古陶好きなら誰でも人より珍しいものを手にしたいと思うだろう。
しかし、本当にそれで良いのか?と思う時がある。
例えば大井戸茶碗が伊万里のようにたくさんあって、誰にでも手に入るもので
あれば、きっと皆は「あーまた大井戸か」と顔をしかめるのかもしれない。
それだけ美意識と言われているものはブランドや歴史など他人の価値観に
左右されるのだ
。
大井戸を茶に取り立てた人の影響力は現在までも続いている。
確かに井戸は吸引力があるが、それは他人の価値観。
記念すべき日に手に入れたり、大切な人からいただいたり、どこか抜けて
いても、丈夫で毎日使っているものなど、たとえ趣味の悪いものでも自分にとって
かけがえのない一碗で一服することこそ、信(シン・心・真)の茶ではないのか。
本場韓国の広州陶磁博物館では日本の国宝である喜左衛門井戸を
「粗質白磁」として紹介していた。
韓国は茶の文化がない分、冷静に物の
本質を見ているといえるのかもしれない。
大井戸と青井戸は祭器だったという説もあるが、同時代の刷毛目や粉引、
大量にある堅手にも祭器として作られた碗はいくらでもある。吸水性があり、
脆く、粗製な器は民衆の為の器という事に変わりはない。生まれはどうでも
いいのだ。ボロ茶碗を選んで「これがオレのひと碗や!!」と宣言したことが
格好いいのだから・・・。
大井戸が確実に焼かれたと立証できる窯はまだ発見されていないという。
かつて珍品とされ、家が建つほどの値段だった漢の緑釉陶が大量に発掘され
市場が暴落したように、そのうち北朝鮮あたりから井戸茶碗がジャンジャン
発見されて誰でも買えるようになるかもしれない。舶来物であった寸胡禄、
珠光青磁など、そうした例はいくらでもある。
モノは変わらない。人の見る眼が変わってしまうのだ。
漢の緑釉陶もあれだけ大量に焼かれていたにもかかわらず
制作地が良くわかっていないそうだ。
生まれ育った近所に「七曲がりの井戸」という奈良・平安時代の史跡があった。
別名マイマイ井戸というもので、ろくろ目のように螺旋のすりばち状に掘られた
穴があり、底は竪穴になっている。
遺跡発掘をしている時、当時の集落跡でも同様のマイマイ井戸を発掘した
ことがある。
井戸という名のルーツといわれているのもうなずけるような気がする。