へいこく雑記帖



光速度不変の原理を考える

 

著者 田 敞

 特殊相対性理論の根幹になる原理は光速度不変の原理です。それについて考えてみます。

光速度不変には二つの理論があります

@ 光は何ものにも光速度である

A 光は光源の速度に影響されない

コメント

@とAは似ているようでまるで違う原理です。どちらかというと反対の原理です。

@は、光は当たる物質の速度に100%影響されるという原理です。Aは、光を出した物体の速度に100%影響されないという原理です。似て非なるものです。本当は似ているところなど一つもありません。相対論者はこの二つを何故か同じ原理のように述べています。なぜでしょう。

T @ 光は何ものにも光速度である、について

 どのように動いている物質に対しても光は常に光速度であるということです。

 物質どうしの間では、速度に応じた相対速度が存在する。ところが、光と物質の間では必ず光速度という一定速度になるというのです。物質同士とは正反対の現象です。

考察1 マイケルソン・モーリーの実験

 この証拠として云われている実験が、マイケルソン・モーリーの実験です。

 この実験について考えてみます。

(1)マイケルソン・モーリーの実験を否定する観測。宇宙背景放射。

 宇宙背景放射が人工衛星により観測されています。この光は宇宙全域から地球に降り注いでいるマイクロ波です。この観測によると、地球の進行方向からくる光(マイクロ波)は青色偏移し、後方からくる光は赤方偏移しています。動いている人工衛星に、やってくる方角によって光の周波数が変わるということです。

ところが、マイケルソン・モーリーの実験は、地球と共に動いている実験機器に対してどの方向から来る光も周波数は変わらないという結果でした。背景放射の観測と、マイケルソン・モーリーの実験は相反する結果になっていますどちらが正しいでしょう。そのことについて次に考えてみます。

ア 検証実験

宇宙背景放射の観測は、時間を置いて打ち上げられた2機の観測衛星で観測されました。2機目の衛星の観測は最初の衛星の観測の検証観測だといえます。

一方 マイケルソン・モーリーの実験は検証実験が行われていません。

イ 信頼度

星の光の赤方偏移や青方偏移は、星や銀河の速度を観測するために使っています。系外惑星の探査に使っているのが有名です。この本にある、双子性の運動方向を見るためにも使っています。星の光の偏移を観測する技術は確立していると言えます。

それに対して、マイケルソン・モーリーの実験は他にはほとんど使われていません。同じ原理で、重力波の検出に使われていますが、検出するものがちがっているので、同じとはいえません。

また、マイケルソン・モーリーの実験は、非常に精密な技術が必要とされる実験です。同じ理論を使った現代の重力波観測装置も、数キロメートルの大きさの装置を作り、半年以上もの調整が必要だったということです。この原理で正確に計るというのは非常に困難だということです。現代の科学技術でさえそうなのです。マイケルソン・モーリーの実験が微妙に間違っていたとしても、仕方がないのではないでしょうか。

信用性は背景放射観測衛星の方が格段に上であるといえます。

ウ 地球と宇宙背景放射の相対速度

また、宇宙背景放射の偏移から、地球の、背景放射に対する速度が求められています。背景放射と地球が相対速度を持っているということです。地球にやってくる光は地球に対する方向によって相対速度を変えているということになります。このことは、宇宙背景放射の観測は、光は何ものに対しても光速度であるという光速度不変の原理を完全に否定する実証であるといえます。

結論

 以上のことから、マイケルソンモーリーの実験は間違いであるということが云えます。

 

問題2 光速度不変の原理が正しいとしたら。

 上に、@の、光は何ものにも光速度であるという原理を否定する観測を書いたが、現在、光速度不変の原理は、アインシュタインだけでなく物理学者の大半が認める原理です。そこでそれが正しいとした場合について考えてみます。

 この現象は、光が物質に合わせて速度を変えているのだろうか、それとも、物質が光に合わせて速度を変えているのだろうか、をまず考えます。そして慣性系と慣性の法則の関係をかんがえます。

 

考察1 物質と、光とどちらが動いているのだろうか

(1)光時計

 特殊相対性理論に光時計がある。上下に鏡があり、光がその鏡を往復するという仕組みだ。その光時計が一定速度で動いているとき、光はその時計と共に同じ速度で横滑りしながら上下している。

 このことから、特殊相対性理論では、光は物質の運動に合わせて動いて行くということが分かる。

(2)等価原理

 一般相対性理論に等価原理というのがある。重力と、加速は同じだという考えだ。一般相対性理論の根幹の考えである。

 これによると、落下するエレベーターの壁の穴から入った光は、そのとたんに、エレベーターと同じ加速度で落下するということだ。

 このことから、一般相対性理論でも、物質の動きに合わせて光の方が動くということが分かる。

(3)結果

 以上から、光速度不変が起こる仕組みは、光と物質があったとき、物質が光に合わせて動きを変えるということではなく、光の方が物質の動きに合わせるということが分かる。

 

考察2 マイケルソン・モーリーの実験を光の方が動くとして考える

 先に書いたように、この実験が光速度不変の原理が正しいことを証明した実証実験である、というのが科学者の考えだ。

 そこで考えてみる。

 この実験は二つの光が直行する場合でも、どちらの光も実験装置に対して光速度であるということを証明している実験であると言いわれている。このことから、アインシュタインの、光は何ものにも光速度であるという原理が証明されたとされている。

(1)マイケルソン・モーリーの実験の光の動き

 地球は24時間で1回自転している。すると、自転方向に直行する装置内の光は、自転方向に装置と共に横滑りしていることになる。光時計と同じ現象だ。光が動いているということだ。そうでなければ光は検出装置からはずれることになる。

 また、自転方向にまっすぐな光は往復する間に、装置が自転方向に動くから、それと共に移動しなければ、装置に対して光速度になれない。

 このことから、光は装置と同速度で移動しながら光速度で飛んでいるということが分かる。

 また、地球の自転は円運動である。すると光もまた装置の円運動と共に、円運動をしているということが分かる。自転方向に飛ぶ光の行路は地球の球面に沿って曲がって飛んだということだ。また、自転方向に直行する光は、やはり、曲がっているはずだ。光が、実験装置と共に動いているならそうなるはずだ。ということは、地球上に飛ぶ光は地球の球面に沿って飛んでいることになるはずだ。そのような現象は観測されているのだろうか。疑問である。

 装置が自転方向と斜めだったときはどうなるのだろう。光は装置と共に斜めにずれていくのだろうか。たぶんそうなのだろう。

 この他に、地球は、公転し、銀河を回転し、銀河と共に、アンドロメダ銀河に引き寄せられ、そして、それらとともに、グレートアトラクターの方向に飛んでいるということだ。これらの複雑な動きに光は忠実について行ったのだろうか。地球と共に動いているマイケルソン・モーリーの実験装置と共に光は動いたということなのだから、そういうことになったのだろう。

(2)光時計の中の光の進路

 特殊相対性理論によると、光時計の光は、光速で上下しながら、光時計と共に横滑りしていくという。外からそれを見ると、光が斜めに見えるために、光時計の時間が遅くなるということだ。特殊相対性理論の、速度によって時間が遅れる仕組みだ。

 光時計が、時速100kmで動くと、光も光速で光時計の中を上下しながら時速100kmで横滑りしていく。光時計が時速569kmで移動すると、光も光速で上下しながら、やはり時速569kmで横滑りしていくという。

 この理由は、光は慣性系に対して光速度だからということだ。だから、天井から出た光は真下の床に落ちる。床が動いていても、やはり同じところに落ちるから、光時計と共に進んでいくということのようだ。マイケルソン・モーリーの実験装置と共に光が進んで行くのも同じ現象だ。

(3)慣性系と慣性の法則

 では、どのような力が働いて光を装置と共に移動させているのだろう。

 その説明によく慣性系が使われる。光は慣性系に対して光速度であるとアインシュタインは言っている。

ピサの斜塔から鉄球を落とすと、真下に落ちる。地球が動いているのに、真下に落ちるのは、慣性系だからだということである。

地動説の反論の一つが、地球が動いていたら、人も鳥も、置いて行かれるだろうということだった。置いて行かれないのだから、地球は動いていない、だった。それに対してのニュートンの答えが慣性の法則だ。

 慣性の法則では、ピサの斜塔から落とした鉄球は、手に持っていたときにピサの斜塔の速度を持っている。鉄球はその速度を保存するという考えだ。これは物質が持つ質量によるということだ。慣性系ではなく慣性の法則だ。

この慣性の法則による物質の運動が、光時計にあてはめられている。天井から出た光は真下の床に落ちる、という考えだ。動いている船のマストから鉄球を落とすと、落としたときの真下の甲板に落ちる。というのと同じだというのだ。理由は慣性系だからということだ。

列車の中で、ボールをつくと、真下に当たり真上に上がってくるから、ボールをつくことができる。これを外から見ると、ボールは真下ではなく斜めに落ちて、斜めに上がっているように見える。実際もそうなっている。ボールは列車と共に上下しながら、進んでいくということだ。同じように、光も光時計の中を光時計と共に上下しながら進んでいくという考えだ。

 もちろん地球上でボールをつくこともできる。赤道はほぼ音速で自転している。そこでも、普通にボールをつける。自転に取り残されないのは、ボールが地球の自転速度を保存しているからだ。だから、音速で飛ぶ飛行機の中でも、時速70kmの列車の中でも、ボールをつくことができる。ボールは上下に動きながら、列車や飛行機や地球と共に動いて行く。ボールが、地球や列車や飛行機の速度からの運動エネルギーを受けとって、質量がそれを保存しているからだ。これが慣性の法則だ。

 光時計もそれと同ように光時計の中で上下しながら、光時計と共に横滑りしていくというのが特殊相対性理論だ。慣性系ということだ。

 しかし、これには大きな間違いがある。ボールは質量を持っているから、列車の速度を保存する。だから、列車と共に前進することができる。しかし、光には慣性質量がないから光時計の速度を保存することができない。光は取り残されるはずだ。これは、Aの、光は光源の速度に影響されない、という光底度不変の原理に現れている。光は光源の速度を保存できないから、放たれたとたんに光独自の速度で伝播することになる。光時計の速度には影響されないということだ。ところが、光時計の中の光は光時計の速度にぴったり一致している。光は完全に光時計の速度に支配されている。では、何の速度の影響で光時計の中の光は光時計と共に進んでいくのだろう。その理由は、慣性系だからということのようだ。しかし、慣性の法則は質量をもった物質だけに現れる現象である。質量をもたない光には当てはまらない。

 これが、質量をもたないひかりも慣性の法則と同じ動きをするアインシュタインの慣性系と、質量を持つ物資だけに作用するニュートンの慣性の法則の違いだ。

 アインシュタインの慣性系では、光は何ものにも光速度であるということから、光時計の中の観測者に光速度であるから、光は真っすぐ落ちて、真っすぐ上がる。観測者が進んでいるので、光も観測者と共に進んでいくということのようだ。列車の中のボールと同じ動きだ。しかし、書いたように、ボールはついている人の速度を、前もって受け取っていて、手から離れた後も、その速度を保存する。運動エネルギー保存則だ。質量があるからだ。そのためにボールをついている人と共に進んでいく。しかし、光は質量がないために、光源の速度を保存できない。中の人と共に進んでいくことはできない。光は光時計において行かれるはずだ。慣性系だからというけれど、中の観測者の眼力で光を連れていくのだろうか。どのような作用で、光は中の人の存在を知って、その動きの通りに進んでくのだろうか。

質量をもたないために光源の速度の影響を受けないアインシュタインの慣性系と、質量を持っているために離すところの影響を受けるニュートンの慣性の法則は根本がまるっきり異なる理論であるといえる。したがって、慣性系を説明するために持ちだしているガリレイの実験は、質量のある物質の現象だから、質量のない光に当てはめることはできないといえる。

 

 これを光時計で見てみよう。

 光時計の天井に穴をあけて、ボールの真下を光時計が通過する瞬間にそこからボールを落としてみる。ボールはどのように落下するか。ボールは光時計に触れていないから、光時計の速度をもらわない。したがって、ボールが穴を通過したときの真下の床には落ちない。ボールが落下する間に、光時計は進んでいるから、ボールは後方の床に落ちる。特殊相対論では、その間にも光は、光時計共に進んでいる。一方、光時計の天井に付けた落下台からボールを放したら、ボールはその時の真下の床に落ちる。ボールは光時計の速度をもらってその速度を保存するからだ。これは特殊相対論の光と同じ動きをするが、原理は異なる。ボールは,光時計からもらった運動エネルギーを保存して光時計と共に進むが、光は、光時計についている光源からの速度をもらう仕組みがないし光時計の運動エネルギーを保存する質量をもたないから、ボールの仕組みと異なる仕組みで光時計と共に進んでいるといえる。その仕組みは、慣性系という言葉だけで、実際の原理は不明である。

 光源の速度に影響されない光を、光時計と同じ速度で横滑りさせる仕組みや力について、アインシュタインは説明していない。慣性系だという説明もあるが、慣性系の仕組みについて説明していない。ガリレイの慣性の法則など持ちだしているが、これは光には適用されないのに、それで説明している。明らかに間違った説明だ。理由は原理だからそうなのだ、理由はいらないということだそうだ。説明できないからといって、もともと持っている原理だ、に逃げ込むのは、かなりずるいと考える。特に、形だけ似ているからといって、慣性の法則で、アインシュタインの慣性系を説明している相対論者は、間違いであるといえる。

 これと同じ原理は一般相対性理論でも使われている。

 

(4)エレベーターに飛びこんだ光の動き

 落下するエレベーターの中に壁の穴から飛び込んだ光は、どうなるか。エレベーターと同じ速度と加速度で落下する、というのがアインシュタインの一般相対性理論の考え方だ。

 理由は、光速度不変である。中の人にまっすぐ飛ぶからだといっている。その光を外から見ると、放物線を描いて落下しているように見えるというのである。

 これは、エレベーターが落下し始めたばかりで、まだ速度が遅い場合でも、落下の時間がかなり進んで、落下速度が速くなっていても、同じである。壁の穴から光が入ったとたんに、光はエレベーターのその時の落下速度と同じ速度に一瞬より短い時間でなるというのである。そして、その速度を初速度として、エレベーターと同じ加速度で落下していくというのである。これが等価原理(加速と重力は同じ)の基本であるという。

 光は、飛びこんだ時のエレベーターが時速100kmであれば、一瞬で時速100kmを初速度にして地球に向かって落下を始め、エレベーターが時速43kmであれば瞬時に落下の速度を初速度時速43kmに変える。入った瞬間、0.000001秒より短い瞬間にエレベーターの速度と同じ速度で地球に向かって落下するのである。この加速度はすごいものがある。

これは光が重力によって落下するからではない。一瞬で、エレベーターの速度と同じになってその速度を初速度として落下を始めることからわかる。光の初速度は重力で決まっているのではないから、重力とは無関係のなにかで光は落下の初速度を決めている。また、光はエレベーターに入る前は重力で落下しているとアインシュタインは言っていないことからも、重力ではなく、エレベーターの加速が何らかの原因であることが分かる。もし重力で光が落下するなら、地球上の光はすべて地球に向かって落下の法則で落下をしなくてはならないけれど、そのような現象は観測されていない。また、光が質量(動かしにくさ)を持たないからでもない。光がエレベーターに入る前と後では、光に作用するものは何の変化もない。違いはエレベーターの中に入ったか外かの違いだけだ。しかし、光がエレベーターの中に入ったからといってもそのことで何らかのエネルギーが光に作用したということはない。それでも光は一瞬でエレベーターと同速度で落下するのである。不可思議な現象である。その仕組みについて、中の人に真っすぐ進むから真向いの壁に当たると言っていたりする。光はどのようにして、壁を越えたとたんに中の人を認識すし、真向いの壁に当たるのだろう。それは述べていない。もし中の人が、3人いてそれぞれ違う動きをしているときは光はどの人に真っすぐ進むのだろう。エレベーターがよくあるガラスの壁であった時はどうするのだろう。光は壁を超える前から中の人が見えているはずだ。壁を超える前から光は落下を始めるのだろうか。

これと同じ現象がある。エレベーターの壁に銃を固定する。そこから弾丸を向かいの壁に発射する。すると、弾丸は銃口の真向いの壁に当たる。

 これは、発射前の銃がエレベーターと同じ速度で落下しているからだ、弾はエレベーターの速度と同じ速度で落下している。発射された瞬間、弾はエレベーターのその時の速度と同じ速度で落下している。だからエレベーターと弾の初速度は同じとして計算できる。弾とエレベーターは同じ速度だから、弾は真向いの壁に当たる。

光と同じ現象だ。しかし、原理は異なる。弾は質量を持っているから、エレベーターの落下速度を保存することができる。しかし、光は質量をもたないからエレベーターの速度を保存できない。弾と光は、別の仕組みで落下するということだ。仕組みは違っても現象は同じである。不思議なことだ。勿論上に書いたように、光の落下の仕組みは不明だ。

なぜそうなるのか。原因は、これが、アインシュタインの思考実験だからである。頭の中だけの空想だからである。空想なら、馬車が空を飛んだり、タイムマシーンで過去に行ったり、お化けだって、魔法だって好き勝手に空想できるのと同じだ。それが原理だからと言えば魔法もお化けも、正当化される。

現実世界で、落下するエレベーターの中で光が一瞬で時速100kmで地球に向かって落下したわけではない。頭の中だけのことだ。邪魔なことは空想しないのが相対論だ。理論に有利なことしか想像しないのが思考実験の神髄だからだ。しかし、空想と実際は違う。実際この実験は行われていない。科学なら、実験で確かめなくてはならない。それがない、そして誰もそれを行おうとさえしていない。なぜだろう。難しいから? そんなことが起こらないことを知っているからだ。ではなぜやらないのか。相対論を否定することは云えないのだ。そんなことをしたら、頭が悪いから相対論が理解できないのだ、と後ろ指を指されるからだ。

もう少し考えてみよう。

 光は、特殊相対論では、物質の慣性の法則と同じ動きをしたけれど、ここでは物質の法則とは異なる動きをしている。

 例えば、エレベーターの壁の穴へ外から銃を撃ち込むと、弾は、弾独自の放物線を描いて飛ぶ。エレベーターの落下とは無関係に飛ぶ。これは弾がエレベーターと接触しないから、エレベーターの運動エネルギーを受け取らないからだ。だから、弾は弾、エレベーターはエレベーターの運動を続ける。

 弾は、手から離れたときの初速度から落下が始まる。エレベーターはエレベーターのロープが切れたときの初速度から落下が始まる。弾が飛びこんだ時のエレベーターの速度がエレベーターの落下の初速度と考えてその後のエレベーターの落下速度が決まる。弾は飛び込んだ時の弾の落下速度を弾の初速度と考えることができるから、エレベーターの落下速度と弾の落下速度が異なる。光が、飛び込んだ瞬間にエレベーターの落下速度と同じになるのとはまるで異なる。

 相対論によると、穴から飛び込んだ光はその時のまっすぐ向かいの壁の点に当たる。しかし、弾は、真っすぐ向かいの壁の点ではなく、上の方に当たる。それは、弾が壁を通りぬける瞬間の落下速度より、その時のエレベーターの落下速度が速いからだ。初速度が異なるから落下距離が異なることになる。

 弾はエレベーターに飛びこんだ時のエレベーターの落下速度やその後の速度とは無関係に飛ぶが、光はエレベーターに飛びこんだ時のエレベーターの落下速度やその後の速度に完全に支配される。理由は、弾は引力による、落下の法則によって落ちるが、光は、特殊相対論の光は何ものにも光速度であるという法則に従い真向いの壁にまっすぐに飛ぶからだ。

 これはニュートンの慣性の法則や万有引力の落下の法則と、一般相対性理論との大きな違いである。

 

(5)鏡に顔が映るか

 これらのことから、相対性理論では、物が速度を変えるのではなく、光が、対象物に対して速度を変えるということが分かる。すると、光速で飛ぶアインシュタインの顔から出た光は、かざした鏡の影響を受けて、即座に速度を変え、光速の2倍の速度で鏡に迫るということが分かる。

しかし、エレベーターの場合は、光は壁を越え内部に入ったときから、エレベーターの速度に変化した。入るまでは前方にある落下しているエレベーターとは関係なく飛んでいるようだ。光時計は、光時計の中の光だけが、光時計と共に進んでいる。外にある光は光時計と一緒には動いていないようだ。

このことから、光は何かしらの内部にあることが必要なようだ。マイケルソン・モーリーの実験も実験装置の中を光が飛んでいる。とすると、顔から出た光は内部ではないから何に対して光速になるのだろう。

 何が顔から出た光の速度をどのようなエネルギーと仕組みで瞬時に光速の2倍の速度に変えたのだろう。不可思議である。内部、外部にかかわらず、光の動きを変えたエネルギーがどこにも存在しないということは言えそうである。

(先に書いたように、相対論は慣性系ということで説明している。ニュートンの慣性の法則とは異なるようだ。慣性の法則は物質が運動エネルギーを保存することによって起こる。光は質量がないから、運動エネルギーを保存できない。アインシュタインの慣性系と、ニュートンの慣性の法則は異なる理論である)

 

(6)具体的に考えてみる

(例) 時速100qで走っている列車を考える。

 列車には常に上下、左右、前後、斜めと、全方向から光が当たっている。

 このすべての光が列車に対して同時に光速度で当たっているというのがアインシュタインの言う@の光速度不変の原理だ。

物質どうしではこのようなことは決して起こらない。

物質の法則と同じと考えると、前から来る光と列車の相対速度は「光速+100q」、後方から来る光と列車の相対速度は、「光速−100q」になる。これが、相対速度がどちらも同時に光速度になるというのが特殊相対性理論だ。

この現象には二つの場合が考えられる。ひとつは、列車が速度を変えるということだ。その場合、前後から来る光に対して相対速度が同時に光速度であるためには列車の速度が0m/sでなくてはならない。列車を止めるしかない。列車は走っているのだから、これはない。

すると、やはり光が速度を変えるということになる。光時計や、落下するエレベーターの中の光と同じ現象だ。

しかし、この場合は、光は列車の外部にある。どちらかと言えば、列車の慣性系ではなく地球の表面の慣性系になる。この場合はどうなのだろう。(先に書いたように、光も動かす慣性系とはどういう原理で成り立っているのか不明だが)

アインシュタインの言うように、列車(何ものにも)に光はすべて光速で当たるとする。列車の上や横からの光は列車ともに横滑りしながら光速度で列車に当たる。光時計の光と同じ現象だ。前後の光も列車の速度と共に進む。前方から来る光は列車の速度分遅くなりし、後方から来る光はその分加速くなる。すると、すべての光は列車に対して光速度で当たることができる。問題は、何が光の速度を変化させたかである。もうひとつは、光がどこまで列車に近づいたときに、光が列車に対して光速度になるかである。光時計の光は光時計の中にあった。範囲は光時計の中ということができる。落下するエレベーターの光は、エレベーターの中に入ったとたんにエレベーターに対して光速度になった。外ではならなかった。慣性系だからという理由だ。では列車に対する光は列車の外だから列車の慣性系ではないはずだから列車に対して光速度にならないはずだ。ところが、相対論では、光は何ものに対しても光速度になるのだから、列車に対しても光は光速度になるはずだ。光が列車の慣性系に入るのはどの距離からだろう。慣性の法則は距離ではない。中か外かでもない。共通の運動速度を持っているということが条件だ。地球上のものは、地球の速度を持っている。列車に乗る人は、列車の速度を共通して持っている。これらの運動エネルギーを保存している。それが慣性の法則だ。相対論の慣性系にはこのエネルギーの法則がない。不可思議な力が光時計の中の光の速度を変え、落下するエレベーターの中に入った光の速度を変え、列車に近づく光の速度を変える。

列車はどのような力で光の速度を列車に対して光速度に変化させているのだろう。それはどの範囲まで及んでいるのだろう。列車の速度情報を光に伝えるには光速で伝えても、それなりの時間がかかる。どのように伝えているのだろう。また、それはどのような情報なのだろう。今までの物理学では分かっていない謎の情報だ。

 

では、よく見られる現象から考えてみる。

在来線を新幹線が追い抜いている現象だ。在来線が150km/hで新幹線が250km/hで走っているのを、観測者が地面に立って見ている。相対論では、この時、光は在来線にも新幹線にも光速でぶつかる。すると、地面に立って見ている人には、在来線に衝突した光は、光速+150kmになり、新幹線に衝突した光は、光速+250kmになる。勿論、自分にぶつかる光は光速度である。列車にぶつかる光どうしは、地上の観測者に対して光の速度が時速100km異なることになる。自分にぶつかる光との差は、在来線の列車の光とは150km/h、新幹線にぶつかる光との差は250km/hの違いが出る。絶対速度である光の速度が、観測者によって異なることになる。光の速度が絶対であるという光速度不変の原理だと、矛盾が生じる。

ニュートンの、絶対静止だと、光と、列車や新幹線や観察者との相対速度がそれぞれに変化するから、算数の加減で計算して矛盾はでない。光は物質とは相対速度が変化するが、空間に対してはどの光も光速度である。光は絶対空間に対して常に光速度だから、絶対速度である。物質も空間に対して絶対速度である。ダkら、光と物質は相対速度を持つ。

アインシュタインの光が、衝突する物質に対しては常に光速度だが他のものや光どうしや空間に対する相対速度が変化するのとは異なる。

他の例を考えてみる。

アインシュタインの考えでは、列車がすれ違う時は光はどちらの列車に対して光速度になるのだろう。考えとしては列車に向かう光だけにその列車の速度が影響すると考えてもいい。列車Aに衝突する光だけが列車Aに光速度であり、列車Bに衝突する光だけが列車Bに光速度であるということだ。たとえば列車Aの屋根すれすれに通過して列車Bに当たる光は列車Bにだけ光速度である、ということだ。列車Aにすれすれだから、列車Aの慣性系に入って、列車Aの速度に影響されるということはないのだろう。

すると、列車Aに向かう光と、列車Bに向かう光は異なる速度になる。列車Aの正面に向かう光と、列車Bを追いかける光は並んで飛んでいるのに、速度が違っていることになる。

両列車が、共に時速100kmですれ違うとする。これを地表から見ると、列車Aに向かう光は光速度−100km、で進んでいる。列車Bを追いかけている光は、光速度+100kmで進んでいる。列車Aに向かう光は並んで飛んでいる列車Bに向かう光から遅れて進んでいることになる。

また、横からの光が列車Bの窓ガラスを通りぬけて、列車Aに衝突した場合はどうなるのだろう。最初は、列車Bに対して、光は時速100kmで横滑りをし、通りぬけた後は列車Aに対して今度は反対の方向に時速100kmで横滑りするのだろうか。間のどの時点で光は横滑りの方向と速度を変えるのだろうか。列車の間の中間点だろうか。

また、両方の列車の窓を通りぬけた光はどのような速度でその後飛ぶのだろうか。遠くにある山に対して光速度になるのだろうか。それとも一番近い、通り過ぎていく風の分子に対して光速度で通り抜けていくのだろうか。その場合、風の速度の変化に応じて、光も速度を変化させていくのだろうか。それこそ風の吹くままだ。これでは光の速度は絶対であるとはとてもいえそうにない。

そのほかにも問題がある。特殊相対性理論には絶対静止はない。絶対速度の光以外の物質のすべての動きが相対的であるという。列車の速度は決められないというのが特殊相対論だ。列車Aから見たら、列車Aは止まり、列車Bが時速200kmで走っている。このとき、列車Aの観測者から見た光は、列車Aに対してはたんなる光速度になり、列車Bに対しては、光速度+200kmになる。列車Bの観測者から見たときはこれと反対になる。絶対速度であるはずの光も、視点によって速度が変化することになる。

ニュートンの考え方では、絶対空間があるので、光も列車も空間に対して絶対速度を持っている。だれが見ても相対速度が変化するだけで、光も物質も、そのものの速度は変化しない。したがって、絶対速度の列車と絶対速度の光は相対速度を持つ。前から来る光は列車に対して「光速+(地球の速度+100q/h)」、後方から来る光は、「光速−(地球の速度+100q/h)」の相対速度になり、矛盾はなくなる。物質と光は違う、とアインシュタインは言う。しかし、ニュートンの考え方で現実には矛盾は起こっていないといえる。アインシュタインの考えの@の光速度不変が起こす上に書いたような不可解な現象は存在しない。

 

問題3

 アインシュタインは、光速で飛ぶ自分がかざした前にある鏡に自分の顔が写ると考えた。

考察1 この考えへの疑問。

(1) これは実験で確かめられていないので仮説段階である。

写らなきゃおかしいという感覚だけで、直接の理論もないので、仮説にもなっていない。感覚や直感に頼っているのだから科学ですらない。(特殊相対論がその理論であるということになる。しかしそれも、最初に書いたように理論だけで実証はなされていない。否定する実証さえある)

(2) 小柴氏の観測したマゼラン星雲の超新星からのニュートリノに対して、超新星の光は追いついていない。

 ニュートリノは、光より先に超新星から飛び出す。数時間遅れて、光が飛びだす。アインシュタインの考えでは、この光は、前をほぼ光速で飛ぶニュートリノ(光に対して鏡と同じ相対位置にある。超新星が顔の位置にある)に対して光速度で迫らなければならないはずなのに、15万年かけて地球に来る間に、ニュートリノに追いついていない。15万年間ニュートリノの後ろを同じ速度で追いかけているだけだ。このことから、少なくとも、超新星の光はニュートリノに対しては光速ではないと言える。ニュートリノとの相対速度は0である。距離としては数時間光年の距離があるから、アインシュタインの鏡の距離とはずいぶん違うが、現象としては同じようなものだ。離れすぎだというなら、どれくらいの距離に近づけば光は光速で飛ぶ鏡に、光速度で追いつくのだろうという問題が生じる。アインシュタインの光時計では、0.5秒光年の距離、約1.5万kmを往復していたりする。どの距離なら、前を飛ぶ物質に対して光速度で追いかけるのかの具体的距離は明示されていない。特殊相対論では慣性系と言っているが、慣性系の範囲は示されていない。ニュートンでは、同じ速度を共有しているものが慣性系になる。たとえば列車の中の人がボールを持っている。これを列車内で落としても、列車の外へ落としても、同じように列車の速度で、進みながら落下する。慣性の法則である。外から飛び込んできたボールは列車の速度を共通として持たないから、列車と共に進まない。列車が前に進むので、ボールは列車に取り残される。これも慣性の法則である。相対論では、落下するエレベーターに飛びこんだ光はそのとたんにエレベーターの速度と同じになって落下する。現象が明らかに異なる。アインシュタインは、理由を、慣性系と言っている。しかし、アインシュタインの慣性系にはニュートンの慣性の法則にあるエネルギーの理論がない。ガリレイの法則を持ちだして説明したりしているが、このように明らかに現象が異なる。また、光は質量がないので慣性の法則には入らないのに、慣性の法則で説明している。明らかな間違いである。

ガリレイの考えを法則化したのがニュートンである。光がボールと同じ動きをするというのはニュートンの法則にはない。

アインシュタインはどのような速度の物質に対しても、光が、真っすぐ進む原理を法則化しなければならない。ガリレイの実験を持ちだして光も真っすぐ落ちると説明しているのは、ニュートンの慣性の法則の根幹である慣性質量を無視している。法則がわからなかったガリレイを持ちだして説明しているのは、法則があるとごまかせなくなるからだ。ニュートンの慣性の法則を無視しなければ光は真っすぐ落ちないからだ。相対論者は、慣性系と共に光が動く法則を示さなければならない。それがない。関係ないガリレイに頼っているだけだ。

 アインシュタインとは違い、ニュートンでは、場所(アインシュタインの言う慣性系)ではなく、運動エネルギーを共有しているか否かの問題である。これには運動エネルギーを保存する質量が関係している。一般相対論では、エレベーターに外から入った光が、エレベーターの中に入ったから慣性系だからエレベーターと共に落下を始める。場所が重要になっている。しかし、なぜ落下を始めるかは、慣性系という言葉以外に、実質的な根拠はない。

アインシュタインの鏡と顔の間には壁はない。外部と同じである。慣性系といえるのだろうか。船のマストとマストの間を横切って行くカモメは、船の慣性系に入って、船と共に横滑りするだろうか。否である。

超新星爆発の光と同じように、顔から出た光は鏡と同速度で、鏡を追いかけると考えられる。

また、光速度で飛ぶアインシュタインと鏡という設定が、何に対して光速度であるかということが明示されていない。相対論で絶対静止はないから、ものごとはすべて相対的だと述べているから、アインシュタインは何に対して光速度で飛んでいるかという設定が必ずいるはずだ。アインシュタインから見ると、鏡は停止し、鏡をし点にすればアインシュタインは停止している。それが相対性だ。ところが、アインシュタインは勝手に光速度で飛んでいる。これではニュートンの絶対空間と同じ考えになる。

ニュートンだと、飛んでいるアインシュタインは空間に対して光速度である。鏡も空間に対して光速度である。顔から出た光も、顔の速度を保存できないから、空間に対して光速度である。光は鏡に追いつかないことになる。単純明快だ。

 

(3) ニュートリノの観測

 ニュートリノが、カミオカンデの水槽内で、水の電子をはじきとばす。その時、飛びだした電子は、チェレンコフ光を発する。これは、光速で飛ぶ電子が出す光が、水のために光速より少し遅く飛ぶことから生じる。遅く飛ぶのは、水のために光の速度が落ちるからだということだが、それでも、光速度は光速度なのだから、光はその少し遅い光速度で電子に迫らなければならないはずだ。この光は電子に対して光速では飛んでいないといえる。水に対して光速度であるというかもしれないが、そうだろうか。

マイケルソン・モーリーの実験は空気中で行われている。光は空気によっても速度を落とす。それでも、実験装置に対して光速度であったというのだから、水中でも同じように、電子に対して光速度でなくてはならないはずだ。

マイケルソン・モーリーの実験では、周りの空気の動きに対して光速度であったとは述べていない。

動いているものはその速度に応じて時間が遅くなる、という特殊相対性理論のために電子の速度が遅くなったために、光との相対速度が光速になったという考えもある。すると電子はほぼ光速で飛んでいるから、時間がほぼ止まって速度が極端に遅くなって光が光速で追いつくということになる(光も0秒間には0kmしか動けない)。しかし、その場合はチェレンコフ光は発生しないはずだ。音速で飛ぶジェット機が音の衝撃波を出すのと同じ原理でチェレンコフ光が発生したということは電子と光がほぼ光速で並んで飛んでいるということの現れである。電子と光は相対速度が0m/sであるということだ。光は何ものにも光速度であるということの否定的証拠になる。勿論光速で飛ぶ電子は時間が遅くなっていないことの証拠でもある。

 チェレンコフ光は宇宙線が空気に衝突するときも発生している。この光も、同じように電子に対して光は光速度ではないことを表している。

 これらは、Aの「光は光源の速度に影響されない」という原理の現れである(光速で飛ぶ電子から出た光は電子の速度を足し算されていない)。これは、光は慣性質量をもたないことから起こる現象である。では光源から出た光は何に対して光速度になるのだろう。ニュートンの絶対空間なら、電子から出た光は周りの電子や水や空気に対して光速度になるのではなく、また、遠い山に対してとか、観測者に対してとかではなく、絶対空間に対して光速度になる。アインシュタインは、絶対空間を否定して、光は、物質に対して光速度になるというのが特殊相対論だから、光は周りの水や空気に対して光速度になることになる。光の速度は風の速度や川の流れや観測者の速度によって変化するということになる。光速度は千差万別になる。光速は絶対と言いながら、変幻自在に速度を変える。

問題4

光速で飛ぶ鏡に対して飛ぶ光は何に対して光速度であるのか。

考察1

相対論者は、当然、鏡に対してというであろう。では考えてみる。

顔から出た光は、離れた鏡の影響を受けていない。鏡から出た情報(そんなものがあったとして)は光速で飛んだとしても、顔から出たばかりの光には届いていないからだ。したがって、鏡に対して光速度にはならない。

では顔の影響はどうであろう。顔から出たのだから影響は受けている。しかし、Aの、光は光源の速度に影響されない、という法則から、顔(光源)の速度には影響されない。

すると、顔から出た光はなにものに対して光速度になっているのだろう。相対論では光は何ものにも光速度であるといっていることから、光は常に何ものかに対して光速度でなければならないことになる。そして絶対空間を認めていないから、絶対空間に対して光速にはなれない。この場合は、顔から出た光には光速で進む相手がいないことになる。光は速度を決められない。この場合、鏡に対して光速度だというのがアインシュタインの考えだろうが、上に書いたように光が鏡の存在を知る手だてはないから、鏡に対して光速になることはできないはずだ。相対論者は慣性系というだろうが、離れた鏡と光が同じ慣性系であるという条件は示されていない。

光の速度はなにから計るのだろう。相対論では何ものかに対しての光速度である。ニュートンなら、絶対静止空間があるからそこから測れるが、相対論には絶対静止はなくすべてが相対的であるという理論なのだから、空間からは速度を測ることができない、計れるのは実際の物体を基準として、そこから剛体である物差しで測る。光も、物体との相対速度であるという理論だ。顔から出た光は鏡に対して光速度であるということだ。鏡は、鏡が光速度であると計った観測点に対して光速度だから、その点に対して光は光速の2倍の速度になっている。光は速度を変えるということだ。光速は絶対であるという相対論に速度を変える光があるということだ。

考察2

(1)小柴氏の観測した、超新星の光は何に対して光速度であったか。

地球に到達したときの光は地球に対して光速度であったかも知れない(わたしはそうは思わないが)。

 

では、その地球に衝突した光が、超新星から出たときは何に対して光速度であったのだろう。地球は15万光年先にある。到達するのは15万年後だ。したがって、その時の光は地球の速度を感知できていない。地球に対して光速度であることはない。その後も、ほぼ15万年の間、地球の影響は何一つ受けていないから、地球に対して光速度で飛ぶことはできない。その間その光がぶつかった地球の観測所は3600000回地球の自転で、地球を周回している。太陽の周りを15万回公転している。銀河系の中を7回半回転している。そして、アンドロメダ銀河に引き寄せられている。地球の観測点は大きく場所を変えている。15万年後に地球と衝突する位置(観測点)を超新星の光が特定できたとは考えられない。このことから、超新星の光は地球とは無関係に飛んでいることが分かる。15万年後、超新星の光の一部が偶然地球にぶつかっただけだ。違うところに飛んだ超新星の光はどうなったのだろう。月に衝突した光はやはり月に対して光速度だったのだろうか。太陽に衝突した光はやはり太陽に対して光速度だったのだろうか。火星に対してはどうだったのだろうか。衝突した星に対してそれぞれに光速度であったなら、光はそれぞれに速度が異なっていることになる。絶対速度といえるだろうか

(2)超新星の光が地球に対して光速度になったのはいつからだろう

では、いつその光は地球に対して光速度になったのだろう。衝突1年前だろうか、それとも1日前だろうか、それとも8分前だろうか。8分前なら太陽の距離だ。その時、光は地球の速度を感知できるのだろうか。それとも1秒前だろうか。

 超新星の光は、いつ地球の速度を感知して、地球に対して光速度になったのだろうか。明確ではない。

(3)超新星の光の速度とニュートリノの速度

 この光は、15万光年の距離を15万年かけて地球に到達したということだ。同じくニュートリノも15万光年の距離を15万年かけて地球に到達している。ということはこのニュートリノと光は同速度であったということが言える。ニュートリノが何ものにも光速度であるという理論はない。勝手に15万光年の距離を15万年かけて飛んでいる。ということは、光も、勝手に飛んでいたということだ。そして、このニュートリノは、観測者から見て光速度であったわけではない。距離と時間は決まっているから、絶対距離(15万光年)に対しての速度(=15万光年÷15万年=光速)である。地球に対しての速度でもなく、火星に対しての速度でもない。絶対速度である。絶対速度であるニュートリノと同じ速度で15万年間飛んだ光も絶対空間に対する絶対速度であるといえる。何ものかに対して光速度であったわけではない。相対論のように、もし光が火星に対して光速度であったり、月に対して光速度であったり、太陽に対して光速度であったりすると、地球に対してそれらの光の速度はそれぞれ異なっていることになる。光は絶対速度と言いながら速度を変えていることになる。

 もうひとつの問題がある。ニュートリノは、光速かそれとほぼ同じ速度で飛んでいる。特殊相対論では、光速で飛ぶと時間が極端に遅れ、質量が極端に増えるはずだ。ところがその影響は15万年間何一つ現れていない。算数の「距離÷時間=速度」で飛んできている。光速で飛んでも時間は遅れないという実証である。特殊相対論を否定する現象である。

 

まとめ

 宇宙空間を飛ぶ光は何に対して光速度なのだろう。ニュートンなら、空間に対しての光速度である。特殊相対論では宇宙空間の真空を飛ぶときにはその相手がいない。それでも光が光速度なら、光は空間に対して光速度になる。ニュートンの考えと同じである。物質があるとそのたびに光が速度を変えるとなると、光の速度は決まらないということになる。アインシュタインは、基準となる静止点が存在しないと述べて、速度は相対的であるということで相対性理論を作った。すべての物質の速度が視点によって変化する。すると、物質に常に光速度である光も視点によって速度が変化することになる。光速度は衝突する物質に対しては常に光速度であっても、他の物質に対しての速度は常に変化することになる。

 

問題5 アインシュタインは、光速で飛ぶ自分がかざした前にある鏡に自分の顔が写ると考えた2

顔から出た光は何に対して光速度なのだろう。顔から出た光は、鏡の影響を受けていない。したがって、鏡に対して光速度にはなっていないはずである。顔から出た光は、まず空間の中を飛ぶ。影響しているのは空間である。しかし、空間はなにもないから、影響しようがない。相対論でも空間は何もないからそこから計ることはできないと述べている。

もし、浮かんでいる分子があればその分子に衝突したとたんに、その分子に対して光速度になるかもしれない。しかし、鏡に対して光速度ではない。では、顔に対して光速度なのだろうか。これは、Aの光は光源の速度に影響されないという原理に反している。

 すると、光は何に対して光速度になるかは不明である。

 問題はもうひとつある。鏡は光速で飛んでいる。顔から出た光も鏡の影響を受けていないから光独自の光速で飛んでいる(対象がない場合、アインシュタインの慣性系に光が入っていない場合、光は何で速度を決めるのか不明である。ニュートンなら絶対空間に対して光速であるが、相対論では慣性系でなくてはならないから、この場合本当は光の速度は決められないことになるがそれは置いておく)。同速度であるから光は鏡に追いつくことはできないことになる。鏡に対して光速で追いかけることはできないはずだ。光が鏡に追いつくには鏡の速度が落ちるか、光の速度が光速を超えるかしなければならない。

 鏡に光が光速で追いつくには、光が光速の2倍の速度になるか、鏡が停止するしかない。光が光速の2倍になるのは、光速より速いものはないという相対論に反する。鏡が停止するというときは、光速で飛ぶ鏡という前提が崩れる。ともに、矛盾しかなくなる。

これは、アインシュタインが考えた、光は何ものにも光速度で迫るという考えが間違いであることを示している。アインシュタインは、光速度不変の原理の理論的根拠も、実証もしていない。理論も、実証もない原理は、科学ではない。宗教である。

問題6 光速度不変を証明したという実験

マイケルソン・モーリーの実験2

考察

この実験で、光は地球に対してどの向きに飛んでも光速度であるということを証明したということである。

(1) この実験は検証実験がなされていない。

したがって、この実験では、まだ実証したとはいえない。科学は必ず検証実験が必要である。それがアインシュタインの言ったとおりであったとしてもである。アインシュタインの理論通りだ、ということで検証実験が不必要だということにはならない。マイケルソン・モーリーの実験が正しければ、検証実験も同じ答えがすぐにでるはずだ。やればいいのにそれをやっていない。なぜだろう。

 できないからではないのだろうか。

(2) マイケルソン・モーリーの実験装置の中を飛ぶ光は、何に対して光速度だったのだろう。

この光は、地球とは離れている。したがって、地球に対して飛んではいないといえる。しかし、実験装置は地球とほぼ同じ速度だ(地表より上にあるから、地表より少し速い速度である)から、地球と同じとみなしていいといえる。としても、光は実験装置に接触しているわけではない。すると装置の影響を受けることはないから、装置に対して光は光速度になる必然はない。いや、光源や鏡には接触したとはいえる。しかし、Aの、光は光源の速度に影響されない、という法則があるから、これらの影響で光の速度が変わることはないはずだ。あるとすれば、鏡に当たる瞬間に、光は鏡から何らかの影響(この影響の原因は不明)を受けて鏡に対して光速度になるということだ。光は、どれくらい鏡に接近したときに、鏡に対して光速度に変化するのだろう。

 その後、光が装置の中を飛んでいるときに接触するのは中の空気だ。空気に対して光は光速度になるのだろうか。空気は物質だから相対論なら空気に対して光速度になるはずだ。空気はさまざまに動いているので、様々に動いている空気の分子に衝突するのに合わせて、光は光速度になる。なかなか大変だ。空気が渦巻いているときなどは光はどうなっているのだろう。

 このとき光が速度を変えるのではなく、空気分子が光に対して速度を変えて、光が光速度で衝突するということかもしれない。光の速度は絶対なのだから。すると、空気分子はさまざまな動きをしていても、光に対して速度を0にしなければ光との相対速度が光速度にならない。渦巻きなどもってのほかだ。

 また、実験装置自体が、速度によって時間が遅くなって装置の速度が遅くなると相対論は言うだろう。しかし、どの方向から来る光とも同時に相対速度が光速になるには、光の速度が絶対なら、装置の速度が0m/sになるしかない。地球と共に動いている装置が0m/sになることはない。とくに相対論では絶対0m/sは存在しないという理論である。のに、絶対速度の光に対して光速度であるためには、実験装置は絶対速度が0m/sでなくてはならない。そのことでも矛盾が生じる。

 マイケルソン・モーリーの実験が、光は地球に対してどこから来ても光速度であるという結果が出たという。しかし、先に書いたように、宇宙背景放射観測衛星の観測では、地球は光と相対速度を持っているという結果が出た。正しいのは、検証実験のできている観測衛星の方だといえる。

 

問題7 思考実験(アインシュタインの得意の実験を借用)

思考実験1

 ガラス板がある。光速の半分で右から左に飛んでいるとする。そのガラスに左右から光が通り過ぎるとする。右から来る光も、左から来る光もガラスに光速度で当たるのが、光速度不変の原理である。

 物質どうしの場合は、右から来る光速の物質とガラスは、光速の半分の相対速度で衝突する。左から来る光速の物質とガラスは光速の1.5倍の相対速度で衝突するはずだ。

 ところが光はそうはならないというのが相対性理論だ。

 左右どちらの光もガラスに光速度で当たるというのだ。そのためには、光が速度を変えるか、ガラスが速度を変えるかしかない。光の速度は絶対速度というのが相対性理論だから、光は常に光速度である。するとガラスが速度を変えるしかない。

どちらの光に対しても、同時に光速度であるためには、ガラスは停止しなければならない。光速の半分の速度で飛んでいるガラス、という前提が無くなる。最初から停止しているガラスと同じことになる。これはガラスが100km/sで飛ぼうが、1246km/sで飛ぼうがそのほかのどのような速度で飛ぼうが、みんな停止していることになるしかないということだ。では、光が速度を変えているということか。相対論ではそう言っている。では、右からの光は、光速の半分の速度になり、左からの光は光速の1.5倍の速度になったのだろうか。その速度変化をもたらしたエネルギーはどこからどのように作用したのだろうか。不明である。

思考実験2

 2枚のガラス板が、宇宙空間を飛んでいるとする。1枚は、光速の4分の1、その前を同方向に飛ぶガラス板は、光速の2分の1とする。後方から、光が飛んでくる。1枚目のガラス板に光速で衝突する。通り抜けた光は、やはり光速で2枚目のガラス板を追いかける。

 このときの光は、1枚目のガラス板に光速なのだろうか。それとも、2枚目のガラス板に光速なのだろうか。それとも、空間に対して光速度なのだろうか。

 光が絶対速度の光速で飛んでいるときは、ガラス板が光に光速で衝突するためには、ガラス板の方が速度を変えなくてはならない。すると、どちらのガラス板も、停止していなくてはならない。しかし、ガラス板同士は、光速の4分の1の速度(=2分の1−4分の1)で離れていっているはずだから、両方の速度が0m/sになっては離れていくことができない。矛盾が生じる。

絶対速度で飛ぶ光に対して物質がつねに光速度であるためには、物質は常に停止していなくてはならない。光がある限り物質は動けないことになる。この宇宙に光のないところはない。すべての物質は動けないことになる。こまったことだ。

 では、光が速度を変えるとする(特殊相対性理論ではこちらだ)。

 光は1枚目のガラスに光速度であるためには、停止した観測者に対して(ガラス板が光速の4分の1の速度ということは停止した何かがあるはずだ)光速の、1.25倍の速度になる。これは前を飛ぶガラスに対して光は光速の0.85倍の相対速度になる。光が1枚目のガラスを通りぬけて、前を飛ぶガラスに光速度で飛ぶと、停止した観測者に対しては、光速の1.5倍の速度になり、1枚目のガラスに対しては、光速の1.25倍の速度になる。光は何ものにも光速度であるという相対論が崩れる。衝突するものに対してだけ光速でその他のものには相対速度を持つということになる。

また、他の問題も生じる。1枚目のガラスを通りぬけて、2枚のガラスの間にある光はどちらに対して光速度になるのかが不明になる。前方のガラスなのか、後方のガラスなのか。あちらを立てればこちらが立たずになる。また、前方を飛んでいるガラスの速度をどのようにして光は感知して、速度を変えるのかのシステムが不明になる。この場合も矛盾が生じる。

 

結論

 光と地球が相対速度を持っているとしたら算数で計算できる。光は何ものにも光速度であるというときは、時間が伸び縮みしたり、空間が伸び縮みしたりするし、ローレンツ変換という特別な人しか計算できない計算式がいる。また、速度によって時間が遅くなると、異なる時刻にすべてが存在しなくてはならなくなる。飛行機でニューヨークに着いた人は、空港の職員と異なる時刻にいることになる(相対論者にはわからないだろうけど)。すべとの人は、常に他人と異なる速度で生きている。ということは常に他人とは異なる時間の速度で生きていたことになる。世界中すべての人が現在異なる時刻にいるということだ。世界中の人が同時に異時刻に存在しているということは、時刻とはなにかということを考え直さなくてはならない。隣の人と朝の挨拶をしたとき、隣の人の時刻が、昨日の3時24分で、自分が今日の6時58分の時刻であるということは、どの様に考えればいいのだろう。それが特殊相対論だ。

 矛盾しかないのが特殊相対論ということだ。単純に算数で考えられる世界の方がいいのではないだろうか。シンプルイズビューティフルだ。

 

U A 光は光源の速度に影響されない

 

考察1

 これは光が慣性質量をもたないから起こる現象である。慣性質量をもたない光は、光源の速度を保存できないから、光独自の速度で飛ぶしかない。それがAの原理だ。

 ではその光は何に対して光速度になるかということで、ニュートンの考えと、アインシュタインの考えは異なる。

 ニュートンの場合は、絶対空間があるという考えだから、絶対空間に対して光速度になる。アインシュタインの場合は、絶対静止がないから、物質に対して光速度になるという考えだ。どのような速度の物質に対しても光速度になる、ということだが、それぞれの物質の速度が異なるのだから、光の速度もそれに合わせた速度になる。同方向に走る100km/hで走る車に対して光速度の光と、時速20km/hで走る自転車に対して光速度の光は、車に光速度の光の方が先に進んでいく。1時間で80km(=100km−20km)の差が出る。また、地表に対する光の速度も異なっている。光の速度は、地表に対して変化していることになる。光は何ものにも光速度であるということに反する。

 双子星から出た光が同じ光速度だったから、光は光源の速度に影響されないということの実証になったということだ。「Aの光は光源の速度に影響されない」、という原理だ。

ではこの光は何に対して光速度だったのだろうか。ニュートンなら、絶対空間に対して光速度になる。ではアインシュタインの考えではどうだろう。何ものにも光速度であるというのだけれど、星から出た光は、遠い地球を認識して、地球に対して光速度であるということはない。光は途中通り過ぎてきた、水素分子や、ヘリウム分子に対して光速度だったのだろうか。出会う星間ガスや、塵に合わせて速度を変えていたのだろうか。

 双子星の光の波長が偏移していたことで、星の動き(地球から遠ざかっている方の星は赤方偏移し、近づいて来る星は青方偏移している)を判断した。光が偏移するということは、ドプラー効果である。音と同じ原理だ。音の場合は音の速度と、音源が相対速度を持つことから起こる。同じ原理なら、双子星と光は相対速度を変えているということになる。ニュートンでは当然起こることだが、特殊相対性理論では起こらないはずだ。相対論の否定になる観測である。

 

結論

 Aの「光は光源の速度に影響されない」ということは、理論的にも、実際の現象にも矛盾はない。この原理は、ニュートン理論でも相対論でも、理論との矛盾はない。

しかし@の「光は何ものにも光速度である」という原理は、現実との乖離がはなはだしい原理である。実証があるというが、それはせいぜいマイケルソン・モーリーの実験くらいである。しかし、宇宙背景放射の観測では、マイケルソン・モーリーの実験結果を否定する結果が出ている。「光は何ものにも光速度である」という実証はなく、反証しかないということになる。@の原理こそ特殊相対性理論の根幹となる原理であるが、明らかに間違っているといえる。

(注:@の原理は実証が難しいので、Aの原理を中心に取り上げている本が目立つが、Aの原理は特殊相対論とは無関係の原理である。この原理で光は何ものにも光速度になったりしない。この原理では光は絶対空間に対して光速度になるしかない。何ものに対して、ではない)

 事実に合わない原理は見直す必要がある。20世紀最大の天才が述べたといっても、事実と異なるときは理論の方を見直す必要がある。