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「いますぐわかる!E=mc」(「Newton」2010、5号

)についての反論2

著者 高田敞

(以下{ }内は、上記本からの引用) 

 

上記本P30。箱の中の光と、それを観測している2人の人に対する光の道筋について。

[疑問]

 箱の中の光はなぜ箱とともに動くのか。光は何に対して光速度不変なのか?Aさんに対してか、箱の壁か、鏡か、床か、天井か。


1 問題1{大きな箱の中で光が往復している}というが、それは本当か?

 動いている箱の中の{Aさん}に対して、光はつねに横向きに進むということである。箱の何が光の道筋を決めているのだろうか。このことを考えてみよう。

(著者注:光速度不変の原理はふたつの原理から成り立っている。「光の速度は光源の速度に影響されない」、と「光は何物にも光速度cである」の2つである。この2つは似て非なるものである。光の速度が光源の速度に影響されないのは、光が慣性質量を持たないということで説明できる。しかし、もうひとつの、光は何物にも光速度cであるという原理は理由が究明されていない。こちらは間違いである)


2 考察

(1) 動いている箱の中で光は真横に往復できるのか。

 このことを、慣性の法則と、光速度不変の原理とを具体的に比較して考えて見る。

 箱が、秒速1000km/秒で動いているとして考えてみる。

 箱に固定された光の発射装置と、ボールの発射装置とを比較してみよう。

 発射装置内のボールは、箱と同じ速度1000km/秒を持っている。したがって、真横に発射されたボールは、箱と同じ速度1000km/秒を質量に保存している(慣性の法則)。そのためにボールは箱に対して真横に飛び、向かい側の壁に当たって元の発射装置に戻る(空気抵抗や、引力がない場合)。

 箱が、1m/秒なら、発射装置内のボールは、1m/秒、箱が、10,000km/秒なら、ボールは10,000km/秒の速度を持つ。このように発射装置内にボールがあるときは、ボールは箱と同じ速度を持つから、ボールの質量がそれを保存し、発射された後も必ず箱と同じ速度になる。したがって、ボールは、箱に対して真横に飛ぶ。箱がどのような速度であっても、箱が慣性運動をしている限りボールは真横に飛ぶ。

 では、光はどうなるだろう。光は光源の速度に影響されないから、箱と同じ速度は持たない。したがって、光源からでた光は、箱の速度とは関係なく光ったとたんに光速Cの速度で飛び出すはずである(光速度不変の原理の、光は光源の速度を持たない)。この本の主張のように、光速+箱の速度にはならないはずである。

 原因は、光が慣性質量を持たないからである。ボールと違い、慣性の法則は適用できないのである。では、光はなぜ箱と同じ速度をもって、ボールと同じように真横にとび、向かい側の壁に当たるのだろうか。

 箱が1m/秒のときは1m/秒、 10000km/秒のときは10000km/秒になるのだろうか。光はこの力をどこからもらいどこに保存しているのだろう。「光速度普遍の原理」だからという答えだろうが、光速度が普遍になるにはその理由がいる。その理由をアインシュタインは述べていない。

 箱が1m/秒のときは光も、1m/秒で横滑りする。10,000km/秒のときは10,000km/秒で横滑りするためには、光は何らかの方法で、箱の速度を取り込まなくてはならない。ところがその方法は明示されていない。

 光は、反射する鏡の速度には影響されないということであるから、光が鏡に当たったときにその速度を取り入れるということはできないはずである。すると、どこから箱の速度を取り入れているのであろうか。謎である。

 光は何に対して光速度不変なのだろうか少し考えてみよう。

 鏡に反射したとき、光は向かいの鏡に向かって進む。その鏡は、15万km先にある。その鏡にたいして光速度不変とすると、鏡は15万km先の鏡の速度に瞬時に影響されたということである。情報が光速より速く伝わってきている。それでなくても、15万km先の鏡が、どのような方法で15万km先にある光の速度を規制するかは不明である。そんなことがあるわけがない。アインシュタインはその方法や、仕組みについて述べていない。

 では反射させた手前の鏡の速度の影響を考えてみよう。先ほど書いたように、光速度不変の原理の、光源の速度は光に影響しないという原理から、跳ね返した鏡は光の速度に影響しない。だから、この鏡の影響でもないはずだ。

 このことから、どちらの鏡も光の速度に影響しないといえる。

 もし片一方の鏡が光の道筋に影響すると、左右の鏡の速度が違えば、光はどちらの鏡に光速度不変であればいいのだろう。たとえば、100mの鏡が向かい合っていて、速度の違いが、1m/秒のときは、光は、この箱を、最大100回往復することができる。その間、光はどちらの鏡に、光速度不変で進むのだろうか。

 では、なにが光の速度を規制しているのだろうか。横の壁だろうか。壁はどのような力を加えて、光の道筋を決めているのだろうか。壁は光に触触れていない。方法は、不明である。ではAさんの眼力だろうか。そんなことはありえない。光が箱と共に進む科学的仕組みは、不明であるとしか言いようがない。

 速度によって、箱の時間が縮まるとする。しかし、箱の中は、何もない。箱に時間が縮まっても、箱の中の空間は、真空だから速度はない。光の通る道筋は時間が縮まっていない。だから、箱の速度によって時間が縮まることによって光が真横に進むというのは、根拠がない。左右前後上下共に15万kmの箱の中だったら光はどうなるだろう。真ん中を通るとすると、7500km先の壁の速度による、時間の縮みの影響を受けるということになる。壁は、7,500kmの真空の区間を通して、壁が速度によって時間が縮まっていることを伝えるのだろうか。これは箱の大きさとは関係ない事象である。壁が1m先であっても同じである。壁と光は物理的に関係がないのである。

 この光速度不変について、アインシュタインも抽象的な感慨以外なにひとつ説明はしていない。光速で飛んだとき、鏡に顔が映らないと困るとか、そうなのだから、そうなのだというだけである。なぜそうなるのかの科学的根拠は説明していない。すなわち科学ではない。ごり押しである。もちろん、実験して、実証しようとすらしていない。

 したがって、箱の中の光が真横に動くというのは根拠のない仮説である。本当は根拠がないのだから、仮説にもならない代物である。

 

{大きな箱の中で光が往復している}というが、こういうことが起こる理由がないのであるから、これは、根拠のない現象である。この書き方は、あたかも事実のように書くことで根拠のない現象に不審の目をむけさせないようにしているとしか思えない。

 原理の内容と、それの書き方と、二重に間違っている。原理は間違い、書き方は、ごまかしである。

 

 

(2) 光速度不変の原理から起こると予想される現象の矛盾について条件を変えて仮想実験をしてみる。(以下、光速度不変の原理にそって考える)

ア 箱がある場合

@ 観測者が見た光 

 光速度不変の原理から{一定の速度で走る}観測者Aさん{が見ても}、{静止する人}観測者Bさん{が見ても}{光速Cはつねに一定だ}ということになるはずである。

 すると、{一定の速度で走る}Aさんが見て光が真横に動くなら、{静止する人}観測者{Bさん}が{見ても}真横に動かなければならないはずである。{Aさん}に対して成り立った法則だから、{Bさん}に対しても同じに成り立たなければならない。

 この本にあるように、動いている{Aさん}に対しては、光は真横で、静止している{Bさん}に対しては斜めになるというのは、この原理に反しているといえる。

 これは、{Bさん}に対しては光速度不変の原理を適用していないから起こっているのである。{Bさん}に対しては、箱が移動しているから、光もそれに連れて移動しているという、列車内のボールの現象を適用している。列車内で真上に投げ上げたボールは、列車の外の人から見ると、放物線を描いて飛んでいる、というのと同じ原理である。すなわち、慣性の法則を適用していることから来ている。

 都合のいいように違う原理を適用するのは間違いである。

 いや、AさんにもBさんにも光速度は一定である。だから、Aさんの時間が遅れる、というのがこの本の主張である。しかし、なぜ同じ光速度なのにAさんに真横で、Bさんに斜めになるのかの説明や原理がない。

 もしどちらかに斜めでどちらかに真横なら、光はBさんに真横でもかまはないのである。そのときは、光はAさんに斜めで、箱の中を斜めに進むことになる。Aさん、Bさんどちらに光が真横になる優先権があるかは、光速度不変の原理の中にはない。あるのは、アインシュタインの都合の中だけである。すなわち、光が、Aさんに斜めであると、動いている物体ではなく止まっている物体にエネルギーの損失が生まれるから困るからである。

 

A Aさんが箱の中を歩いた場合

{静止する人が見ても、一定の速度で走る汽車の乗客が見ても、光速Cはつねに一定だ}とあるから、一定速度で箱の中を歩いているAさんに対しても光は真横に進むことになる。(注:乗客は、身動きせずにじっと座っていなければ原理は適用できない、という原理をアインシュタインは書いていない)

 すると、光はAさんに真横に進むから、Aさんとともに箱の中を移動することになる。このとき、箱に対して、光は斜めに進むことになる。AさんとBさん(箱)の関係と同じことになる。これは、Aさんが歩いたことによって、Aさんの時間と空間が伸び縮みしたことによると説明するのだろうが、そうだろうか。Aさんが時速4kmの一定速度で歩くと、光も、時速4kmの速度で横滑りしてAさんについていくのだろうか。この箱が、奥行き4kmあれば、光は、Aさんに従って端から端まで、1時間で横滑りしていくことになる。Aさんが時速2キロで移動すると、光はやはり、2時間かけて、箱の奥まで横滑りしていくことになる。超能力者Aさんは光を従えて歩いていく。すると、すべての地球上の人は、降り注ぐ太陽の光を従えて歩いていることになる。すばらしい!熱射病になりそう。

 光速度不変の原理は、Aさんが椅子に座っているときは成り立つが、Aさんが歩くと、関係なくなるという原理を導入しなくてはならない。歩くのがだめなら、箱の中に列車を入れてそれに乗せて走らせればいい。これなら汽車の乗客であるから、相対性理論では最優先されるはずだ。光は箱の中をミニチュア列車の乗客のAさんについて走り回る。時速40kmで奥に向かって走ると、光は往復しながら、箱の奥に6分で到着する。

 これは、箱が、1mm/秒のときは光は往復しながら1mm/秒の速度で横滑りしながらBさんに近づき、箱が、10000km/秒のときは光は往復しながら10000km/秒の速度で横滑りしながらBさんに近づいていくのと同じ現象である。

 光が、どのような仕組みでAさんにのみ忠実に従っていくのだろう。Aさんは魔法使いなのかしら。

 アインシュタインは{誰が見ても光速度Cは一定だ}という原理からだと述べているが、先に書いたようにその原理の仕組みを述べてはいない。

B 鏡が壊れた場合

 とつぜん壁が壊れて、光が反射しなくなったとき光はどうなるだろう。

この場合は、光は箱の外に出て行くが、そのとき、光は箱の速度と同じ速度で、横滑りしながらBさんのほうに動いていくことになりそうである。

 すると、普段走っている列車内の光は、列車の外に出ても、列車の速度と同じ速度を持って横滑りしていることになる。

 列車の進行方向に対して真横に発車した光は、列車と共に進む速度も兼ね備えている。すると、車窓から出た光もやはり、そのまま、列車の速度を、光の速度に加えて進行方向に斜めに飛んでいくことになる。これは列車内で投げたボールが外に出ても、列車の速度を持ち続けようとするのと同じである。(実際は空気抵抗で、後ろに飛ばされるように見えるが、飛行機から落とされた爆弾が、飛行機と共に、前方へ飛んでいくのは、質量が大きく、空気抵抗が少ないから良くわかる例である)

 こんなことが起こっているのだろうか。光は慣性の法則と同じ動きをしているのだろうか。ひじょうに疑問である。

C 箱の中に2人いる

 箱の中に観測者Aさんのほかに、観測者Dさんがいる。Aさんは椅子に座って身動きしない。Dさんは、ミニ列車にまたがって一定の速度で箱の奥からAさんに向かって走行している。

 この場合光はどのようになるのだろうか

a Aさんに真横に動き、Dさんに斜めになる。

b Dさんに真横に動き、Aさんに斜めになる

c A,Dさん共に真横になる

d ADさん共に斜めになる

 さあどれでしょう。

 この場合、aになるかbになるかは光速度不変の原理からは決められない。この本の現象からすれば、箱と同じ速度のAさんに真横で、Dさんに斜めになりそうである。しかし、これは、{静止する人が見ても、一定の速度で走る汽車の乗客が見ても、光速Cはつねに一定だ}という光速度不変の原理に合わなくなる。箱とともに一定の速度で走る、Aさんには真横になるとすると箱の速度が光の速度に関係してしまう。これは、光速度不変の原理、光は光源の速度に影響されない、に反する。

 アインシュタインは列車の乗客が好きだから、彼なら、Dさんに真横で、Aさんに斜めになると言いそうである。この本の例では、光は動いているAさんに真横で、止まっているBさんに斜めであるから、この場合動いているDさんに真横であるほうが優位であるといえそうである。

 しかし、どちらになるかは光速度不変の原理だけでは決められないといえそうだ。困ったものだ。

 光速度不変の原理に一番忠実なのが、cである。これなら、Aさんにも、Dさんにも、光速度は不変である。しかしそうなると、光はAさんや箱に真横に往復している光と、箱の奥に進んでいるDさんに対して真横に往復している光の2筋の光ができてしまう。光は分身の術(忍者漫画を見ない人にはわからないかな)を使うしかない。これも困りものだ。

 dはどうだろう。これはニュートンである。光は絶対空間に絶対速度で進む。すべての物質も絶対空間に対して動いている。だから、すべての物質に対して、光は相対速度を持つ。したがって、光は動いている物質に対して斜めに進む。これだと、aかbか、と悩まなくて済む。また光も分身の術を使う必要がなくなる。この後でてくる、空間や時間を伸び縮みさせることもいらなくなる。単純明快である。

実際例1

 地球と光の相対速度が測られている。

 宇宙背景放射というものがある。地球に対して宇宙の全方向から、マイクロ波が降り注いでいるという現象である。この光を撮影すると、地球の進行方向に青方変異し、後方に赤方変異して写る。これがかなり精密に人工衛星によって撮影されている。光と、地球が相対速度を持っているということ、すなわち、背景放射の光は、地球に対して光速度cではないということの実証である。これは2機の人工衛星で撮影されているから、発見と、検証が成立するから事実といえる。

 {静止する人が見ても、一定の速度で走る汽車の乗客が見ても、光速Cはつねに一定だ}という光速度不変の原理を否定している現象である。 

実際例2

 地球に降り注ぐ光は、地球の進行方向に対して斜めに降り注いでいる。これは、地球の速度のために、空間や時間が縮まったためではなく、走る車から降る雨を見たら、雨が斜めに見えるのと同じ現象である。光と地球が相対速度を持っている証拠である。光速度不変の原理なら、動いているAさんに真横に動いたように、光は動いている地球にまっすぐ降るはずである。

 いや、Bさんに対するように地球に斜めになる、という考えもあるが、それはこの場合に当てはまらない。検討してみよう。

 Aさんの立場が星である。Bさんの立場が地球である。だから、星から出た光は、星にまっすぐで、地球に斜めになるということになる。先に挙げた箱の壁が壊れたときの光が箱の速度で横滑りし、Bさんに斜めに進むのと同じと考えられる。一見同じ現象のようである、しかし違うことがある。AさんBさんのときは、Aさん(箱)の速度がBさんに対する光の角度を決めていた。星の場合は、地球の速度(Bさん)が光の角度を決めている。星はどれも速度が違う。もし星(Aさんのたちば)の速度が光の角度を決めるなら、すべての星の光は地球に降り注ぐ角度が違うはずだ。ところがそうはなっていない。(遠すぎるから、というのは理由にはならない。箱の中の光は箱と同じ速度でBさんに向かっていたのだから、星の光も星と同じ速度で、地球上を横滑りしているはずである。)星は秒速数百キロで動いているのであるから、すべての星の光は地球上でてんでばらばらに斜めになるはずである。すべての星の光が地球の進行方向に斜めであるというのは、すべての星の光が起源の星に対してまっすぐではなく、絶対空間に対してまっすぐであるということを示している。絶対空間に対して、動いている地球は光と相対速度を変えるから、すべての光が、地球の進行方向に対して斜めになるのである。

 また光速度不変なら、星の光は地球に対してもまっすぐにならなければならないはずである。{静止する人が見ても、一定の速度で走る汽車の乗客が見ても、光速Cはつねに一定だ}という光速度不変の原理である。マイケルソンとモーリーの実験は動いている地球に対して、直角に交わる光は共に光速度であるといっている。このことは外からくる光はどこから来ても同じ光速度であると言っている。彼らの実験は地球に対して相対速度をもつために斜めになっている星の光を検出できないということだ。

 

 これらは、絶対空間があるとすると常識の範囲で簡単にすべて説明がつく。欠点は、相対性理論が成立しないことと、常識すぎてまるで面白みがないことだ。不都合なのはそれだけだ。

 以下のエの例などはもっと奇想天外でとても面白い現象だ。科学が芸術の域に高められたといっても過言ではない。そういう意味で相対性理論はすばらしい理論である。科学でありながら科学を越えているのである。すなわち科学ではないのである。平凡で面白みのないニュートンとは大違いである。

 

エ 箱の中の空気と比べる。

 箱には、箱と光とAさんのほかに空気がある。そうでないとAさんは死んでしまう。

 箱とAさんは固定しているとする。するとイに書いたような矛盾は起きないから安心である。

 しかし空気がある。空気について考えてみよう。光は何物に対しても光速である原理を考えて見る。空気には空気分子があるから、これに対して光は光速度不変で進むはずだ。空気分子は箱と同じ速度で動いていない。箱の中を様々に動き回っている。それも分子ごとに動きは違っている。ある酸素分子を通り抜けた光は、その酸素分子に対して、光速だから、真横に動く。次に通り抜けた酸素分子は、違う方向に動いている。すると光はそれに対しても真横に動く。空気にはそのほかに窒素分子もある。様々な分子が部屋の中を様々に動いている。光は、それらの分子を通り抜けるたびにその分子に対して、すべて光速不変で飛ぶことになる。光はぐにゃぐにゃに走るしかなくなる。そしてその空気分子に光速度であるから、Aさんに対して、つねに速度が変わる。それは空気分子の時間が速度によって変わっているから、光は直線であるというのだろう。

 Aさんが暑いからといって、扇風機をかけたらどうなるだろう。空気は渦巻く。光は大変だ、ぐるぐる回る空気中の分子についていかなくてはならない。それもとなりの分子は違う動きをしているのだから、一瞬後には違う向きと違う速度にならないと、光速度不変は保たれない。光は目がまわってしまうだろう。

  扇風機をかけると、時間や空間が渦巻くのだ。楽しい現象だ。光は早いから、揺れは観測できないだろう。とアインシュタイン得意の論法を持ち出しそう。

オ 箱の外側に鏡を置く

 箱の壁より少しだけ外側になるように向かい合った鏡を置く。この鏡はBさん同様移動しない。箱の壁はすべて透明とする。

 箱が移動してきて、固定してある鏡の間を通り抜けるとき、箱のなかで光を壁に向かって発射する。

 光はどうなるか。

@ 光は箱の透明な壁を通り抜け、鏡で反射し往復する。その間に箱は移動する。光は鏡の間に残って往復する。

A この本のように箱と共に光は移動するから、光は鏡で反射するが、鏡に対して斜めになり、鏡の間を往復することはできない。

@ の場合、この本にあるのと異なる結果になる。しかし光速度不変の原理では、鏡に対して光速度不変で、まっすぐ進むから、このようになることも可能である。

Aの場合がこの本の説明と一致する。

 では、Aになる原理はなんだろう。光速度不変では説明できない。光が、箱と共に移動し、鏡とは同じ速度にはならないという理由がいる。

 光速度不変なら、箱に対して光速度であるとともに、鏡に対しても光速度不変でなくてはならないはずだ。

 では、ニュートンではどうだろう。鏡が、絶対空間に対して停止している場合のみ、光は鏡の間を往復する。箱や、鏡が絶対空間に対して動いているときは、光は往復できない。単純明快である。

 

(2) 箱がない場合1

 では、箱がない場合は、どうだろう。光源がないと光も生まれようがないので、この際発光器を置くことにする。発光器は、Aさんと同速度で、Bさんとは違う速度であるとする。

 

 Aさんの近くにある発光器から出た光はどうなるだろう。 箱があった場合と同じように、光はAさんに真横に、Bさんに斜めに進むだろうか。この根拠は光速度不変の原理のどこにあるか考えてみよう。

 Aさんと発光器の速度が同じだから、Aさんに真横に進むと考える。しかし、観測者が、光源の速度と同じときにだけ光は真横に進むというのは、光速度不変の原理、光の速度は光源の速度に影響されない、に反する。だから、この答えは光速度不変の原理ではないことが分かる。 どちらかといえばこれは慣性の法則と同じ現象である。慣性の法則は、光には適用できないことは前に述べた。

 「光速度不変の原理」は上の原理と{静止する人が見ても、一定の速度で走る汽車の乗客が見ても、光速Cはつねに一定だ}というのが原理であるから、観測者の速度は関係がない。

 誰が見ても光は光速度でなければならないから、Aさんが見てもBさんが見ても光速度でなければならないはずだ。{Aさん}から見ると真横に動くなら、同じ原理で、観測者{Bさん}から見た光も真横に動くはずである。誰に対しても{光速Cはつねに一定なのだから}そうなるはずである。観測者{Aさん}がどのような速度で動いていようが、観測者{Bさん}がどのような速度で動いていようが、発光器の速度がどのようであろうが、{光速Cはつねに一定なのだから}{Aさん}に真横なら、{Bさん}にも真横でなくてはならない。Bさんに斜めなら、Aさんにも斜めでなくてはならない。この本のP30と、P31にある、Aさんには真横で、Bさんには斜めであるという、箱のある場合のようにはならないはずである。

 箱の有無で結果が違うのだろうか。この場合箱がないからだめなのだろうか。では箱が光にどのような影響を及ぼすのか原理に書き加えなくてはならない。光速は箱によって左右される、とか何とか。

(3) 通り過ぎる箱の場合

 箱は、1000kmとする。この箱が、Bさんを通り過ぎるときは、光は往復しながら時速1000kmで通り過ぎていく。新幹線の5倍の速度だ。さぞかし壮観だろう。

(4) 大きな箱の場合

 箱の長さは4光年。速度は秒速100kmである。光は8年かけて1往復する。この間光はAさんに真横である。1往復して元に戻ったとき、箱の鏡は、元の場所から、252億2880万0000km移動している。光はこの間箱に忠実に横すべりしていたのである。これは、秒速100kmの箱の空間が、8年間に縮んだ長さであるのだろうか。それとも時間が縮んだためであろうか。この距離は、光で、約23時間かかる距離である。8年間で23時間ほどゆっくりになるならならたいしたことではないか。

 地球に一番近い星は約4光年先にある。そこから出た光は星に対して、光速度不変で進むから、星と共に、横滑りしながら地球にやってくるはずだ(鏡の有無は光速度不変の原理と関係ないことである)。その星にAさんがいたら、Aさんに対して真横であるのだから、星のある物質に対して真横になりそうである。すると、4年後地球に着いた光は、地球に対して、横滑りしているだろう。星は大体数100km/秒で動いている。星の光は地球上を、数100km/秒で動いていくことになる。これは観測されているだろうか、観測されていない。

 もし、光が、発光器と共に横滑りするなら、地球上の星の光はそれぞれの星の動きと共に横滑りし、てんでばらばらに斜めになるはずである。これは観測されていない。すべての星の光は惑星も含めて地球の進行方向に対して斜めになっている。

 なぜか、星の光は、星(Aさん)に対して真っ直ぐではないということだ。

 理由は簡単である。光はニュートンの絶対空間に対して真っ直ぐなのである。光源の速度に影響されない光は、つねに絶対空間に対して光速であると考えると、光は、地球の動きだけに対して、動くことになる。これは、すべての星の光が地球の進行方向に斜めになっているという、光行差として観測されていることと一致する。

 

 

(4) 光が縦に往復するとき(箱が縦に長いとき)

  光が縦(進行方向)に往復している。

 光は、光速度不変の原理から、Aさんに対して光速度である。するとBさんから見ると、進行方向に進む光は、光速c+Aさんの速度、反対に進むときは、光速c−Aさんの速度になる。するとBさんに対する光速度は普遍でなくなる。速度が変わったのは、進行方向に光が進むときには、Aさんの時間がゆっくり進み、光が反対に進むときはAさんの時間が早く進むためであるのだろうか。

 Bさんに対するAさんの速度は変わっていないのでAさんの時間の進み方は同じはずであるのに、光の進む向きで、時間の伸び縮みが逆になる。

 このことから、Aさんの時間の進む速度は、Aさんの速度ではなく、Aさんに対して光の道筋が縦か横かで変わるということになる。

 Aさんの体は全方向に赤外線を放出している。すると、その光に対して、様々な時間の進み方になる。Aさんは、どの時間に従って生きていけばいいのだろう。

 

 

(4) 「相対性原理」で考えてみる 

 「相対性原理」は{「特別な基準など存在しない」}という原理である。基準は、Aさんでも、Bさんでも自由に取れる。

ア 運動エネルギーで考える

 運動エネルギーは、ニュートンによると(E=1/2×mv)の式で計算できる。

 

Aさんは箱とともに質量が1tあるとする。Bさんは60kgとする

 箱の速度を100km/秒とする

@ Bさんを基準とする。

 Bさんは静止しているので、運動エネルギーは0である。

 Aさんの運動エネルギーはE=1/2×1,000kg×100000m

であるから、E=5×1012ジュールになる。

A Aさんを基準にする。

 今度は、Aさんが静止し、BさんがAさんに向かって動いている。するとAさんと箱は動いていないので運動エネルギーは0になる。

 Bさんの運動エネルギーはE=1/2×60kg×100000m

 であるから、E=3×1011ジュールになる。

B 結論 

 基準の取り方で、運動エネルギーがまるで違うものになる。ここでは一桁も違っている。同じ現象なのにこのように運動エネルギーが違うのはエネルギー保存則に反する。

 ニュートンの考え方だと、絶対座標が存在し、それに対してすべての物質が動くので、すべての物質の速度は決まっている。基準をどこに取ろうとも、物質の速度は変化しない。それだと、Aさんの運動エネルギーもBさんの運動エネルギーも絶対的に決まっていて、変化しようがない。

 これはニュートンの絶対座標の考え方が間違っているのか、アインシュタインの相対性原理が間違っているのかのどちらかである。基準の取り方で同じことが違うエネルギーになるアインシュタインの相対性原理が間違っていると言えそうである。

 

イ 慣性運動で考える

 この本では、Aさんが、Bさんに向かって一定速度で動いている。これはBさんを基準に考えたからだ。アインシュタインの相対性原理では絶対座標はないのだから、Bさんが絶対静止であるということはない。

 そこでAさんを基準に取る。すると、それまで動いていたAさんがとつぜん停止し、今度はBさんがAさん向かって動き出す。

 動いていたAさんがどのような作用で停止したのだろうか。止まっていたBさんがどのような作用で動き出したのだろうか。基準を変える間に、どのようなエネルギーの受け渡しがあったのだろうか。アインシュタインの相対性原理の謎である。相対性論者は知らん振りしているが、次のことにどう答えるだろうか。

 最初、Aさんが100km/秒で動いていたとする。すると、Aさんは5×1012の運動エネルギーを持っていたはずだ。それが、基準を変えた途端に、運動エネルギーは、0になる。

 運動エネルギーはどこに消えたのか。不明である。基準を変えた途端の一瞬に、箱と、Aさんを停止させるのである。すごいことだ。

 Bさんに関してもそうである。最初、停止しているので、運動エネルギーは、0である。それが基準をAさんに変えた途端に3×1011の運動エネルギーを持つことになる。このエネルギーはどこから降って涌いたのだろうか。しかも、一瞬で、Bさんを100km/秒の速度にするのである。車を10秒で、時速100kmにするのはとても大変だ。

ウ 結論 

 何物も両者に力を加えていないのは明白である。ただ基準を変えただけでこのような手品ができる。アインシュタインの相対性原理とは不思議な原理である。たしかに、天才にしか思いつかない、すばらしい原理である。しかし、すばらしい思い付きであったとしても、これは科学とはいいがたい。

 ニュートンの、絶対座標ではこのようなことは起こらない。AさんもBさんも、速度は決まっている。絶対座標に対する、絶対速度である。ただ、ひじょうに常識的で、単純で、なんら面白みのない考え方ではある。しかし、これだと、アインシュタインの相対性原理と違い、慣性の法則も、エネルギー普遍の法則も、作用反作用の法則も矛盾なく成り立つ。

 (余談:作用反作用 ダンプカーと軽乗用車が、走ってきて、正面衝突する。このとき、基準をダンプカーにとると、軽自動車が走ってきてぶつかった後、跳ね返される。基準を軽自動車にとると、ダンプカーが走ってきてぶつかって跳ね返る。相対性原理ではどちらも正しい。俺が止まっていた悪いのはお前のほうだ、と責任のなすり付け合いになる。軽自動車にダンプカーがぶつかって跳ね飛ぶでしょうか?

 いや、軽自動車は最初の位置から動いた、という主張もあるでしょう。でも最初の位置とはなんなのでしょう。ニュートンの絶対座標では決められても、アインシュタインの相対性原理ではそんなものは決められないのです。最初の位置を決めた途端に、基準は最初の位置という存在ができてしまいます。道路上のA地点ということにすると、そこが基準になってしまいます。すると、両車両は移動していることになってしまいます。まあそれが普通の状態です。ところが、基準が、道路上のA地点になると、今度はそこが静止してしまいます。すると太陽が、地球のA地点を基準に回りだします。天動説です。中世に逆戻りです。まあ、アインシュタインの相対性理論はニュートン以前の中世の理屈を根本にしているのですからそうなるのは当然でけれど)

エ 相対性原理で考える時間の遅れ

 本では、Bさんが基準だった。だから、Aさんが動き、Aさんの時間が長くなった。相対性原理から、基準はどこにでも取れる。したがって、Aさんに基準をとってもいい(上に書いたように本当はそんなことはできないのだが)。すると、BさんがAさんに向かって動く。

 このときも箱の中の光は真横に動く。なぜなら、{静止する人が見ても、一定の速度で走る列車の乗客が見ても光速cはつねに一定}であるという原理から、一定速度で動いていたAさんに対しても静止したAさんに対しても光速cであるはずである}
@ 箱の中で真横に往復している光が、Bさんに対して、斜めに動いているようになる(注:1)

 これは動いている車に雨が斜めに当たるのと同じ現象である。すると、同じように、斜めの光のBさんから見ると、Aさんの時間は遅くなる。 

 このことから、Aさんが動いているときでも、反対にAさんが止まっているときでも、時間はどちらもAさんのほうが遅くなる。

 このことから、速度と時間は関係がないということがわかる。時間の遅速は、箱に入っているか、否かであるということがわかる。あるいは、時間は発光器と同速度のものに遅れるということかも。

 楽しい話だ。

(注1:このとき、光が斜めになるのは、本当はBさんと箱の中で往復する光の相対速度が変わったために起こる。前述の走る車に雨が斜めに当たるのは、雨と、車の相対速度が変わるために起こる現象である。それと同じである。同じように、Bさんが静止しているときに箱の中の光が斜めになるのは、Bさんと光の相対速度が変わるためであるといえる。このことから、Bさんに対して光が斜めになる現象は、光速度不変の原理に反しているといえる)

 A 箱の光は真横に進む、またBさんが見た光も、真横に進むと考える場合

  箱の両側に光がつねに当たっている。箱は停止しているのだから、光が箱に当たる位置は、つねにBさんと関係なく、同じであると考える。動いているのはBさんだけである。するとAさんとBさんの時間は同じになる。

  これでは、速度で時間が伸び縮みすることにはならない。困りものだ。

(4) 観測者が3人いる場合を考える

 Cさんを加える。

Cさんは箱の2倍の速度で、箱の後ろから箱と同方向にBさんのほうに飛んでいる。

ア Bさんを基準とする

Bさんが停止。AさんとCさんがBさんに向かって動く。CさんはBさんを追いかけて2倍の速度で接近している。

 箱の光は、Bさんに向かって斜めに進む。また後方にいるCさんに向かっても斜めに進む。その光は、反対方向に、同速度で斜めに進んでいることになる。

 このことから、Aさんの時間は、Bさんに対して遅れると供に、Cさんに対しても遅れる。光が斜めになる角度は同じだから、同じ時間遅れる。

 すると、一番速いCさんと基準のBさんの時間の進み方は同じになり、中間の速度のAさんの時間が一番遅れることになる。

 速度と時間の関係が合わなくなる。

 

結論

 基準の取り方で、時間の遅れが、違ってくる。また、基準の取り方しだいで、各人の持つ運動エネルギーがまるで違ってくる。 光速度不変の原理が正しいのか、ニュートンの運動エネルギーの法則やエネルギー不変の法則のほうが正しいのか、二者択一の問題である。ニュートンと、アインシュタインは同じだというがそんなことはない。相容れない。私は、アインシュタインが間違っていると思う。なぜなら、エネルギー不変の法則も、運動エネルギーの法則も実証されているが、アインシュタインの光速度不変の原理も、相対性原理も、実証されていないからである。しかも今まで書いたように、ありえない現象しか生み出さないからである。

 光速度不変の原理そのものは、マイケルソンと、モーリーの実験で証明されたというけれど、その実験装置は、地球に固定されているので慣性系ではなく、回転する加速系である。あの装置は、地球の自転、公転、銀河の回転などの複雑な回転運動のために動いた実験装置のブレによる光の道筋のブレを検出していない。誤差があるということである。あの装置の距離で光が直角に飛ぶことによる距離の違いは、地球の動きより小さい。あの装置には、光速度不変を検出する精度はないということがいえる。また、仮にあの実験が正しいとしたら、光は、加速系に対して、光速度不変である、といわなければならない。したがって、特殊相対性理論が、慣性系の理論であるというのは間違いで、加速系の理論であると訂正しなければならない。

 他の理由を考えてみよう。アインシュタインの相対性原理はどうだろう。相対性原理は{「特別な基準など存在しない」という原理です。静止する人が見ても、一定の速度で走る汽車の乗客が見ても、すべての物理法則は同じように成り立つはずだ、とアインシュタインは考えました。}ということだ。

 だから、箱の中の人が見ると、光は横に動くのである。この箱の中で投げたボールが横に動くのと同じであるというわけである。書いたように、ボールが横に動く原理は解明されている。しかし、光がボールのように横に動くという原理は解明されていないばかりか、書いてきたように矛盾した運動だらけになる。

 相対性原理に光を加えられるということは{とアインシュタインは考えました。}という、アインシュタインが考えただけの仮説(そこまで行かない、たんなる思い付き)にしか過ぎない。証明されていないのである。

 同じような原理に、ガリレオの相対性原理というのがある。アインシュタインの相対性原理の元になった理論である。違いは、光が、この原理に含まれるか否かである。ガリレオの相対性原理には光は含まれない。なぜなら、ガリレオの相対性原理は慣性の法則であるからだ。慣性の法則は、慣性質量を持ったものにしか適用されない。だから、ボールなど、慣性質量を持つ物質には適用できても、慣性質量を持たない光には適用できない。慣性質量を持つボールは箱の速度を保存するから、箱とともに飛ぶが、光は、慣性質量がないから、箱の速度を保存できず、箱に取り残されるというのがガリレオの相対性原理である。

 アインシュタインは、ガリレオの相対性原理に光を加えたのだが、なぜ、光を入れることが可能かという理由は述べていないし実証もしていない。

 光速度不変の原理ではガリレオの相対性原理のように光は光源の速度を保存しないといっている。どのような速度の光源からでた光も光速度であるということである。これは、発光器の移動速度を光は保存しないということのはずである。もちろん箱や、箱に同乗している者に対して光速度であるということでもないはずなのに、この本では、発光器や箱や同乗者とだけ光は同一速度になっている。もちろん、なぜ、発光器に同速度のものにだけ、光は同速度になり、他のものに対して違う速度になるのかを証明していない。光速度不変の原理でも、いえないことである。

 しかし、アインシュタインの相対性原理は、光も含む。すなわち、ボールが箱の速度を保存したように、光も何らかの方法で箱の速度を保存するようである。ところがこれが実証されていない。箱の速度と同じになるという方法も思い付きにしか過ぎない。これこそアインシュタインの相対性原理の肝心なところであるのに、実証していないのである。しかも屁理屈を言うだけで実証する気はないのである。なぜなら事実でないから実証できないのである。