民
お子様は大正4年生まれの松平永芳さん元靖国神社宮司(この方はまだご存命のようですが詳細不明としておきますが、旧掲示板に関連のあることを載せておきます。)
1886-1976 義親(尾張徳川家へ)