霧氷の1


 一日中吹き荒れていた風は,いつのまにかすっかり落ちていた。遠く,山裾の方に黒く沈んでいる海からかすかに潮の香りを含んで,冷たい、あるかないかの風が木々の間を渡って静かに尾根を越えていた。そんな日の翌朝は、山一面の木々の枝がきまってきらきらと輝く氷に覆われるのだ。

 その、静まり返った山の中を,さきほどから稲妻型に飛ぶものがあった。それは,茅の藪から藪へ,木の陰から陰へ,黒い風のように移っていた。音ひとつ立てずに。上弦の細い月明かりの中で,それは、一瞬の影にも見えなかった。

 狐は,茅原の中でぴたりと止まると,そのままじっとうずくまった。どんな小さな気配も見逃すまいと,神経をぴんと張り詰めさせていた。しかし,まだ,目も,耳も何も捕らえていなかった。だが,敵がいることだけは確かだった。鼻だけは,かすかに,敵のいることを知らせていた。

 自分のテリトリーの中によそ者の狐が入ってきてからもう十日ちかくなる。初めの内は,またいつものようにすぐいなくなるだろうと思っていた。ところが,最初のころテリトリーの周辺部で餌をあさっている様子だったのが,次第に中心部へ進入してきた。そして,この二三日、これ見よがしに,木や岩に,匂いをこすりつけていた。明らかな挑戦だった。そして,昨日,食べ散らかした雉の羽があった。勝てないかもしれないと,初めて思った。彼は、自分がもう雉を倒す敏捷さはなくなっているのを知っていた。それでも,このテリトリーを守ってこれたのは、この数年,ほかの狐が入ってこなかったからに過ぎない。そして,その前は彼もまだ若くてたくましかった。そのころは,流れ者も,やってきても周辺部で、ニ三日うろうろしては,そそくさとまたどこかへ消えていったものだ。
 だが,今度ばかりは,ことはそうは運びそうもなかった。堂々と中心部へ進入してきたということは,こちらが,もう若くもなく,そんなに力もないのを見抜かれたということなのだ。
 逃げ出すか,闘うか。狐は初めて迷った。そして、残った。
 (続く  乞う御期待)


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