著者 高田敞
(以下{ }内は同書からの引用)
これは、上記理論について、考察したものです。内容は反論です。
{絶対静止という概念に対応するような現象はまったく存在しないという推論に到達する。}
(1)検証事例の貧困
ここでは、たった一つの例をあげているにすぎない。それだけで、{対応するような現象はまったく存在しない}
と言い切ることはできない。{上述の話と同じようないくつかの例や、・・・いくつかの実験}と例をあげているようだが、具体例は上げられていないので、これは証拠にはいれられない。そうなんだ、証拠はいっぱいあるんだと思わせているだけにすぎない。
{“光を伝える媒質”に対する地球の相対的な速度を確かめようとして、結局は失敗に終わったいくつかの実験}とあるが、これはなにを指すのか不明である。よく、マイケルソンとモーリーの実験といわれている。しかしほかにはない。いくつかの実験と書いてあるので、このほかにも、類似の様々な実験があるようである。しかし、そのようなものが本当にあったのだろうか。そして、その実験は、たしかに、光と地球の相対速度がない事を示していたのだろうか。マイケルソンとモーリーの実験以外に地球と光が相対速度を変えないということを示した、と認められている実験は存在していない。このことから、これは自分の主張を正当化するために、誇張して書いているのではないだろうかと疑えることである。証拠の実験を、具体的に書かずに、また、実際行われていない実験をあるように書くのは、科学の道に外れている。
では、マイケルソンと、モーリーの実験は、どうだろう。あの実験は時代の技術の限界であったのではなかろうか。現在の観測技術で計ると、地球と光は相対速度を変えているのが観測されている。(これについては後述)
(2)磁石と導体の検証
はじめの例と第2の例とで、電流の{量においても、また流れの向きについてもまったく同じである。}から、対応するような現象はまったく存在しない}という結論だが、どちらが動いたかで、{ふつうよく知られている解釈によれば、磁石と導体のうちの一方が静止しており他が動いている場合と、これら両者の状態を逆にした場合とでは、電流発生に対する説明はまったくことなったものになる}と述べているように、どちらが動いたかで、現象はことなる。このことから、物事はどちらが動いたかが存在するということがいえるはずである。電流の量と向きは、導体と磁石の相対的な動きだけによって決まるのだから、そのことは絶対静止の有無とは関係ない現象である。
したがって、この現象は、物の動きは、絶対的であるということがいえる現象である。
(3)相対性原理(前提1)
慣性系で、{ニュートンの力学の方程式が成り立つ場合、そのような座標系のどれから眺めても、電機力学の法則および工学の法則はまったく同じであるという推論である。}
とあるが、まったくの推論である。実証例が述べられていないので、これは、科学としては何の根拠もない論である。
慣性系は、慣性の法則によって成り立っている。慣性の法則は、質量のあるものが運動エネルギーを保存するという法則である。光は質量を持たないから、運動エネルギーを保存できない。これは、アインシュタインも、{光源の運動状態に無関係な、ひとつの定まった速さcをもって伝播する}と述べているとおりである。
したがって、光は、慣性系の速度と無関係に伝播するので、慣性系に対する速度は変わるので、{まったく同じである}ということはいえない。
この推論(その内容をこれから“相対性原理”と呼ぶことにする)の内容は間違いである。
(4){これと一見矛盾しているように見える次の前提}
{光は真空中を、光源の運動状態に無関係な、ひとつの定まった速さcをもって伝播する}
先に書いたように、これは真である。光は質量を持たないから、光源の運動エネルギーを保存できないから、光独自の速さになる。また、このことは、恒星の光がドップラー効果を起こすことで、確かめられている。
問題は、{一見矛盾しているように見える}という言葉である。これは先に書いた、相対性原理に反する現象である。それを、{一見矛盾しているように見える}と書くことで、相対性原理か、光速は常にcであるかのどちらかが間違っていることを不問にしているのである。
{一見矛盾しているように見える}とは、ちょっと見は矛盾しているがよく見ると矛盾はない、という意味である。ところが、矛盾がないことの証拠は何一つ述べられていない。言葉の綾でうまくごまかしているのである。本当は、「これは一見しても、よく見ても矛盾しているのである」、と書くべきである。
ではどちらが間違っているかというと、上に書いたことから導き出されるのは、相対性原理の方が間違っているということである。
@ 間違い1
エーテルは存在しない。しかしものの動きは相対的であり、絶対速度はないという、相対性原理の基本概念が正しいということではない。光に絶対速度があるということは、基準があるということなのだから、他のものも絶対速度があることになる。ものの動きは相対的で絶対速度はないという考え方は間違いである。
A 間違い2
光は絶対速度cをとる、は正しい。しかし、何ものに対しても、光速度cをとるというのは間違いである。
このように相対性理論のふたつの前提は事実と相違するので、このことから生まれることはすべて事実と相違することになる。実際、相対性原理から導き出された現象は、実際には存在しない。
基準の座標系を{他のいろいろな座標系と、呼び名の上で区別するために、また、この座標系の持つ概念を厳密にするためにこれを“静止系”と呼ぶことにする}
{この座標系の持つ概念を厳密にするため}とあるが、厳密に考えると、 地球上にこの座標系を取ると、この座標は地球の自転や公転や銀河系の自転や、銀河系の運動により複雑な動きをしていることになる。決して静止することもないし、回転運動だから、慣性系にもならない。
なぜ静止系とできるかは、前節で定義した、{特別な性質を与えられた“絶対静止空間”というようなものは物理学には不要}という考えから出てきたことである。しかし先に述べたように、その考え方は、何ひとつ証明されていないからアインシュタインの論理展開に必要だから彼がかってに定義しただけである。したがって、それは、正式な定義ではなく、たんなる彼の思いつきにしかすぎない。
このように{概念を厳密にするため}といいながら自分の論理にじゃまになる事実を、ないことにするのは科学のやり方ではない。科学は、邪魔者をなかったことにするのではなく、それをあえて取り上げ、論理と事実で検証し、なおかつ生き残ったときに始めて、科学的論理として成立するのである。ひとつも厳密でないのは他の意味があるからであろう。それは、先の相対性原理とあいまって、「私」がいる慣性系だけを静止系と名づけることによって、本当は静止していないのに、静止しているように、名前で錯覚させようとする意図があるからだろう。実際この後の論理の展開は、私のいる場所が静止系になっている。
{“時間”の定義に関連して起こる問題はすべて、“時間”を、“私の時計の短針の位置” によって置き換えることにより解決できそうに思われる}
{“時間”とは、私の時計の短針の位置}なのだろうか。時間はそんな単純なものなのだろうか。
短針の針は、地球が1回自転する間に、文字盤の上を2回転するように作られた、歯車仕掛けの道具に過ぎない。
これではまるで、「私」の時計を中心にすべての時間が動くという時間の天動説である。
{光がAからBに到達するのにようする“時間”は、逆にBからAに立ち戻るのに必要な“時間”に等しいという要請を定義として前提におくことである}
この定義は、アインシュタインが自分の論理に必要なだけであって、科学的な根拠はない。たんに思いつき以上のものではない。
(1)事実との不整合
現在、宇宙背景放射という光と地球の相対速度が測られている。地球の前から来る光に対しては、光は青色偏移し、後ろから来る光に対しては赤色偏移しているのが観測されている。したがって、地球上に点Aを取り,その進行方向に点Bを取ると、AからBに行く光は時間がかかり、Bから、Aに戻る光は、短い時間ですむ。
地球上にA,Bをとるかぎり、この定義は成立しない。また、このことから、どこにA、B点をとってもAB点が動いているかぎり、行きと、帰りの時間が等しいということはありえない。
(2)慣性の法則との一致
走っている列車に乗っている人を考える。この人が、一定速度で車両の後ろから、前まで行き、また後ろにで移動する。このとき、行きと帰りの時間は同じになる。
止まっている列車でも、時速49kmで走る列車でも、時速121kmで走る列車でも同じである。これが慣性の法則である。(注:地球上の列車では慣性運動はできないので、厳密に測定すると違いができる)
アインシュタインの言うこの定義はこのことと同じである。おそらく慣性の法則から思いついたのだろう。しかし、慣性の法則は光には適用できない。慣性の法則は列車の速度を乗っている人の質量が保存するが、光には、質量がないので、列車の速度を保存することができない。したがって慣性の法則は適用できない。これは、アインシュタイン自身も、{光は真空中を、光源の運動状態に無関係な、ひとつの定まった速さCをもって伝播する}と述べているとおりである。
この定義は間違っていることがわかる。したがって、以後この定義を根底にした論もすべて間違いになる。
{“時刻”とは、その事件の起きた場所に静かに置かれている時計の針が、事件発生の瞬間に示す数値のことである}
時間や時刻は単に時計の針の指し示す数値ですべて表すことができるのだろうか。
時計がなければ時刻は存在しないのだろうか。時計の針は、地球の自転から割り出した、単に人間の生活の利便性のための道具にしか過ぎないのではないのだろうか。昨日に戻れないのは、時計の針が進むからではないし、明日にいけないのも時計の針の進み方の問題ではない。
時計の針は時刻そのものではない。これは§2で取り上げる。
{静止系に静止している時計を用いて時間を定義した}
静止系に静止しているといことから,あたかも静止した系があるかのような錯覚にとらわれる。これが、静止系と名づけたことの大きな意味(たくらみ)であろう。相対性原理は、静止系は存在しないと言っているのだから、この静止系も、本来、私が特別に贔屓にしているある特定の系と名づけるべきである。
言葉の巧みさで、科学を芸術にしている。
§2 長さと時間の相対性
{これから述べる議論は、相対性原理と光速度不変の原理をその基礎におくものである}
冒頭の{動いている物体の電気力学}で述べたように、相対性原理は間違っている。したがってそれを基礎においた、{これから述べる議論}はすべて間違いになる。また、光速度不変の原理は、本来光は絶対速度Cをとるということである。何物に対しても、光速度cをとるということではない。これはアメリカの宇宙背景放射観測衛星WMAPの観測と一致しないので事実ではない。
§2はすべて間違いになるということで、結論は出るが、そうもいかないだろうから、彼の議論をひとつずつ検討していく。
{互いにたいして一様な並進運動をしている、任意の二つの座標系のうちで、いずれを基準にとって、物理系の状態の変化に関する法則を書き表そうとも、そこに導かれる法則は、座標系の選び方に無関係である}
このことは、相対論の真髄であるのに満足な証明が成されていない。これは、ニュートン以前の、ものの動きは絶対的であるという考え方を完全否定したのだから、もっとちゃんと証明しなければならない。最初に電気力学には言及しているが、物体同士の関係は何一つ証明していない。また、ここでも、かなりあいまいな表現を使って、言わんとすることを限定させない。
これは{動いている物体の電気力学}ではこの法則を、{力学ばかりでなく電気力学においても、絶対静止という概念に対応するような現象は存在しないという推論に到達する}
慣性系のどれから眺めても{電気力学の法則および力学の法則はまったく同じである}
ということであった。
そこで、具体的にその法則が摘要できるかを考えてみる。
(1)2台の車
併進する、ふたつの座標系AとBを考える。AとBは相対的に時速10kmの差がある。
Aにはダンプカーが止まっている。Bには自転車が止まっている。
@ Aを基準に考える。すると、自転車が時速10kmで動いていることになる。運動エネルギーは、自転車の質量×10kmである。
A Bを基準に考える。すると、ダンプカーが先ほどの自転車と反対方向に時速10kmで動き出した。運動エネルギーは、ダンプカーの質量×10kmである。
@とAを比べると、エネルギーは極端に差がある。そのうえ向きも反対だ。これはニュートン力学に反している。規準を変えると、{物理系の状態}が変わる。
これを、私のいる静止系を基準として考えることで、問題が表面化しないようにしている。自転車は動いても、私の居る静止系のダンプカーは動かないのだ。
(2)光
アインシュタイン自身が認めているとおり、光は絶対速度Cをとる。したがって、ふたつの座標系の速度が違えば、光との相対速度は座標系によって変わる。
物の動きは相対的である、と光は絶対速度をとるという矛盾は、相対性原理のほうが間違っている。
{棒と一緒に走っている観測者から見るとき、A,B二つの時計は合っていない}
実際にどのようなことかを考えて見る。訳者によると、Bの時計のほうが進んでいるということだ。
そこで、わかりやすくするために、1日時刻がずれたと考える。すると、Aが1月1日0時にあるとき、Bが1月2日0時にあることになる。すると、観測者は、棒が、今日から、明日へ延びているのが見えることになる。それとも、棒が、昨日から今日に向かって延びてきていると見える。
どちらだろう。計算上は1日のずれはない。ひじょうに小さい違いだから、両方見えることになるのだろうか。どれくらい小さければ現在と未来が見えるのだろう。
アインシュタインは、時刻は、時計の短針の指す目盛りだと言い切った。だから、0時も、3時も、18時も、同じ棒のうえに同時に存在してもかまわないのだろう。ただ針の位置が違うだけなのだから。しかし、現実はそうはいかない。私には、昨日は見えない、明日も見えない。1時間前も1時間後も。1秒過去も、1秒未来も決して見えない。見えるのは今この瞬間に網膜に写った光だけだ。
アインシュタインは、棒の端と端が時間が違っても同時に存在する原理を説明しなければならない。
{光速度普遍の原理を用いれば、次の関係が成立する}
tB−tA=rAB/(c−v’)及び
t’B−tA=rAB/(c+v’)
この式から、{棒といっしょに走っている観測者から見るとき、A,B二つの時計は合っていない}
この式は、動いている棒に対して、光が行きと帰りの所要時間が違うということである。それだけの話である。これから、{A,B二つの時計は合っていない}ということはできない。
Aからでた光がBに到達するまでに、Bは光から逃げる方向に、移動している。したがって、光の進む距離は、棒の長さより長くなる。一方、帰りの光には、Aは近寄るので、光の進む距離は、棒より短くなる。行きの距離のほうが、帰りの距離より長い。したがって、AからBに行く光はBからAに戻るより時間がかかるというだけのことだ。
小学校で習うたんなる追い掛け算の問題である。こんなことで、時間が延びたり縮んだりするといえたものだ。まあ、時刻とは、短針の示すメモリであるというのだからせいぜいその程度なのだろう。
{同時刻という概念に、絶対的な意味を与えてはならない}
これがこの節の結論であるようだ。
そこで、同時刻と、異時刻について考えてみよう。たとえば、本能寺の変と、5.15事件は、異時刻に起こっている。したがって、同時にこの事件を直接見ることのできた人はいない。これは場所が違うというのが原因ではない。たとえば、A町1234番地で、昨日おこった自転車転倒と同じところで、今日K氏が転んだ事件を、同時に見ることはできない。これは同じ場所だが、事件の起こった時刻が違うからだ。これは時計の短針の指し示す位置が違ったからではない、時刻は時計があろう他なかろう他関係ないのである。
もし二つ事件の間の時間が短くなっていくとどうなるだろう。
上の自転車が転倒したのと、K氏が転んだのとの間が30分なら見えるだろうか。見えないだろう。
では、間が1分ではどうだろう。K氏が転んだときには、自転車はもう起こされて走っていっているだろう。では1秒ではどうだろう。1秒でも異時刻は異時刻だからふたつの出来事は、前後しているだろう。今は今なのだ。それ以外は、過去か未来でしかない。ある動いている棒の端Aに対して、端Bが未来にあるなどということは可能なのだろうか。Bに対してAが過去などということは可能なのだろうか。
それが、ひじょうに短い違いなら、過去と現在と未来が今いっしょに存在できるのだろうか。そのあたりは、時計の短針の指すメモリが時刻であると小学生さえいわないようなことからでは説明できないだろう。
たとえば、私たちは8分前の太陽を見ている。したがって過去を見ているといえる、と言う論理がある。しかし、それは、過去の太陽と、地球がいっしょに存在しているということではない。今、地球といっしょに存在している太陽は、見えないけれど、見える太陽の位置より、先に進んだところにある。では見える太陽はなんなのだということだ。それは8分前に、太陽から出た、光が、8分かかって網膜に今、衝突したことによる、今の光を見ているのだ。
今いっしょに存在するのは、網膜に衝突した8分前に太陽を出発して、8分かかってやってきた太陽の映像と、見えている太陽より8分分進んだところにある、見えない太陽と、私の網膜である。過去を見ているが過去が今あるのではない。セピア色の、自分の子供のころの写真をみているのと変わりはない。
同時ではない、すなわち、異時刻なのに、同時に存在できる意味をアインシュタインは説明する必要がある。
(τ0+τ2)÷2=τ1 (著者注:2分の1がでないので、÷2と表記させてもらいました)
これは、§2で取り上げたように、やはり、行きと帰りの光の所要時間が、同じという考え方です。これが間違っています。
光速度不変の原理の解釈の問題です。
@ プロローグの前提
{光は真空中を、光源の運動状態に無関係な、ひとつの定まった速さcをもって伝播する}
書いたように、これは正しい。
A §1の定義
{光がAからBに到達するのに要する“時間”は、逆にBからAに立ち戻るのに必要な“時間”に等しいという要請を定義として前提におくことである}
これは@と矛盾するし、実際の観測にも反する。マイケルソン・モーリーの観測は、あの時代の観測技術の限界である。正確ではない。今は、人工衛星を使って、宇宙背景放射の観測から、光の、赤方偏移が、進行方向から来る光と後ろから来る光では違っているのが観測されている。光と、物体は、相対速度を変化させるということである。
{光速度不変の原理}は、{光は真空中を、光源の運動状態に無関係な、ひとつの定まった速さcをもって伝播する}において成立するだけである。真空中に対してであって、何物に対しても、一定速度ということではない。
この式が間違っているので、以下は、すべて間違いになる。
{静止系から眺めたとき、どんな光でもすでに仮定したように、それが早さcで伝播するならば、運動系(k系)からそれを眺めたときも、同じように速さcで伝播するということを証明しなければならない。}
このことについて、計算式が書かれ、証明されたということである。
この計算は、どの運動系に対しても、光は光速度cをとるということを前提として、生まれた式から始まっている。だから、結果として上の結論が出るのは当たり前である。
漫画ドラえもんでは、ドラえもんのポケットから何でも取り出せるというのが前提にある。だから、お話の中では何でも取り出せる。有名な「ハリーポッター」というお話では、魔法があるというのが前提にある。だから、そこの登場人物は、魔法学校で、魔法の勉強をすると魔法が使えるようになる。
前提しだいでどんなことでも計算上は起こる。
A=BならばC=Dになる、すると、B=Aになる、したがってA=Bが証明されたというわけだ。こんなのは証明にならない。
したがってこの式からは、上の問題を証明したことにはならない。
必要なのは、その前提が実際に存在するかを、実測で証明することである。いくら計算式をこねくり回しても、それはがんばっても仮説の域に達することしかできない。
アメリカの打ち上げた観測衛星WMAPが映した、マイクロ波宇宙背景放射の光が、地球の進行方向の光に対して青色偏移し、後方から来る光に対して赤色偏移している写真から言えることは、動いている地球に対して、光は相対速度を変えているという事実だ。
先に書いたように、このことから、地球は絶対速度の光に対して、相対速度を持っているのだから、地球も絶対速度を持っているということもいえる。
観測衛星WMAPが映した写真は、2重に相対性原理と相反する事実を証明している。事実と理論が食い違っているとき、観測事実が未熟であって、観測が間違っているか、理論が間違っているかを再検討しなくてはならない。
衛星WMAPが写した写真はかなり信頼度が高いということだから、理論のほうも再検討する必要はあるだろう。
§4 動いている剛体、ならびに時計に関する変換公式の物理学的意味
{特に、v=cのときは、すべての走っている物体は―静止系Kから眺めるとき―偏平な形に圧縮されてしまう.vが超光速となる場合は、われわれの考察は無意味なものとなる}
この現象は観測されているか。
今まで一度も観測されていない。もちろん、これは、自然界のふつうの速度では変化が小さすぎて、観測されないから、当然のことであるということになっているのだろう。
だとしても、実証されていないのだから、これはよくて仮説でしかない。悪くすると間違いである。
(1)例1
地球は、秒速数100kmで宇宙空間を動いている。自転のため、この進行方向にたいして地球の向く向きが変わっている。したがって、月の潮汐作用のように、地球の進行方向に対する扁平率が変わっているはずだ。この地球の速度による形の変化は観測されていない。もちろん計りようがないからだろう。
(2)例2
加速器で加速された陽子は光速になる。すると、この陽子は偏平な形に圧縮されてしまっているはずだ。それも、{光速cが、物理学的に見て、無限大の速さと同じ役目をになう}から、{vが超光速となる場合は、われわれの考察は無意味なものとなる}はずである。加速器の中ではそのようなことが起こっているはずである。これは観測されているのだろうか。陽子は小さすぎて、その形状は観測できないというのであろうか。ただ、少なくとも、{われわれの考察は無意味なものとなる}というようなことは、実験が普通に行われているところを見ると、起こっていないようだ。
物質は、速度によって、実際に縮むのだろうか。相対性原理が正しいとするなら、これは何らかの形で必ず実測しなくてはならないはずだ。計算の手品だけでは済まされないはずだ。
移動している時計は時間のテンポが遅くなる。
(1)直線の移動の速度と時間の関係
A、Bにある時計のAにある時計が移動して、Bにいたる。そのとき
{AからBに到着した時計は、もともとからBにあった時計よりもt(v/c)2秒よりだけ遅れている}という主張だ。
では、このときの、B点の時刻はどちらが正しいのだろうか。B点の観測者は、移動していないのだから、もともとB点にあった時計の時刻と同じ時刻にいるはずだ。彼の周りの地面や、B点は移動していないので、やはりB点の時計と同じ時刻にいることになる。
違う時刻にいるのは、A点から来た時計だけだ。同じ場所に違う時刻の物体が同時に存在するという不思議ができる。
空気を考えて見る。A点の時計の中にあって、いっしょにB点にやってきた空気を考える。この時計の外の空気は中の空気と時刻が違う。Aから来た時計の中の空気が外に漏れると、外の空気と交じり合う。すると、時刻の異なった空気分子がまぜこぜになる。
もしその違いが大きくて、12時間違えば、隣の空気分子は真夜中だけど、こちらは、真昼だということになる。あっちでもこっちでも昼か夜か大混乱になる。ぴったり24時間の違いなら、昼は昼、夜は夜と見た目は変わらなくなるが、それでも昨日の昼と、今日の昼がまぜこぜになっていることになる。
まあ、計算上は、無視していいほど小さな時間のずれだから、たいした問題ではないかもしれない。相対性理論で予想される出来事は、何でも小さすぎて観測できないことになっているのだから、うまくできたものだ。ところがそううまくはいかないことがある。
(2)回転移動する時計の時間の遅れの問題1
2個の時計がある。そのうち1個の時計がグルッと一回りすると、移動しなかった時計と時刻がずれるという。
ぐるぐる回ると、そのたびに時刻はずれていく。どちらの時刻が正しい時刻になるのだろう。これも、小さな違いだから検出するのが難しいので無視してもかまわないレベルでありそうだ。本当にそうだろうか。
(3)回転移動する時計の時間の遅れの問題2。
地球の赤道上に固定された時計と、極点に置かれた時計の時間のテンポの比較。
赤道上の時計のほうが、極点に置かれた時計に比べて、{非常にわずかではあるが、遅いテンポで時を刻む}
そこで地球ができてから、今日まで、赤道と、極点がどれくらい時間が違ったかを計算してみる。
赤道の速度をおよそ300m/秒、光速を、30万kmとすると、
t(v/c)2=t(0.3/300000)2/2となる。
ここで、tは地球誕生からの回転時間だから、45億年×365日×24時間×60分×60秒となる。141912000000000000秒となる。
したがって、上の式は
141912000000000000 ×(0.3/300000)2/2=2838
約2838秒、赤道の時刻が遅れているということだ。これは約47分である。
時間は累積されるから、現在赤道上の地面は、南極点の地面より約47分遅れた時刻になっているということだ。南極で、2009年4月1日午後1時のとき、赤道上は47分未来の2009年4月1日午後1時47分にあるということだ。
月からこれを見るとどうなるだろう。月は赤道よりまだ早く移動しているから、月の時計は、もっと遅れているはずだ。すると、月から見ると、赤道は少し未来で、南極はもっと未来ということになる。不思議な現象だ。
なぜ、このようなことになったかというと、最初の式が、間違っているからである。K系から見ると、{回転楕円体の形になる}という考え方が、間違っているのである。
これも、たんに計算式の手品である。最初の式を、自分の意図した答えが出るように、作ったから、時間が伸び縮みしたのである。最初の式が本当かどうか、実証していないのである。すなわち、机上の空論ではなく回転楕円体に見えることを実測しなくてはならない。
不思議な現象だ。南極から、赤道を見ると、赤道は、未来にあり、赤道から、南極を見ると、南極は過去の中にある。
時間とは時計の短針押さすメモリということでいいのだろうか。
過去、現在、未来が同時に存在するという秘密を相対論者は説明しなければならない。過去、現在、未来が同時に存在するというこの今はどの時刻なのかも確定しなくてはならない。
常識ではそんなことはありえない。今は今であって、地球すべてが今である。もちろん日付変更線は人間の利便性のために、太陽に対する地球の自転から割り出した線であって、本当の時刻の変わり目ではない。地球すべてを統一時刻にすれば、午前0時に、太陽があたっているところもあれば、星があるところもあり、日が沈むところもあれば、日が登るところもあるというだけのことだ。
このことから、時間に遅速があるということは事実と合わないということで間違いであるといえる。