ジーエックスのこと

30年も昔に、時代を先取りをした会社があった。これからは、こういう会社が増えていくんだろうと思ったけれど、
今になってもそんな会社はどこにもない。
ソガさんと、フルタンと、I さん達が「なぜ、会社ではこういうことができないんだろう?それならば、やれる会社を
作ろう」と始めたのが、ジーエックスだった。



場所  仕事    遊び  旅の前    旅の後  英会話  UFO  お昼時のお遊び 


場所 原宿駅のすぐそばにジーエックスはあった。気取った名前のマンションの3階。大家のおばさんも気取った人だった。隣は何度も会社が変っていた。同じフロアに小さい子供のいる家族が一組住んでいて、他はみんな会社なので夜は恐くないかなと、思ったことがある。私の記憶にある入居者はたったこれだけ。後はまったく覚えていない。ひとり暮らしを始めて1年以上たった頃、職住接近を目指して私は原宿に引っ越した。6畳と4畳半くらいの台所。トイレは共同、風呂なし、3つ部屋があった。下は小さいブティックの、しもた家。風呂はジーエックスで入って帰れたので助かった。表参道や、明治通りからも近くて、遊んだ後タクシーに乗っても夜中でも恐くなかったし、何より仕事に行くのに 歩いて行けたのが嬉しかった。
ジーエックスの上の階にも一部屋借りて、リバティと名づけて改装して、呑んだり食べたりみんなの集まる場所に使った。ベランダもつぶしてガラス張りの温室のようにした。星のきれいな夜はここで寝転がって皆で星を見よう!と・・・・・・・・事実、皆で寝転んで星を見ていたこともあった。少し前にしし座流星群の話題があったが、この時あったら最高だったろう、と思う。●ページの先頭に戻る
仕事 にテキスタイルの仕事。他に、グラフィックやイラスト、ファッションショーの企画運営も手掛けた。テキスタイルはペーパーデザインで、生地問屋に図案を売っていた。問屋は、生地売りの問屋と、製品にすることが初めから決まっている問屋とはっきり分かれていて、ジーエックスは製品になるものの図案を描いていた。これはブラウス用(うわモノ)、これはスカートやパンツ(したモノ)、これはワンピースになるもの、などと指定されての図案だった。その頃、図案と言えば徒弟制度がまだしっかりあって、日本画を描く先生が弟子を何人も雇って描かせるモノだったので、いわゆる「絵」は上手だが、時代とともにポップな物が図案の世界にも出始めると、どうも殻が破れない。
そんなところに、グラフィックや、イラストをやっていた人間が集まってできたジーエックスが、楔を打ち込むように図案を持ち込んだのだ。しかも、これまでの会社は、営業の人間が持ち込む。描く人は、描くだけ。図案業界がめまぐるしく発展しようとしていた時、間に人が入ったために、仕事を出す人と、描く人とのコミュニケーションがうまく取れずに、時間ばかりかかっているのが見えて、私はジーエックスのやり方が正しいと思った。私たちは自分の描いたものを、自分で持ち込んだし、仕事を出す人の声を自分で聞いた。例えば「可愛い花」と、相手が言った時、どういう種類の「可愛い花」なのかを感じ取れるくらいに、相手のことを知ろうとした。「あの映画の、あのシーンにでてきた服の柄みたいな・・・・」と言われても「あ!」と察する事ができるように、映画も良く見たしいろんな場所にも行った。                                     ●ページの先頭に戻る
ジーエックスには、いろんな人がでたり入ったりしていた。服飾関係の人、大阪のデパートの人たち、あの頃JUNやROPE、というメーカーの服のカッティングをしてた人、ニューヨークからちょっとした手違いで強制送還されてきた人、出版関係の人、信楽焼きのまだ若かった作家、その周りにいた信楽の若い人たち、新宿3丁目にあったBARのマスターやそこで出会った人達。詩人、作家、調律師、画家。パントマイムで売り出し始めた人とは、ファッションショーの企画の時に知り合って、なんとその人が、画家の妹さんと昔一緒に暮らしていた、なんていう偶然があったり、画家は、信楽焼きの作家が紹介してくれた人だったし信楽焼の作家は、私と友人が出張で京都に行ったときに、信楽に立ち寄ってたまたま知り合ったことでお付き合いが始まったものだった。洋服のカッティングをしていた、ダンちゃんはある夜、タクシーでジーエックスに遊びに来て、黒い長いスプリングコートのポケットから、白い文鳥を出して見せた。私もフルタンも「かっこいいー!」とばかりに、すぐに同じように文鳥を飼い始めたこともあった。      ●ページの先頭に戻る
遊び あるクリスマスの夜、仮装パーティーをしたことがあった。私はロビンフッド。緑色のタイツが欲しくて探し回ったけれど、当時はそんなのは見つからず、仕方なしに紺色にした。アラブの商人、宝塚のような扮装をしたM、死神の扮装は電通のN氏。泉鏡花賞を後にとった作家は「のんきな父さん」、信楽焼きの作家はミイラになりきろうと、六本木に事務所のあった、元軍医のX氏に全身包帯をしてもらったまでは良かったが、いざタクシーに乗ろうとしたら、全然乗せてくれずに(そりゃあ、当たり前だ・・・・)パーティーにはずいぶん遅れた。おまけに伸縮性のある包帯を巻いたものだから途中で気分が悪くなって困ったらしい。事務所内で騒ぐのもいいけど、町に繰り出そうという事になって ぞろぞろと得体の知れない連中が原宿の夜を闊歩した。地下鉄の通路を歩いていたら、あの、山本コータロー氏が通りかかり、扮装をしている強みで、何人かが「一緒にどーですかー!」などと誘って、氏は「がんばってください」とか何とか言って逃げてしまった。●ページの先頭に戻る
旅の前 フルタンとヨーロッパの旅に出かけたのは、ジーエックスが1ヶ月の夏休みを取った年だった。直前に、大阪のデパートでファッションショーの仕事を終えていた。私はそれまで飛行機に乗ったことがなくて、それを知った曾我さんが「そりゃ、いけないよー」と、大阪までフルタンと一緒に、飛行機で行かせてくれた。私は、大阪行きの飛行機が事故で落ちたりしたら、やだなあと思ったりした。死んでも死にきれんぞ・・・・と
ジーエックスが1ヶ月の休みを取ると決めてからは、6月、7月と徹夜続きの毎日だった。ある日、曾我さんがその提案をした時は 信じられなかった。「ただの休みじゃないよ、休みの8月も給料もらうんだよ」と言うのだ。その話、乗った!っていう感じでガンガン仕事をした。徹夜徹夜…の毎日。後でざっと数えたら、ひとり1日3枚の図案を描いた計算になった。小さいのは3インチ四方なんていうのもあったが、24インチというようなのや、生地巾のボーダー柄(ミミに沿って柄を入れる)なんていうのもあったから、よくも、こんなに描いたね・・・・と自分たちに感心してたっけ。●ページの先頭に戻る
TVをつけたら、偶然ライン下りの映像が流れていた。一番前の広いデッキには、私たちが乗ったときは、固定された椅子がたくさん並んでいた。なつかしい眺め。平行して鉄道が敷かれているところも写っていた。TEEのような(TEEは、この年だったかこの年に近い頃走り始めたように記憶している。)列車が走っていた。
私たちが行った国は、フランス、スペイン、ポルトガル、スイス、ドイツ、オランダ(この時は列車で素通りしただけ)、イギリス、7カ国35日間の旅。パスポートを掏られて、また取り返したなんていうおばかでスリリングな事件。今はもう無い、『BIBA』のオープンにぶつかって、この時貰ったBIBAの新聞を参考に、その後たくさんの図案を描いた事もあった。ポルトガルは、革命前で町なかに若い人が少なかった。子供と年寄りの多い町。日本からは、パリの初日と、マドリードの初日の宿だけ予約。後は駅のインフォメーションで探した。宿はフルタンの、鉄道のチケットは私の担当だった。予約していったホテルだけが超高級で、パリのは近代的なつまらないホテルだったけど、マドリードは五つ星のプラザホテル。各々キングサイズのベッドに羽根枕ふたつ付き。シャワー室と、風呂と分かれて付いていた。部屋もすごーく広くて、あれ以来今日まであんなすごいのには泊まった事が無い。他に泊まった小さいホテルも、ヨーロッパはそれなりに雰囲気のあるところばかりで楽しかった。今日までこんなのに泊まった事が無い、といえば、ドイツのマインツ。これはユースホステルだったが、なんと部屋は鉤型になってて、ふたつのベッドが縦と横に置いてあった。窓は大きくて気持ちよく、替わりに部屋はベッド以外のスペースがほとんど無かった。フロントの、若いお兄さんから封筒に「自分の住所を書いてくれ、クリスマスカードを送るから、」と言われて書いてきたら、本当にその年のクリスマスに送られてきた。●ページの先頭に戻る
旅の後 35日もヨーロッパを遊び歩いて、帰ってきた時ジーエックスの事務所のドアが開かない。フルタンが「あれ?あれ?」などと言って、私もやるが開かない。鍵変えたのかなあ・・・などと言い合っていたら、逆に回していただけだった。後で曾我さんに「このボケ!」と言われた                       ●ページの先頭に戻る

英会話
曾我さんが「英会話をここで皆で習おう」と言って、信楽のSさんの所に交換留学で来ていた女の子に習う事になった。彼女がアメリカに帰った後も、順々に新しい先生を紹介してもらって長いこと途切れなかった。中には上智大学に留学している人もいて、私たちに『発達と発展はどう違いますか?今勉強中でこれが良くわからない』などと言うのを、金太は『おんなじ』と平然と答えた。慌てて違うと言ったが、どう説明しても彼女に通じない。遂に私が『発達は』と、手のひらを次々に重ねていくジェスチャーをし、『発展は』と言って胸の前で手のひらを合わせ、パッと前に向けて広げたら、『わかった!』と嬉しそうにして、私たちも一応ホッとしたけれど、日本人だってちゃんとわかってる人がはたしているのか?という疑問も残った。
wendiは、一時フルタンのマンションに同居もし、一番長い付き合いになった。日本人のコウチャンと結婚し、合気道も習っていた。彼女の誕生日を代々木公園にこっそり一升瓶も持ち込んで祝った事があった。後でフルタンが、昨日、英語教えに行った先で、道で外人外人と子供たちに囃し立てられて追いかけられたんで落ち込んでたの。怖かったって。だから、今日は楽しくしてあげたかったんだ。と言った。
ブロンはオーストラリアの出身で、写真の勉強をしたいと言うので、私の中学時代からの友人カメラマンと事務所(ジュンフォト、友人のページに紹介している)を紹介し、少しの間通っていた。この頃妊娠して大きいお腹をしていた私は、ブロンのアパート探しに付き合って暑い日に都内をうろうろしたことがあった。その時、ブロンが『こいちゃんの写真を撮りたい。題はもう決まっている 』 と笑って言う。『なに?』と聞くと『熱心に、妊娠している女』と答え私たちは爆笑した。
バレリーは、カナダ人で『お父さんさえ、怒っている時に私の名前を正確に発音できない』と言うので驚いた事があった。V、R、L、が入っているのだ。彼女の実家には私の妹がカナダに行ったときにお世話になった事もあった。学生だった私の妹も、この頃GXで伝票整理などのアルバイトをしていて、一緒に英会話を習って、アメリカに短期留学した時、『何が良かったってGXでいろんな人に会って、外人慣れしていたから、町に出かけても会話をする事に臆病にならずに済んだことだ 』と言っていた。                ●ページの先頭に戻る

UFO
信じても信じなくても・・・・・・・・・・・私を含め、12人が同時にUFOを見ている。私は本当にその日まで、UFOというものを信じていなかった。この目で見ていないものは信じられない、と偉そうに言っていたものだと思う。信楽の友人の家に皆で遊びに行ったときの事。あまりの星空の美しさに、皆寝転がったりして夜空を見ていた。地蔵盆の日で、信楽焼きの作家Sさんの弟子山田君とネネは、子供を集めての映画上映会に出かけていた。私、曾我さん、フルタン、やちよ、Sさん、クニ、青木君、坂口君、Sさんの実家の工房の寮に住んでいた人の奥さんと、12歳の息子さん、の10人。私は立っていて、『あ、流れ星!』という声がするたびに空を見るのだけど、いつもすでに遅く、首が痛いのでまた上を向くのをやめていた。『あ、流れ星』と、また声がして、『どこどこ』とまた間の抜けた私の声に『あそこ』と教えてくれた声がして、そちらを見たら、まだある。しかも、ふらふらとジグザグに飛んでいる、やけにオレンジ色の光だ。
え?・・・・・・・・・・なに、あれ?と、ちょっと怖くて皆集まって、一緒に上を見ていた。ヘリコプターじゃないか?誰かが言って、曾我さんが『静かに!』と言う。皆耳を澄ますが、まったく何の音もしない。Sさんの家から青木君が出てきて、Sさんは『カメラ持って来い』と怒鳴ったけど、青木君は何の事かさっぱりわからず私たちの方に歩いてきた。私たちはもう、ほとんど怖さが先にたって、かたまって空を見上げていた。フルタンと、やちよ以外は雲が出てきた夜空の中に、オレンジ色を見つけられなくなっていた。『あーもう見えない』と次々に皆が言い始めたが、二人は『ある、ある、まだ見える』と言っていたが、突然同時に『あ!二つに分かれた!』と叫んだ。そして見えなくなった。今のはなんだったんだろう・・・・・と顔を見合わせていると、曾我さんが『静かに!』と言った。『なんか、音がする』 爆音が聞こえ、どう見ても編隊を組んでいるとしか思えない複数の光が見えた。『ジェット機だ。編隊を組んでる、普通の飛行機は、あんなに近づいて飛べない。自衛隊じゃないか?きっとレーダーが何か捕らえたんだ。』と曾我さんが言う。さっきはどんなに耳を澄ましても、何の音もしなかった。 ジェット機の光は、さっきのオレンジ色の光と同じ道筋に消えていった。その後、山田君とネネが帰ってきたとき、その話をしたら、二人は地蔵盆の映画会で、上映幕の少し上を同じ光が飛ぶのを見たと言った。『たくさんの子供が、それを見たはずだよ』と言っていた。方向も同じだった。おまけとして、この日、ものすごく大きな二重の虹が出たことと、山田君の飼っていた『雲』というまだ赤ちゃんの猫が今までにこんな事はないというくらい興奮して、山田君に初めて噛みついた、という話があった。噛まれた痕も見せられた。           ●ページの先頭に戻る

お昼時のお遊び
この中でどれが一番好き?と言う修ちゃんのお遊び。ananの『かっこいい男の子』とか、いろんな例が沢山載っている特集。お昼ごはんを電話で注文したら、もう仕事モードから外れてしまう私たち。たまたま開いたananの『かっこいい男の子たち』特集のページを見て修ちゃんが『この中で誰が一番好き?』と聞く。これ、と言うと「あんた、なんちゅう趣味の悪いやっちゃなー』とけなされるのがオチなのだが、フルタンが『この中ではいない』と言うと『この中から選ばな、あかん。世の中に、もう他の男はいないと思ってみい』と言われ仕方なく『じゃあ・・・・これ』と、決めると、『えー?これかあ?えらい趣味悪いなあ』とけなされる。逆に女の子特集で修ちゃんをいじめる事もあった。人ではなく、モノ特集でもこんなことをして遊んだ。案外、自分の思っていなかったその人の側面を見たような気がする時もあった。フルタン、又は修ちゃんの好きなのはこれだと思ったんだけどなあ・・・というように。                                                 ●ページの先頭に戻る
ファッションショーとヴィシソワーズの事 フルタンの弟さんの会社で企画した、ダイヤモンドと毛皮のファッションショーとディナーのパーティーが六本木であって、一人分の会費(たしか12000円)で、4人招待してくれてワクワクしながら出かけた。食事に入る前に食前酒を飲む場所があってかなり本格的だったのだなあ・・・・フルタンやソガさんが説明してくれたからいいようなものの、オタオタしそうなシステムではあった。今考えると、若さゆえのやけにこざっぱりしたファッションで出かけたものだと笑えてくる。会場にいる人があ、TVで見たことある・・・とか あ、○○氏だ、とか・・・・沢山いた。今は亡き荻昌弘氏もいたっけ・・・・エレヴェータの中に、大好きなモデルの杉本エマがいたのにはギャオーとわめきたいくらいだった。ショーはともかく、この時に出たスープの美味しさには仰天した。なんなんだ!これは!クラッシュアイスのグラスの上に乗った白いスープがこれまた底がまあるいグラスに入れられて・・・・・他の料理は全部忘れたけど、これだけが心を離れなくって困った。中身もなんなのかわからない。小さい声で『これ何?これ何?』と大騒ぎした。今時、ファミレスのメニュにもあって、大抵の人が知ってる冷たいポテトのスープだけど。やっとジャガイモがベースらしいとわかったときの嬉しさ。とにかくこれが飲みたくて、探した探した・・・世界のスープという本に写真入で載ってるのを見て、半信半疑で作ってみたら、大当たり。たいてい毎夏これを作る・・・・しかも、鍋いっぱい。

思い出したら、また追加していく予定。古い写真をスキャンして、ジーエックス写真館のページを作りたいと思っています。