一家に一台
先ほどから休むことなく話しているのは、みち子さんである。最近、やっと名前を覚えた。歳は五十代後半であろうか。私とそんなに変わらないと思う。
「私が階段から落ちて、息が詰まって動けないでいると、『じゃまだ』って蹴飛ばしたのよ。分かるでしょ、どんな亭主か」
私は、
「そりゃ、ひどい」
と、相槌を打つ。
同席しているもうひとりのおばさん、みどりさんと、おじいさんに片足を突っ込んだばかりの春治さんは、黙って聞いている。おそらく、もう何回か聞かされた話なのだろう。わたしはこの仲間には新参者である。
「何回お膳をひっくりかえされたことか」
「怒ればいいのに」
と、私は受ける。
「そんなことしたら何されるかわからないでしょ」
「そうなんだ」
「反対に一回だけお膳をひっくり返してやったことがあったの。気持ちよかった。片づけが大変だったけどね。息子はやさしいの、よく手伝ってくれるし、いつも、お母さん、お母さんて気遣ってくれるし。もう自立しているから、こうやってひとりで何とかやってるのよ」
みどりさんが「ほっ」とため息をつくのが聞こえる。
それで、「娘さん、最近どうなの」と水を向ける。
「就職が決まったから少し落ち着いてるの」
「よかったね」
「いっときほど暴れなくなっただけ。昨日も、私をじゃまにしてるとか、のけ者にしてるとか、子どものころから私のこと嫌ってたとか、怒鳴るの、あんまりしつこいから逃げ出そうとしたら、出かけられないようにハンドバックを隠してあるのよ」
「ちゃんと計算してんだ」
「そう」
「全面対決しかないね」
「だめよ、そんなことしたら家じゅうめちゃめちゃにされちゃう」
「そうか、どうしょうもないんだ」
「そうよ、」と、みち子さんが口を挟む。
「私だって何回か反抗したわよ。そのたびに、お膳はひっくり返す、殴るは、蹴るはよ。できないわよ」
「そっか。うちはそれがないだけまだましか」
「そうよ」と、みどりさんが言う。みどりさんとは長い付き合いなので、お互い、少しは家庭の事情を知り合っている。ほかの二人とはみどりさんの紹介で知り合ったばかりだ。
「まあ、一家に1台だね」
と、わたしは冗談めかす。誰も相づちを打たない。それで、
「だんなさんは早く帰ってくるようになったの」
と、ちょっと途切れた会話に、接ぎ穂を探す。
「日曜休めるようになったの」
「よかったな」
「このごろ髪が生えだしたの。女性ホルモンが増えたのかしら」
急に笑顔で話す。
「そりゃ、たいへんだ。よそで、女性ホルモン仕入れてたりして」
と、笑いながら茶化す。
「それも田植えじゃなしに、草原よ。絶対女性ホルモンのせいよ」
ニコニコ話す。
「みどりさんのだんなさんはいい人だから」
みちこさんが言う。
「みどりさんちは仲がいいからうらやましいよ」
春治さんもニコニコ言う。
「さて、犬の散歩の時間だ。ニコニコ迎えてくれるの犬だけだからな。だいじにしなくちゃ」
私はコーヒー代を置くと一人喫茶店を出る。
ほんとに一家に一台かも、いや、お互いにそう思ってたら一家に2台かな、などと、半分まじめに考えながら、駐車場の車に向かう。
2006年1月6日