へいこく雑記帖


光速で飛ぶアインシュタインを光は光速度で追い抜けるか?

 

著者 田 敞

 

まえがき

「光速度で飛ぶ自分」の傍を同方向に進む光はどのように見えるだろうか?

とアインシュタインは考えた。その答えは、

「光は光速度で自分を追い抜いて行く」だった。これが特殊相対性理論の始まりになるということだ。ところで、これは本当だろうか。理論はあるのだろうか?実証はあるのだろうか?考えてみる。

 この現象の原理として、アインシュタインは、「真空中における光速はすべての慣性系で一定」と考えた。

 理由は@光は真空中を光速度であるという、マクスエルの理論からだということだ。

 もうひとつは、A相対性原理である。宇宙には計るための基準が無い。だからすべては相対的であるという考えだ。そこで、Bガリレイの慣性系に光も加えて、慣性系に対して光は光速度になるという結論をだした。

 これは、それまでのニュートンの絶対空間の考え方を完全否定した新しい考え方で、素晴らしい考えだと、多くの科学者の賛同を得ている。

 そこで、この考えで、「光速で飛ぶ自分」に対して光は光速で追い抜くことができるだろうか考えてみる。それと、科学は実証が必要だから実際にこの現象は起こっているかについても考える。アインシュタインは空想しただけだから、科学としては完結していないからだ。重力レンズも、アインシュタインは、こんなことはまれ過ぎて起こらないだろう、と言っていたが、他の人が観測している。そのために、科学として認められたのだから。

重力レンズはまれな現象だが、光が慣性系に光速であるなら、すべてにわたって常に起こっているはずだから観測されて当然といえる現象だから、その気になればどこでも観測できるはずだ。

(私論:重力レンズは、恒星や銀河や銀河団のガスによる屈折現象であるとも考えられる。相対論者はこれを無視している。もっとも不利なことを、真っ先に検討することが科学の方法であるということをないがしろにしている。屈折現象は理論も実証もある、認められたありふれた現象であるのだから、少なくとも検討はしなくてはならない現象であるのに、一切触れていない。なぜだろう。不利なことは一切無視するというのが、相対性理論の大きな特徴の一つであるからだ))

 

問題1 慣性系の範囲

 アインシュタインによると、「光速度で飛ぶ自分」の傍を飛ぶ光は、光速度で「自分」を追い抜いて行く、ということだ。

 アインシュタインは「真空中における光速はすべての慣性系で一定」と考えた。

この慣性系のためだとすると、光はどの程度の距離で、「光速度で飛ぶ自分」の慣性系に入るのだろうという疑問がまずでる。

 これはどのような原理で起こっているのだろう。

 

考察

 最初に「自分」と光との間の距離で考えてみる。

「光速度で飛ぶ自分」の慣性系の範囲は、10m内だろうか、1km内だろうか。それとも1光年内だろうか。その範囲があいまいである。光は秒速約30万kmだから、0.01秒でも3000km飛ぶ。慣性系の範囲が1km内では、30万分の1秒で慣性系から飛び出してしまう。せめて、1秒の範囲、30万kmは欲しい。1光分、1800万kmあればいいのだろうが、それでは、「光速度で飛ぶ自分」が遠すぎて、ハッブル宇宙望遠鏡ででも見るしかないだろうから、その見えない「光速度で飛ぶ自分」に対して光が光速度になることは困難だと思える。

もし距離の範囲が決まっても、「光速度で飛ぶ自分」と光の間には数多くの星間物質が存在するはずだ。すると、光はその星間物質に対して光速度になることになる。「光速度で飛ぶ自分」に対して光速度になることはできないという現実的な問題も生じる。星間物質は小さすぎて関係ない、ということなら大きさの範囲も決めなければならない。

 このような問題が生じるのは、ガリレイの慣性系には本来光は入らないのに、光を入れたからだ。

 

 次に、これはどのような原理で起こっているのかを考えてみる。

 

 そこで、ガリレイの慣性系と光の関係について考えてみる。

ガリレイの慣性系に光が入らないのは、ガリレイの慣性系は、ニュートンの慣性の法則が根本原理だからだ。ガリレイの慣性系で慣性運動をするのは、慣性質量を持っているものにのみ当てはまる。ところが、光には慣性質量が無いので、慣性運動をすることができない。だから、慣性質量が無い光をガリレイの慣性系に入れることはできない。光を入れるとすると、ガリレイの慣性系の根本である慣性の法則以外の法則で慣性系をつくらなければならないはずだ。慣性系の仕組みを根本的なところから変えなければならない。ところがアインシュタインはその理論をつくっていない。彼につづく相対論者もそれをしていない。それどころか、アインシュタインの慣性系には必ずガリレイの慣性系を持ちだして説明している。原理がまるで異なるから、それでは説明できないはずなのにガリレイの慣性系を持ち出しているのはなぜだろう。光が慣性系と共に動いて行く原理が見つからないからではないだろうか。次にアインシュタインの慣性系について考えてみる。

 アインシュタインの慣性系

アインシュタインの相対性理論の慣性系の例に、よく、光時計というのが取りあげられている。上下に0,5光秒離れた天井から床の鏡に光を発射すると光は天井の鏡と床の鏡を往復する。光の往復の時間は1秒という時計だ。この光を時計の中の人が見ると、光はまっすぐ上下する。時計が動いていても光はまっすぐ上下するという。時計が時速100kmでも、3589kmでも、そのほかのどんな速度でもどんな方向でも慣性運動(等速直線運動)をしているなら、光は中の人から見て必ずまっすぐ上下する。そして、この動いている光時計を外で停止している人から見ると、光が上下している間に光時計が進んでいるので、光は斜めに動いているように見える。光の速度は一定なのに、斜めに進むから、進んでいる光時計の時間は遅くなるというのが特殊相対性理論だ。これが動いているものは時間の速度が遅くなるということの説明である。

問題はどこにあるかというと、光時計の中の人が見ると、光はまっすぐ上下するという考えだ。この光の現象を説明するときに、ガリレイの慣性系を持ちだしている。ガリレイの慣性系の、進んでいる船のマストから落とした鉄球が、落としたときの船の真下に落ちる現象と同じであるという説明だ。船がどんな速度でも、どんな向きでも、鉄球は船に乗っている人から見て真っすぐ落ちる。海の上の人から見ると斜め(放物線)に落ちるという現象だ。これと同じだというのだ。本当に同じ現象だろうか。光は鉄球と同じで慣性運動をするのだろうか。

 考察1 ガリレイの慣性系は、光時計を説明できるか

 ガリレイの慣性の法則は、走っている船のマストの上から鉄球を落とすと、落としたときの真下にあった甲板に落ちる、という現象だ。地球が動いているのに、リンゴが真下に落ちるのも同じ現象だ(この理由が分からない時代には、これが天動説を支持する理由の一つでもあった)。

 この現象の原理は以下のようになる。

マストのてっぺんに鉄球があった時、鉄球は船と同じ速度で動いている。船から運動エネルギーをもらったからだ。手から離れた鉄球は、慣性質量があるためこの運動エネルギーを保存している。エネルギー保存則と、慣性質量の原理だ。だから、鉄球は落下しながら船と同じ速度で前方へ進む。そのために、鉄球は離したときの真下にあった甲板に落ちる。船の甲板にいる人からこれを見ると鉄球は真っすぐ下に落ちているように見える。これを海にいる人から見ると、放物線を描いて落下(進む)しているように見える。そしてこれは見えるだけではなく、実際の現象でもある。

 これは書くほどのこともない、義務教育で習うガリレイの慣性系だ。ニュートンの慣性の法則だ。

これと同じこと(甲板にいる人からこれを見ると鉄球は真っすぐ下に落ちているように見える)が光にも当てはまるというのが光時計の仕組みだ。

 では、マストのてっぺんに取り付けた光源からレーザー光を真下の甲板に向けて発射してみる。すると、光はどこに当たるだろう。

 光時計の原理から推測すると、そのときの真下の甲板に当たる。甲板の人から見ると光は真下に落ちているように見えるということになる。上に書いた鉄球と同じ動きをするということだ。船の慣性系ということだ。そうだろうか。考えてみる。

 光は慣性質量をもたないから船の速度(運動エネルギー)を保存できない。したがって、慣性質量を持っている鉄球のようには船と共に前方へは進まないはずだ。ガリレイの慣性系の原理(ニュートンの慣性の法則)では光は船と共には進めないということだ。ところが、アインシュタインの光時計から考えると、光は船と共に進んで、発射の時に真下にあった甲板に当たることになる。問題は、このときの光が船と共に前方に進む原理がなにかである。ガリレイの慣性系の原理では光は船と共に進めないから、別の原理を示さなければならないはずだ。それなのに、アインシュタインはその原理を述べていない。その原理を述べずに、ガリレイの慣性系と同じで光は真下に落ちると説明しているのは間違いである。

これは「光は光源の速度に影響されない」、という、もうひとつの光速度不変の原理にも現れている。マストのてっぺんにある光源の速度(船の速度)に関係なく光は光独自の速度で進む、ということだ。この原理でも、光は船の速度に影響されないのだから船と同じ速度で前方へは進まないことが分かる。したがって光は船に取り残されて後方に当たるはずである。(実際は地球の動きの方がはるかに大きいので、どこに当たるかは、そのときの船の位置と向きによるが、また、マストのてっぺんと甲板では距離が近すぎて違いを計ることができないだろうが)

このことから、ガリレイの慣性系の原理では、動いている光時計の光が光時計の中をまっすぐ上下することはないといえる。あくまでまっすぐ上下すると主張するなら、アインシュタインは光時計の中を光が真っすぐ上下する原理を述べなければならない。

 光時計と共に光が進む理由を、アインシュタインは「真空中における光速はすべての慣性系で一定」という光速度不変を云っているが、それは結論だけである。なぜそうなるのかという根拠となる原理を述べていない。そうだからそうなのだというだけだ。そのくせ、本来まったく関係のないガリレイの慣性系を持ちだしているのはなぜなのだろう。相対論者も必ずガリレイの慣性系を持ちだすが、似て非なるものであるガリレイの慣性系をなぜ持ち出すのだろう。光が慣性系に入る理由を科学的に説明できないから似ているものでごまかそうとしているということだ。

ニュートンの考えでは、光は絶対空間に対して光速度である、ということだ。これだと、光は、やはり絶対速度で進む船と相対速度を持つ。船と共に進まない。もちろん光時計の中の人に光は真っ直ぐ上下しない。光時計の速度に応じた角度で斜めに進む。

(マイケルソン、モーリーの実験については後述)

 

例2 離れて飛ぶ場合(距離の問題)

 問題

「光速で飛ぶ自分」の横を飛ぶ光はどの慣性系に入るのか。

例1

 進んでいる船の上をカモメが飛ぶとする。このときカモメは船の慣性系に入るだろうか。入らない。なぜなら、カモメは船と接触していないので船の運動エネルギーをもらっていないからだ。そのため、カモメは船とは関係なく船の上を横切る。カモメが、船すれすれに飛んでも、100メートル上空を飛んでも同じである。ガリレイの慣性系は距離の問題ではない。ガリレイの慣性系では、基本の運動エネルギーは共通でなくてはならない。

このカモメが船のマストにとまると、カモメは船の慣性系に入る。船の運動エネルギーをもらって、船と共に進んでいるからである。この運動エネルギーはその後マストから飛び立っても保存されて残る。(実際は、空気抵抗で、船からもらった運動エネルギーは時間と共に減じていき、なくなる。船からもらった運動エネルギーは空気に受け渡される)

 では船の上を飛ぶ光はどうだろう。アインシュタインの光速度不変では、「光速で飛ぶ自分」に並んで飛ぶ光が自分に対して光速で飛び去るのだから、船に並んで飛ぶ光は船に対して光速で飛び去ることになる。

このとき、光は船の速度をどのように検知して船の速度を取り入れたのだろうか。慣性系だからということなのだろうか。上に書いたように、ガリレイの慣性系では、上を飛ぶだけのカモメは船の慣性系に入らない。船の上を飛ぶだけの光はどのようにして、船の慣性系に入ったのだろう。この現象もガリレイの慣性系では説明できない現象だ。光がすれすれに飛ぶときには慣性系に入るのだろうか。100メートル上空ではどうなのだろうか。船の上の成層圏(成層圏まで光は3万分の1秒で到達できる)ではどうなのだろうか。その範囲を相対性理論は示していない。原理も示していない。

また、「光は光源の速度に影響されない」という光速度不変の原理から、この光が船と接触しても船の速度の影響は受けない。マストにとまったカモメとは完全に異なる現象だ。アインシュタインは「光が並んで飛ぶなんてことはない。光速で飛び去る」としか言っていない。感覚だけで、科学的理由を述べていないのだ。

 問題は他にもある。

例3 複数のものと一緒に光が飛ぶとき

 では、このときの光は、海に対してはどのようになるのだろう。船のすぐ下は海であるから、その上を飛ぶ光は海の慣性系に入るはずだ。すると、船に対しても光速になるように海に対しても光は光速になっているはずだ。海の方がはるかに広いのだから、船の上にくる前には海の慣性系に入って海に対して光速度になり、船の上に来たら船の慣性系に入って船に対して光速度になり、通り過ぎたらまた海に対して光速度になるのだろうか。(100メートルの船でも、300万分の1秒で光は船を通り過ぎて行く。光は瞬時に船の速度を検知しなければならない)

 船の横を飛ぶ光はどうだろう。海に対して光速なのだろうか、船に対して光速なのだろうか。海に対して光速で、船に対しても光速ということはあり得るのだろうか。それとも、船に近い時は船に、海に近い時は海に対して光速度になるのだろうか。不明である。波に対してはどうなのだろう。波しぶきに対してはどうなのだろう。それぞれに光速になっているのだろうか。船にも、波にも、波しぶきにも、空の雲にも、風にも、光が光速で一定速度のとき、光がこれらに同時に光速であることはできるのだろうか。そのためには、他のものがすべて停止するしかない。船も波も波しぶきも雲も風も停止したとき初めてそれらすべてに同時に光は光速になる。空中で停止した波しぶきはどんなものなのだろう。相対論者も分からないだろう。だから相対論の光の相手は常にひとつしかない。宇宙には無数の物質が飛び交っているのに、アインシュタインは必ずたった1個の物体しか持ちださない。「光速で飛ぶ自分」だけだ。空気も星も地球も流れ星もない。ふたつ以上あったら説明ができなくなるからだ。一般相対性理論の落下するエレベーターも、外が見えないということが必須条件だ。外が見えたら説明ができなくなるからだ。中にはリンゴ1個と観察者一人きりだ。やはり1対1だ。ニュートンならいくら物があっても大丈夫だ。船も、海も、波も、波しぶきも、雲も、風もそれぞれ光に対して相対速度を持っている。これならいくら物質が増えても困らない。矛盾はない。地球も、太陽も、星も、銀河もそれぞれ光に対して相対速度を持っている。宇宙全体に無数の物質があって、それらが勝手に動き回っていても矛盾なく答えが出る。

例4 本体がなくなったとき

 小惑星探査衛星ハヤブサが地球に帰還したとき、切り離された帰還カプセルが光の尾を引いて飛んでいる映像があった。カプセルはハヤブサから切り離されても母船と同じ速度で飛んでいた。その後、母船がバラバラになって燃え尽きても飛び続けていた。これは、カプセルが、ハヤブサから運動エネルギーをもらってそれをカプセルが保存していたからだ。本体が燃え尽きても、カプセルはハヤブサの慣性系であったということだ。ガリレイの慣性系は、離れる離れないとは関係が無い。同じ運動エネルギーを共有しているか否かである。慣性質量を持たない光の動きとは完全に原理が異なるということだ。

 光ではこうはいかない。光は慣性質量をもたないから、本体の速度を保存できないから、光独自の速度で飛ぶしかない。

 

問題2

光は真空中を光速度である、について。

考察

 これには二つの考え方ができる。

@ アインシュタインでは、

「真空中における光速はすべての慣性系で一定」だから、光が慣性系で一定ということは真空も慣性系に属する。

A ニュートンでは、

絶対空間の真空中を光速である。真空は慣性系とは関係が無い。

 という二つの考え方だ。これについて考えてみる。

1 アインシュタインの真空について

 アインシュタインの慣性系の真空とはどのようなものなのだろうか。

「光速で飛ぶ自分」の横を光が飛ぶと、自分に対して光速度で飛び去るというのだから、「光速で飛ぶ自分」の速度が、光の速度に全面的に影響したということになる。原因は、ガリレイの慣性系のように、運動エネルギーを直接渡したのではないから、他の原因で、「自分」の光速度を光に伝えたのだということになる。もちろん慣性質量が無いから、慣性の法則でもない。原因は「真空中における光速はすべての慣性系で一定」ということのようだ。「光速で飛ぶ自分」の周りの真空が「光速で飛ぶ自分」の慣性系だから、その影響を受けたということになる。その慣性系の真空に対して光速だから、光は「光速で飛ぶ自分」に対して光速度になったということだ。このときの「光速で飛ぶ自分」の周りの真空が「光速で飛ぶ自分」の慣性系とは無関係だったら(ニュートンの絶対空間の真空)、その真空中を光速度で光が飛んでも、光は「光速で飛ぶ自分」とは無関係ということになる。「光速で飛ぶ自分」に光速であるためには、真空も「光速で飛ぶ自分」の慣性系と共に動いていなければならなくなる。

では、「光速で飛ぶ自分」の慣性系と共に動く真空とはどんなものなのだろう。

真空は何もない。なにもないものが動くということはあり得ることなのだろうか。

何もない真空が慣性系と共に動くとすると、その仕組みはどのようになっているのだろう。不明である。

ガリレイの慣性系では真空は慣性系には入らない。もちろん慣性質量のない真空は動かない。光は何もない真空の中を一定速度である。真空中を動く物質の動きには影響されない。真空中を一定速度の光が慣性系に対しても一定速度になるというのはアインシュタインの慣性系だけの現象である。

2 ニュートンの真空について

ニュートンの考えでは、この世界は絶対空間である。絶対空間の中で、何もないところが真空である。その中を光が飛ぶ。この場合は、光は絶対空間の中を光速で一定である。したがって、すべてのものに相対速度を持つ。

 

3 一般相対性理論の相対空間は慣性系と共に動くか、それとも、絶対空間で動かないか。

 アインシュタインは、一般相対性理論で、空間は物質によって曲がると述べている。たとえば、太陽は空間を曲げている。その曲がりに地球が落ちることで太陽を公転している。これが重力である、という。

相対論者は、これをトランポリンと鉄球とビー玉で説明している。トランポリンの上に鉄球を置くとトランポリンの膜がへこむ。膜の端にビー玉を置くと、ビー玉はそのへこみに落ちていく。空間の曲がりもこれと同じだという。太陽の作った空間のへこみに地球が落ちていくという説明だ。水爆が爆発しても、巨大な火山が爆発しても地球の進路はほとんど変わらない。空間はその巨大な地球の進路を曲げるのだから、トランポリンの膜どころではない非常に強い何かでできていると考えられる。(空間が強い何かでなければ、地球の進路を曲げることはできないはずだ。地球は、慣性の法則で等速直線運動をして、真っすぐ宇宙の彼方に飛び去っていく)

 考えたいのはこのことではない。空間は移動するのか否かということだ。

トランポリンに話を戻すと、このとき鉄球を移動させてもトランポリンの膜は移動しない。へこむ場所が変わるだけだ。ビー玉がへこみに落ちて行っても膜は固定されていて移動しない。ビー玉が作る小さなへこみの場所が変わるだけだ。

では、太陽が移動すると、空間はどうなるのだろうか。空間も太陽と共に移動するのだろうか。それとも、トランポリンの膜のように空間はそのままで、曲がる場所が変わるだけなのだろうか。

これについて、地球の動きと共に空間が動くかどうかを考える。

 相対性理論では、地球も空間を曲げている。地球が太陽を公転するとき、地球が作った曲がった空間の部分がそのまま地球と共に動くとすると、曲がった空間の部分は、地球と共に太陽を公転することになる。空間が地球と共に太陽を公転すると、空間は1年に1周太陽を回る。10年で10周だ。太陽系ができてから46億年ということだから、空間が地球に引きずられて、太陽を46億回も巻いていることになる。太陽が作るという空間の曲がりよりはるかに大きな空間の歪みが生じていることになる。

 また、地球の公転に引きずられて行く空間は、地球に近いところと、遠いところで速度が変わるはずだ。そうでなくては宇宙全体の空間が1年で1回太陽を公転することになる。そんなことはあり得ない。地球に近いところでは地球と共に公転し、遠いところでは影響が少ないから、ほんの少ししか動かないとすると、空間に大きなひずみができる。1年で1回転分、46億年で46億回転分のひずみが溜まっていることになる。これは太陽が作る空間の曲がりより大きくなる。

また、空間が動くなら、地球が進む方向では空間が圧縮され、後方では引き伸ばされることになる。空間は地球の進路を曲げるほどの強靭な何かである。すると前方の圧力と、後方の減圧は地球の公転を妨げるように働くはずだ。46億回転分の圧力と減圧が生じていることになる。地球はケプラーの法則のようには公転できなくなるはずだ。

 もちろんこのようなことは起こっていない。なぜだろう。

 空間は、転がるビー玉に引きずられないトランポリンの膜と同じで、地球には引きずられないということだ。

ということは、空間は、鉄球やビー玉の動きについて行かないトランポリンの膜のように、固定されているということになる。

 このことから、空間は地球や、太陽や、銀河系や銀河の回転にはついて行かない固定されたものということが分かる。空間は宇宙全体で固定されていることになる。

これが示すのは、アインシュタインの云う相対空間、すなわち慣性系と共に動く空間ではなく、ニュートンの云う、宇宙の空間全体が固定されている絶対空間が正しいということになる。

すべての星や銀河は、固定されたトランポリンの膜の上を動く鉄球やビー玉のように、全宇宙に固定されて動かない空間の中を動いているということだ。

(これは、アインシュタインの云うように、空間が曲がって重力を造るという考えが正しいとしたらの話。ニュートンの引力は空間の曲がりではない。物質が持っている引き合う力が引力だ。空間はただの入れものだ)

このことから、アンシュタインは、特殊相対論では相対空間を云い、一般相対論では、固定された空間(絶対空間)を暗黙のうちに想定しているということが分かる。相対性理論の原理は都合次第ということだ。

では空間が動かないとして、真空はどうだろう。真空は慣性系と共に動いているのだろうか。真空は何もないものである。なにもないものが動くということはあるのだろうか。なにもないものを慣性系はどのようにして動かすのだろうか。列車が走ると、中の空気も共に動いて行く。空気は物質だからだ。しかし、中の真空はどうなのだろう。もし動くなら、その仕組みを述べなくてはならない。アインシュタインはその仕組みを述べていない。また、真空が動く時は、なにもない真空の何がどのように光の速度に影響をするかも述べなくてはならない。しかし、それも述べていない。

 したがって、「光は真空中を光速度である」の真空を、慣性系と共にある真空ととらえて、慣性系の真空に対して光速度なのだから、慣性系に対しても光速度であるというのは、科学的な根拠はないといえる。

4 「光は真空中を光速度である」の真の意味

 「光は真空中を光速度である」ときの真空は、真空は何もないから光の速度に影響しないから光は本来の速度、光速度になるというだけの意味である。

光は物質の中を通ると速度を落とす。空気を通りぬけるだけで速度を落とす。だから、何もない真空の中をという条件を付けただけだ。根本は真空は光になにも影響しないということだ。すなわち、真空によって、光が慣性系に一定になるということもないということだ。真空中を光速度なのだから慣性系に光速度である、というのは根拠のない手前味噌な解釈だ。

真空は慣性系と共にあるのではない、何にもない空間ということだから、宇宙にある物質も光も、何もない空間の中を飛んでいるだけである。なにもないものが光に影響を与えることはないはずだ。影響を与えないから光は真空の中を光速で飛ぶことができるのだから。

 

5 この問題を身近なことから考えてみる。

 そんなことはあり得ないのだが、慣性系ごとに真空が動くとして新幹線で考える。すると、アインシュタインの考えでは、光は新幹線と共に動く真空の中をその真空の影響を受けて光速度であるから光は新幹線に対して光速度で飛ぶということになる。では真空はどのような影響を光に与えて光を新幹線に対して光速度にしているのだろう。その原理はどのようなものなのだろう。その説明はない。

真空が光に何らかの影響を与えることのできる何かであるとする。その真空が新幹線と共に動くとすると、すれちがう新幹線の真空は、それぞれ反対方向に時速200キロメートルで動いていることになる。すれちがう新幹線の慣性系の真空は、その接点でどのようになっているのだろうか。新幹線の下の軌道と共にある真空との関係はどのようになるのだろうか。東京駅から新幹線と共に真空が出発したら、東京駅のその分の真空は無くなるのだろうか。答えられるだろうか。アインシュタインにはその答えはない。

真空は何もないから、新幹線に一緒について行くとかついて行かないとかではないということなのかもしれない。そのときは真空中を光速度で飛ぶという光は新幹線とは無関係になる。アインシュタインの云う、光は真空中を光速度だから、慣性系に光速度になるということの理由がなくなる。

 

結論

 このことから、何ものにも光速度である、というアインシュタインの考えの原理から、真空は外されるということになる。「光は真空中を光速度である」というマクスエルの考えは、光がなにものにも光速度であるということとは無関係であるといえる。では、アインシュタインの光速度不変の原理の原理は何なのだろう、ということが残る。

 

問題

「光速度で飛ぶ自分」と反対方向に「光速で飛ぶA」がすれ違うとする。この間を飛ぶ光はどちらに対して光速で遠ざかるだろう。

考察

 「光速度で飛ぶ自分」に対して光が光速で遠ざかるとすると、その光は「反対方向に飛ぶA」に対して、光速の3倍の相対速度で遠ざかることになる。このときの光は、「自分」に対して光速度であるが、Aにたいしては光速度ではない。光は何ものに対しても光速度であるというアインシュタインの理論に反する。

 これは新幹線においても生じる問題だ。すれちがう新幹線の間の光はどちらに対して光速度になるのだろう。

 登りの新幹線に対して光速なら、下りの新幹線に対して、「光速プラス2倍の新幹線の速度」になる。なにものに対しても光速度であるという相対論に反する。もちろん新幹線の軌道に対しては、「光速プラス新幹線の速度」になる。

なぜこのような問題が生じるかというと、先に書いたように相対論は1対1の対応しか取り入れていないからだ。たった一つの慣性系と光、という対応だ。世界は広い、東海道だって、新幹線が何本も同時に走っている。その速度は様々だ。新幹線内の慣性系はそれに対応して様々な速度になる。ひとつの新幹線(慣性系)に光速になると他の新幹線(他の慣性系)に対しては光速になれない。慣性系同士の速度は異なるのだからそうなる。光が、日本にあるすべての新幹線に同時に光速度になることはできるのだろうか。日本中に走っているすべての自動車に同時に光速になることはできるのだろうか。

登りの新幹線に光速度の光と下りの新幹線に光速度の光は速度が違うはずだ。同方向に進む光の速度は登りの新幹線に光速度の光は、「光速+新幹線の速度」となり、下りの新幹線に光速度の光は「光速−新幹線の速度」になるはずだ。すると光の速度が変わる。光速度は一定という原理に反する。

すれちがう新幹線の中を通り抜ける光はどうなるだろう。

光速度不変なら、アインシュタインの光時計の考えから、新幹線の一方の窓から光が入ると、入ったとたんにその新幹線の慣性系になり、その新幹線と共に横滑りしていく。その光が窓から出てすれちがう新幹線の窓から入ると、その新幹線の慣性系に入って、その新幹線と共に反対方向に横滑りしていくことになる。(光時計の中の光は光時計と共に横滑りしている)

新幹線に飛びこんだ光の速度と方向を変えているのはどのようなエネルギーと仕組みなのだろう。光速度不変が理由であっても、その原理は明確に示す必要があるはずだ。実際の仕組みはどのようになっているのだろうか。

ガリレイの慣性系なら、ことは簡単だ。登りの新幹線の中のボールは登りの新幹線と共に進んでいる。すれちがう下りの新幹線にそのボールが飛び込んだら、登りの新幹線の速度200kmで飛びこみ、相対速度400kmで下りの新幹線の座席と衝突する。座席は破壊されるだろう。人に当たったら悲惨なことになる。その後、ボールは下りの新幹線の運動エネルギーをもらって、下りの新幹線と共に進んでいく。下りの新幹線の慣性系に入る。これがガリレイの慣性系だ。

では、慣性質量のない光も慣性系に含めたアインシュタインの慣性系ではどうなるのだろう。

光時計の光と同じなら、登りの新幹線の中の光は登りの新幹線と共に進んでいる。その光がすれちがう下りの新幹線に飛びこんだらどうなるだろう。今度は下りの新幹線と共に進むのだろうか。光時計と同じならそうなる。ボールなら運動エネルギーの受け渡しでそれがおこなわれる。光はどのような原理でそれが起こるのだろう。不明である。

また、登りの新幹線と共に進む光は、すれちがう下りの新幹線に対しての相対速度が「光速+登りの新幹線の速度+下りの新幹線の速度」になっているはずだ。その光が下りの新幹線に飛びこみ、下りの新幹線と共に進むと、今度は反対に、登りの新幹線に対して「光速度+登りの新幹線の速度+下りの新幹線の速度」になるはずだ。

反対方向に時速200kmで走る新幹線に同時に相対速度が同じ光速度であることは可能なのだろうか。速度によって時間が遅くなるという特殊相対論から考えるということもある。しかし、新幹線が反対方向に走っているという事実は変えることはできない。反対方向に走る新幹線に、同時に光速度になることはできない。

 もちろんこのとき、この光は新幹線の軌道に対してはどちらも光速度ではない。

 なにものにも光速度であるというアインシュタインの光速度不変は、一つのものにしか当てはまらない。複数のものがあると、出会う物質ごとに速度を変えるしかない。

 「光速度で飛ぶ自分」に光速度である光は、そばを飛ぶ、時速500kmのA君や、時速1398kmで飛ぶB君や、時速396kmで直行するC君や、時速79kmで反対方向に飛ぶD君に対しては、光速度ではない。特殊相対性理論は、「何ものにも」ではなく、「たった一つのものに」と言い替えなくてはならない。光は恋する若者のように他の人は目に入らないようだ。他に70億人もいるというのにである。これは特殊相対性理論だけではなく一般相対性理論でも引き継がれている。エレベーターが落下したら、窓を無くして、エレベーターの壁と床以外は何も見えなくする。エレベーターに外があったら成り立たない理論だからだ。だが世界は広い。「光速で飛ぶ自分」のほかにも、宇宙には無数の星があるのだ。それらをすべて消し去ったときに「光速で飛ぶ自分」を光は光速で追い越して行くことができるのかもしれない。だが現実は、宇宙は物質に満ちあふれている。「光速で飛ぶ自分」を光速で追い越して行く光はアインシュタインの頭の中だけの幻想にしかすぎないといえる。

 

問題はそのほかにもある。相対性原理だ。

 

問題4 相対性原理

(1)相対空間における「光速で飛ぶ自分」の速度

アインシュタインは、この世界は絶対的な静止は存在しないから、絶対速度や絶対時間は存在しないと述べている。ニュートンの絶対空間、絶対時間を真っ向から否定しているから相対性理論は素晴らしいということになっている。この相対性原理を抜きにしては相対性理論は始まらないということだ。

アインシュタインの相対性原理から考えると、物質には絶対速度はないのだから、「光速で飛ぶ自分」という速度も絶対速度ではないことになる。基準に対しての相対速度が光速であるということだ。では、「光速で飛ぶ自分」は何を基準にした光速度なのだろう。慣性系で言えばどの慣性系に所属しているのかということだ。アインシュタインは示さなくてはならないはずのこの基準を示していない。基準がない場合、「自分」が光速度だというのなら、それは絶対速度の光速になり、相対空間ではなくニュートンの絶対空間になってしまう。

なぜ基準を示さなかったのか、というのは上に書いたように、相対性理論は対象がひとつでなくては成り立たない理屈だからだ。「光速で飛ぶ自分」と「基準」の二つがある場合は、「光速で飛ぶ自分」に対して光が光速で飛び去ると、基準に対しては光速の2倍の速度になってしまう。何ものに対しても光速度というアインシュタインの光速度不変が崩れてしまう。また基準の慣性系に対して光が光速である場合は、「光速で飛ぶ自分」と光は基準の慣性系の中を、同じ光速で並んで飛ぶことになる。これでは光は「光速で飛ぶ自分」に対して光速で飛び去るという考えが否定されてしまうことになる。これも困るのだ。

では、アインシュタインに代わって考えてみよう。

絶対静止は存在しないから、絶対基準は存在しない。したがって、基準は自由に決められるというアインシュタインの相対性原理から考えてみる。たとえば基準を地球にして、「光速で飛ぶ自分」の速度が地球に対しての光速度としてみよう。しかし、問題が起こる。地球は自転のために、極点と赤道では音速ほどの速度の違いがある。また、赤道の東西では速度が逆になる。これらのそれぞれを基準にしたときの「自分」の光速度はおのずから異なるはずである。極点を基準にした光速度のA氏と、赤道の西の端を基準にした光速度のB氏が宇宙で競争をすると、B氏の方が音速分速いので先に進んでいく。赤道の東の端を基準にしたC氏が一番遅くなる。これを地球の反対側に飛ぶとすると、C氏が一番速くなりA氏が一番遅くなる。光速度といっても基準次第で速度が違ってしまう。

また、緯度によって自転速度が違うので、東京を基準にする「光速で飛ぶ人」と、ニューヨークを基準にする「光速で飛ぶ人」では当然速度が違ってくる。基準によって物質の速度はどのようにでも変化するのがアインシュタインの相対性原理だから、「自分」の速度も基準次第でどのようにでも変化する。「光速で飛ぶ人」の光速度が、基準次第で速度が違うというおかしなことが起きるのが、相対性原理である。

 

相対性原理はもうひとつの現象も述べている。「自分」から見ると、基準が動いているという考えだ。アインシュタインは、軌道から見ると列車が動き、列車から見ると軌道が動くと述べている。列車に乗っている人から見ると軌道が動いていると見えるのはニュートンの考えでは錯視で、実際の運動ではない。しかし、アインシュタインは見た目ではなく実際に動いているという主張だ。

したがって、アインシュタインの相対性原理で考えると、「光速で飛ぶ自分」から基準の地球を見ると、「光速で飛ぶ自分」は停止し、地球が光速で反対方向に飛んでいることになる。「光速で飛ぶ自分」が基準になり停止することができるのである。これがアインシュタインの相対性原理の根幹である。問題は、このときは、「光速で飛ぶ自分」は停止しているので、「自分」が光速で飛んでいるという設定ができなくなることだ。

このとき「自分」を追い越す光はどうなるのだろう。「自分」は停止しているのだから、普通に光は光速で「自分」を追い越して行く(普通という速度が存在するなら)。このとき、この光は、反対方向に光速度で飛ぶ地球に対しての相対速度が光速の2倍になる。マイケルソン、モーリーの実験には現れない現象だ。

そもそも、マイケルソン、モーリーの実験はアインシュタインの相対性理論ができる前だから、地球の速度は絶対速度の考えで行われている。地球は一日に1回転し、1年で太陽を1周し、2億年で銀河系を太陽と共に1周するのが決まっているという考えだ。しかし、アインシュタインの考えが正しいとしたら、発表される以前であっても、相対性原理が事実なら現象には必ず現れるはずだ。列車を基準にすると、軌道が動くとする現象だ。

観察機器(アインシュタインのいう列車)を基準にすれば観測機器は停止していることになる。停止している機器に光は光速度であるということになる。実験は成功である。しかし、これでは困ったことが起きる。観測機器が停止しているということは、それを固定している地球も停止していることになる。自転も公転もしていないことになる。地球は太陽に落下してしまう。いや、停止しているのだから落下もしないことになる。しかし、地球が動かないなら、太陽が地球を回転することになる。1日に1回転だ。天動説の復活だ。

空を飛ぶ雲を基準にすれば、地球はそれと反対方向に飛ぶ。月を基準にすれば地球は月を公転する。いかようにでも地球の速度を変えることができるのがアインシュタインの相対性原理だ。

「列車を基準にすれば軌道が動く」というアインシュタインの相対性原理は、自由自在に地球の速度を変えることができる考えだ。素晴らしい理屈である。しかし、これは現実には起こっていない現象であるから、明らかに間違いである。

 

またこんな不可思議なことも起こる。「光速度で飛ぶ自分」を基準にすると、反対に地球が光速になる。特殊相対性理論では光速になると時間が止まる。光速になった地球の時間は止まる。時間が止まると1ミリも動けないから速度も0になる。光速になったはずの地球が止まってしまう。光速であり、停止であるという不可思議な現象が起こる。このとき、光は、基準になったために停止している「光速で飛ぶ自分」に対しても光速で、光速で飛んでいるので時間が止まっているために停止している地球に対しても光速になれる。めでたしめでたしである。しかし、「光速で飛ぶ自分」も止まり、地球も止まっては、どこからも「光速で飛ぶ自分」、という前提が出てこなくなってしまう。

もともと、アインシュタインの相対性原理では絶対速度が存在しないのだから「自分」が「光速で飛ぶ」という設定自体ができないことになる。

 なぜこのように矛盾が生じるのかというと、アインシュタインは、「光速で飛ぶ自分」から光を見たら、という設定をしたとき、すべてを絶対速度で考えているからである。相対性原理ではなく、否定したニュートンの絶対空間で考えているのである。大きな矛盾である。

ようするに、軌道を基準にすると列車が動き、列車を基準にすると軌道が動くというアインシュタインの考えが間違っているのである。現実に、列車のモーターが回転すると軌道が動くという現象は起こっていない。軌道が動くということは、それを固定している地球が動くということになる。列車が時速100キロで走ると、列車を基準にすると、地球が時速100キロで反対方向に走り出すということだ。そんな現象は観測されていない。列車のエンジンで地球を時速100キロで動かすことはできない。運動エネルギーの法則に反する。L=mv÷2である。このmが地球の質量になるのである。Lは巨大なエネルギーになる。とても列車のモーターでは出せないエネルギーだ。

また、地球が動くと、月も動かなくてはならなくなる。太陽も動かなくてはならなくなる。太陽系が動かなくてはならなくなる。列車が時速100キロで走ると、太陽系が時速100キロで動くというのだ。ということは銀河系が時速100キロで、列車と反対方向に動くということになる。

これがアインシュタインの相対性原理で起こる現象である。列車のモーターにそんな力はない。

 これを解消するには、空間は絶対空間であると考えると簡単である。「自分」は絶対空間の中を絶対速度の光速で飛んでいる、光も絶対空間の中を光速で飛んでいる、勿論地球も絶対空間の中を絶対速度で飛んでいる、とすれば矛盾はなくなる。

 この絶対空間の場合「光速で飛ぶ自分」から見た光はどうなるかというと、光は絶対空間の中を光速で飛んでいる。絶対空間の中を「光速で飛ぶ自分」と同速度で並んで飛んでいる、ということになる。並んで飛んだってなんの問題も生じない。音速のジェット機は、音と並んで飛んでいる。衝撃波が生じることくらいだ。光が並んで飛んだって問題が起こるのは衝撃波くらいだ。そう、自分から出た光が光の衝撃波となるだろう。

 では、マイケルソン、モーリーの実験はどうなるのかという問題が生じる。彼らの実験は、光は実験装置に光速度であるという結果が示されたということだから、アインシュタインの云う、光は慣性系に光速度であるということの実証になる。次にそれを考えてみる。

 

問題5 マイケルソン、モーリーの実験に反する例

光が光速で飛ぶ物質とほぼ同速で並んで飛んでいる例

@ チェレンコフ光

光と物質が並んで飛ぶ現象はチェレンコフ光で見られる。光速で飛ぶ粒子が出す光が粒子と並んで飛ぶことで生じる衝撃波がチェレンコフ光である。音速で飛ぶジェット機が音と並んで飛んだときに出す音の衝撃波と同じ原理である。これは、宇宙線が上空の大気に衝突して出すミュー粒子で毎日観測されている。

また、小柴氏の観測したニュートリノが水と衝突して電子を光速ではじきとばしたとき、この電子と電子から出た光が並んで飛び、光の衝撃波、チェレンコフ光を出している。

これらは、物質と光が並んで飛んだということの実証になる。

A ニュートリノ

上に書いたように、小柴氏の観測した超新星からのニュートリノと光は、ほぼ同速度で縦に並んで地球までやってきていた。

超新星の爆発のとき、ニュートリノが光より先に飛びだす。これは、ニュートリノは、物質を通り抜けるが、光は通り抜けられないことから起こる現象である。爆発の初期は、物質が密にあるから、光は通り抜けられない。しかし、ニュートリノは通り抜けて、先に飛びだす。その後、爆発で星がバラバラになると、光も通り抜けられるようになって、飛びだす。この数時間の違いが、地球に到達したニュートリノと光にも時間差として現れていたという。ニュートリノが先に地球に到達していたのだ。ニュートリノも光も、16万光年の距離を16万年かけて地球に到達している。ニュートリノと光は16万年間前後に並んで同速度で地球まで飛んできたということになる。ニュートリノに対して、光は光速度で追い抜いていないといえる。「光速で飛ぶ自分」の後ろを飛ぶ光は自分を追い抜いてはいかないということだ。

これはアメリカでも観測されているので、観測された事実であると云える。

 前後だから追い越さないということなのだろうか。では、横に並んでいたら光速度で通り過ぎるのだろうか。前後では光はニュートリノを認識できないけれど、横なら認識できるという原理は存在するのだろうか。アインシュタインはその原理を述べていない。相対論者もそれを述べていない。原理もなく光は「光速で飛ぶ自分」を光速で追い抜いて行くのである。上に書いた慣性系のところで書いたように、光と「光速で飛ぶ自分」の間には物理的関係は存在しない。光が自分に対して光速度になる原因は存在しない。もちろん、このように実際の現象もアインシュタインの考えを否定している。

 しかし、マイケルソンとモーリーの実験はアインシュタインの光速度不変を示している。これについて考えてみる。

 マイケルソン、モーリーの実験は非常に難しい実験だということだ。普通では計れないから、光の波の重なりを見るという方法だ。これは、近年の重力波検出装置と同じ原理だ。重力波検出装置は、調整が難しく、調整だけで半年以上かかったということだ。現在の技術を持ってしても、かなり困難な実験だということが分かる。

 また、この実験について、24時間周期があったという解析をしている人もいる。

 また、はっきりした検証実験を誰がしたかの報告もない。

それに比べて、チェレンコフ光は毎日観測されている。また、光と、ニュートリノが縦に並んで、飛んできたということも、日本とアメリカで観測されている。どちらも検証観察ができているということだ。どちらが精度が高いかは自明である。

そのほかに、光と地球の相対速度が測られている観測もある。

 これは宇宙背景放射(マイクロ波という光の一種)を調べる人工衛星によって計られた。宇宙背景放射観測衛星は背景放射と相対速度を持っているという観測だ。これは光のドプラー効果によって観測された。衛星の進行方向からの光は青方偏移し、後方からの光は赤方偏移して写ったということだ。光の波が速度によって変化したということだ。マイケルソンとモーリーの実験では光の波は地球が動いているにもかかわらず変化しなかったということだから、結果が相反しているということだ。この人工衛星の観測は光に対して人工衛星が相対速度を持っているということだ。宇宙背景放射観測衛星に対して宇宙背景放射は光速ではないということになる。これもマイケルソン、モーリーの実験を否定する観測になる。これは時期が異なる2機の人工衛星で観測されている。2機目の人工衛星の観測は検証観測といえるから正しい観測だったといえる。

 この他にも、星や銀河の動きをみるために、光のドプラー効果を観測している。光と動いている星や銀河が、相対速度を持っているということだ。

 

結論

「光速で飛ぶ自分」を光は光速で追い抜いて行かない。並んで飛ぶというのが、実際の現象であるといえる。アインシュタインの考えは間違っているということである。

 

2021年12月14日完 同16日改定 同17日改定 同18日改定 19日改定21日改定 22日改定 24日改定、完