日本企業は「強制的に」創り出された共同体(=共同態)である−−−これが、小生の基本的な「認識」です。この立場から、日本企業で展開されている MANAGEMENT の在り方を説明すると以下のようになります。
企業は協働の場としてとらえることができます。但し、それは(意識的に創りだされたという意味で)「独特な」(⇒経済学的な用語を用いれば、あくまでも資本・貸労働関係に貫かれた)協働の場です。しかも日本企業には更に独特な性格を見いだすことができます。日本企業では,管理するものと管理されるものとの問および管理されるものたちの間に単なる職務上の関係を越えた長期的な結びつきが存在していることを意識的にあるいは無意識的に前提にしてそしてその維持をめざして管理が行われていること,したがって,資本・賃労働関係に貫かれた支配が特定企業において長期的なスパンで貫徹(再生産)されていること,がそれです。このことは,日本の企業が独特な(日本的な)「共同体」になっていること,日本企業において共同体的な同調結合が存在していること,を意味しています。
ここに疑問が生じます。なぜ共同体的な結びつきが日本の企業のなかにもちこまれたのか,言葉を換えれば、なぜ日本企業が共同体化したのかそして共同体化され続けているのか、と。
あらためていうまでもなく,人々の間の長期的な結びつきは日本企業に限定されるものではなく、たとえば,長期勤続にともなう人々の間の長期的な結びつきが欧米企業においても存在することはよく知られています。だが日本のそれは単なる長期的な雇用関係ではありませんでした。それは,「共同体」意識に貫かれて,単なる資本家と労働者の経済的な雇用関係以上のものになってきたのであり.言葉を換えれば、「共同体」的な(すなわち,「共同体」としての企業における)長期安定雇用と称せられるべきものなのです。一定の協働体系に「共同体」的な関係が持み込まれるとそこでの人々の結びつきは長期的なものとなるのであり,日本企業では、そのような結びつきのもとで,資本・貨労働関係が再生産されてきたのです。
いかなる社会の企業においてもそこで「共通な」目的が設定されそれが追求されていくならば,そこに一種の閉鎖社会→ある意味での「共同体」が形成されそれが維持されていくということは当然の現象でしよう。問題は、その「共同体」の内容・性格にあります。この点、日本の近代的組織が1個の閉鎖的なタコツボになってしまう傾向がかなり以前から指摘されてきましたが、このことは、別の表現をすれば、日本企業がゲマインシャフトに擬せられる存在であることを意味しています。
人間がつくりだしてきた集団についていままでさまざまな類型化が試みられてきました。たとえば,F・テンニース(F.Tennies)のゲマインシャフトとゲゼルシャフトもその1つです。これらは,本来,〜シャフトという語尾をもつ他のドイツ語と同じく、具象的には、なにものかを総体的に共有する人々の総体(共同体)を意味し、抽象的には,なにものかを総体的に共有する人々の間に成立する関係を意味する「ことば」でしたが、テンニースによって新たな意味を与えられることになりました。
テンニースによれば,人間の結合体には実在的・有機体的な生命体と観念的・機械的な形成物の2種類があります。前者がゲマインシャフトであり後者がゲゼルシャフトです。ゲマインシャフトを基磋づける人間の意志は自然意志、ゲゼルシャフトを支えるものは形成意志とよばれています。彼によればゲマインシャフトこそが持続的な真実の共同生活であり、ゲゼルシャフトの方は経過的な外見上の共同生活であるにすぎないのです。
そのゲマインシャフトの三形態または段階として、「血のゲマインシャフト」(家族生活=一体性),「場所のゲマインシャフト」(村落生活=慣習)「精神のゲマインシャフト」(町生活=宗教)が区別されますが、これらに共通していることは人々がなんらかの形で共同生活を営み、その一体的な融合のなかで愛しあい慈しみあって、互いに離れがたく結びあっていることです。血族愛.近隣愛・友愛による全人格的な融合・愛着・信頼こそがゲマインシャフトの本質であり、そこに打算の働く余地はみられないと考えられています。
これに対して、ゲゼルシャフトの特質をなすものは、孤立であり,利益的結合であり、合理精神に基づく契約です。その根底には他人に対する不信があり、利益が得られる範囲内で他人との結合を図るにすざません。したがってそこでは,人は自己の提供するものと同等以上の反対給付と交換するのでなければ、他人のためになにかをしようとはけっしてしません。それゆえにゲゼルシャフトに関与する人々は、その組織特有の目的に照応するかぎりでの人格部分だけ関係しあうこととなり、その結びつきは断片的でゆるく,本質的には疎遠とならざるをえないことになります。
このようなテンニースの説は,一方でデマインシャフトとゲゼルシャフトを歴史的類型として把握し,他方でゲマインシャフトからゲゼルシャフトへという歴史的類型として使用していることをはじめとして,いくつかの点で批判されてさましたが,人間の社会生活のなかにゲマインシャフトとゲゼルシャフトという2つの社会形式が存在することを明確に打ち出したことが高く評価されています。
そしてこの場合,企業は,一般的には,その性格上ゲゼルシャフトの典型として位置づけられてきました。ここには、資本主義生産様式は共同体的構成を欠き、共同体の崩壊にともなって(すなわち,資本主義の成立とともに)自立した個人が現われてくるという「思想」が流れていますが、事実、欧米では企業はゲゼルシャフトとして存在しているのです。
しかしそのような(共同体の存在が近代社会とそれ以前の社会を区別するものである、との)「アイデア」はヨーロッパ的な発想に基づく抽象化の過程で概念化され「普遍化」された観念であり、すべての社会に当てはまる考え方ではないのです。現実の資本主義諸国はそれぞれの国の文化的民族的伝統のうえに成立しているのであり,ある国の資本主義生産様式は,その国の資本主義以前の生産様式との相互作用のもとで,形成されていく、と想定することの方が「自然」でしよう。このことは,当然のこととして,日本にもあてはまり,日本では日本の特殊的条件のもとで,資本主義生産様式が実現されてきたのです。
それでは,資本主義生産様式の中核を占める企業は,この点,日本においてどのような存在なのでしようか? それが,一言でいえば,企業の共同体化なのです。「さて、日本の企業,とくに大企業はどうだろうか。テンニスの分類では、それは当然,ゲゼルシャフトになる。だが,人間関係上の諸特徴をみると,ゲマインシャフトの色彩が濃くなっている。従業員の生活丸抱え式の労務管理の下では、人間関係が全人的接触に近くなる。職務中心でなく職場中心の組織運営の下では,人々の活動範囲,勢力範囲は厳格に区切られるよりも,相互依存的になる。だから、日本の企業は,テンニスの用語を借りれば,疑似ゲマインシャフト』とよぶのが適当かもしれない。」(間宏『日本的経営』日経新書)、との主張がでてくるのはこのためなのです。
ヨーロッパ的な発想にたてば,人間社会は,古い共同体(具体的にいえば,村落共同体)が崩壊してはじめて,近代化されていくことになり,そこでは,(旧い)農村と(自由を意味する)都市が対立的にとらえられています。このヨーロッパ的発想が正しいものか否かは容易に論じられるものではありませんが,日本では,「事実」として,近代になってもその(表裏一体としての相互援助と相互牽制を特徴とする)村落共同体が消滅しませんでしたし,都市と農村は必ずしも対立する存在ではなかったのです。資本主義生産様式の成立後も,ゲマインシャフトとしての村落共同体は(解体を余儀なくされましたが)決して解体されることなく、つい最近まで「存続」してきたのでした。しかしこれは本来の意味での存続ではなく、そのことは、見方を変えれば、「農業を中心としてかたちづくられてきた村落共同体」が、資本主義生産様式の確立のなかで,農民の小商品生産者化とプロレタリア化、として,「いわばなしくずし的に解体していった」ことを意味しています。このような村落共同体の中途半端な解体が日本において企業が共同体化していった1つの大きな経済社会的背景であり,企業の共同
体化を可能なものとしたいわばその「前提」条件であったといえるでしよう。
そのような(すなわち、共同体化せざるをえなかった)存在としての企業は,いうまでもなく,それまでの「土地の『共同所有』とその構成員の『共同労働』に基づく」村落共同体とは、その性格上、全く異なるものです。だが,村落から追い出されたプロレタリアートは、村落共同体の代わりに,企業に,精神的安定そしてまたさまざまな社会的欲求の充足の可能性を,言葉を換えていえば,共同体的世界を、もとめたのであり、都市に住みはじめた賃労働者は,依然として,意識の面では共同体的な関係にしがみつき、あるいは「旧き良き日」へのノスタルジアを強めていたために,その企業に,従業員として(言葉を換えていえば、共同体の一員かのごとく)組み入れられてしまったのです。この意味で,企業は(そこの従業員がそれに「共同体」として関与する)擬似共同体なのです。
ただし、この擬似共同体はなにも企業だけに限定されるものではありません。これはつくり出されたものであり、それは,大塚久雄氏の用語でいえば,具体的な共同体を本質的に支える共通な「集団性の外枠」としての共同態(ゲマインシヤフト)を意味し、日本の多くの集団にあてはまるものなのです。このことは,大塚氏の経済的な共同体概念を発展的に解釈し社会学的に再構成した間庭充幸氏によって、より明確に明らかにされています(間庭充幸『共同態の社会学』世界思想社)。
間庭氏によれば,日本人の意識と行動を深いところで規定している集団原理はゲマインシャフトリッヒなものであり、村落共同体がその共同体的原理に基づいて新たに構成された集団が共同態です。共同体的原理が貫いているかざりそこに生じる集団はすべて共同態⇒日本的ゲマインシャフトなのであり,企業も当然にそのような集団の一つです。したがって,日本企業は共同態としてゲマインシャフトの系譜に属し、その一般的性格を共有していることになります。
それでは、その共同体的原理とはなになのでしょうか? 間庭氏は,日本の村落共同体を念頭において,つぎのような原理を抽出されています。
(1)互換的共同関係の原理
メンバーが相互に依存しあわなければならないために,集団的結束力=統一性が強いこと。ただし,このことは,共同体がクローズド・システムであり,そこに個が完全に埋没し主体的な選択原理がまったく存在していない、ということを意味していません。
(2)集団聖化の規範
氏神信仰を媒介として集団生活を神聖化し,場合によっては個人を横牲にしても特定集団を永続させようとする思考や行動様式が濃厚であること。
(3)同統的序列関係の原理
共同体内部には生活上の必要から上下間係が生じるが、これは単純なタテ関係ではなく,上位者も下位者も同じ集団に所属しているという一体感によって支えられた同続開係(一体的な上下間係)が貫かれていること。
このように,日本では,「互換的共同関係」(ヨコの関係)と「同統的序列関係」(タテの関係)が「集団聖化の規範」を軸として互いに媒介しあうことによって,極めて同質性(一体性)の高い共同体が形成されたのです。そしてそのような共同体の再編としての共同態は、一方で、日本の共同体の特質として極めて同質性が高いというだけでなく、他方で、血縁的地縁的絆に拘束されていないという点で,その共同体と相違しており、また、地域性を必ずしも構成要因としていないという点で,コミュニティとも相違しているのです。
ここにあらためて疑問が生まれます。すなわち,日本ではなぜ(ヨーロッパ世界では起こりえなかった)企業という共同態が生じたのか,という問題です。これは企業の共同体化を可能性から現実性へと転化させた(企業の共同体化の)「構造」条件の解明です。そのような条件として,日本におけるプロレタリアート創出過程の独特さ,そして経営者によるイエの論理のもち込み,があげられると思われます。
日本の歴史は,明治維新政府の「上からの」資本主義化政策によって土地を奪われ都市へ流出し賃労働者にならざるをえなかった旧農民層が共同体から追い出されることになったことを物語っています。彼らには戻るべき共同体が存在しなかっただけでなく,主として彼らは単身で村から離れたために「共同体」形成の「基盤」たるべき「家」もなかったのであり,そのためにヨーロッパのように都市型共同体を形成することもできなかったのです。経営者によってイエの論理の持ち込みが行われそれが「成功」したのはそのような事情のためであり,これによって企業の共同体化の機縁がつくられたのです。
資本主義生産様式の成立には二重の意味での自由な賃労働者の存在が必要でした。この場合,自由な貸労働者とは,(1)生産手段から解放されるという意味で,自由な貸労働者,そしてまた,(2)人格的な束縛から解放されたという意味で,自由な賃労働者,を意味しています。そのような状況は,歴史的には,「本源的蓄積」によって創出されたものであり、自由な賃労働者=プロレタリアートの創出過程は,マルクスによって,典型的な形をとって現われたイギリスを例として,分析されています。
マルクスによれば,封建社会のなかから創出された貸労働者はつぎのような人々でした。すなわち,
(T)封建社会の直接生産者,
(1)農村の生産者,すなわち農民,
(2)同職組合の手工業親方,
(3)徒弟・職人,
(U)非直接生産者,
(1)封建家臣団,
(2)奴隷化されていた遅れた社会の住民。
これらの人々のなかで,賃労働者創出過程の基礎となったのは農民層でしたが,彼ら(土地を収奪された)農民は,一般的には3つの範疇からなっていました。
@基本的には,労働地代を支払い土地に従属し,身分的・人格的自由をほとんどもっていなかった,農奴,
A農奴的従属から解放され,人格的・身分的に一応自由であり,生産的地代あるいは貨幣地代を課せられていた,農民=隷農,
B土地への農奴的束縛から解放され,労働力に対する自由をすでに所有していた,自由な自営農民。
そして,イギリスでは,賃労働者の創出は自由な自営農民の土地収奪によって一元的に行われたのでした。
これに対して,日本では土地収奪の対象は隷農であり,彼らが賃労働者の基本的な供給源となったのでした。そしてその他に,封建的な職人ギルドの解体にともなう手工業職人と封建時代の支配層としての地位を失った士族層(特に,下級武士)も賃労働者の供給源となりました。
日本において本源的蓄積のテコとなったのは1873年(明治6年)の地租改正条例でした。これは近代的な財政制度を確立するための措置であり,農民は,私的な土地所有権を確認されるとともに,地租を納める義務を課せられました。だがその地租は地価の100分の3という高率だったために,高額地租を納められず借金をして支払いその借金未返済のため土地をとりあげられたり,地租未納のため土地を競売に付され土地を喪失する農民が続出し、そして土地を収奪されてプロレタリアートに転落した農民は寄生地主制のもとで小作人になるか賃労働者となるほかなかったのです。
小作人となった農民層は,彼らの所得が,一般的にいえば,当時のただでさえ劣悪な農民世帯の生活を維持するのにも足りないものであったために,いわゆる潜在的な過剰人口として、我が国の労働力の重要な供給源となっていきました。これは明治末期の頃であり、具体的には,農家の次・三男層と男子の短期出稼ぎや女子の通年出稼ぎがそのような賃労働者となりました。
したがって、このような状況のもとで創出された賃労働者の賃金は,もともと劣悪な農村の所得と生活水準に規定され,また自ら過剰人口の圧力を強くうけて、一世帯全体の生活を維持することができない低水準のものにならざるをえませんでした。日本においては(ヨ−ロッパのような)世帯主を含む農民が一家をあげて離村し賃労働者化することは,基本的には、なかったのであり,このことが−−−単身者としての従業員がいままで属していた共同体に代わるものを企業にもとめたことによって−−−企業の共同体化を具体的なものにしていった大きな要因となったのです。
「自由」の第2の側面としての封建的身分的束縛からの解放は,基本的には,農奴制の廃止によって農民が人格的自由を与えられることを意味しています。この点,日本でも,明治維新政府によって、封建的身分的障害が撤去され,労働者の人格的自由が認められ、職業選択の自由が公認され,労働力の自由な処分権が保障されることになりました。したがって,ここに,賃労働者は,たしかに形式的ではあるが,資本家と対等・平等な人格として労働力の売買の契約を取りかわすことができるようになったのであり、日本においても,資本・賃労働関係が再生産されていく基盤がつくりあげられました。しかしながら、その「契約」の意味が日本と欧米ではかなり相違し、そのことが日本の資本・貨労働関係を特殊なものにしているのです。
ただし、このことは必ずしも(よくいわれているように)日本人のなかに契約精神が欠如していることを意味するものではないのであり,その「契約」の実体が日本では欧米と比べるとかなり相違しているということにすぎないことを認識しておかなければならないと思われます。
欧米では、経営側からいえば,契約で同意した所定の賃金を支払うことによって一定の(限定された)仕事が遂行されること以上のことを期待していないし、労働者側からいえば、限定された仕事を遂行することによって所定の賃金を受け取ること以上のことを期待していません。
だがこれに対して,日本では、入社契約によって無限定な仕事をめぐる人格的結合がはじまったと考えられています。すなわち、日本においては一定の時間に対して一定の労働能力だけが売買されるという意識が極めて弱いのであり,これは企業という協働体へ個々人が機能的に参加するのではなくいわば全人格的に参加していることを意味しています。このことは誓約書に典型的に示されており、ここではまさに企業への所属となっているのです。
そしてこのことは同時に我が国では資本家と労働者の間に「権利」の関係についての意識が存在しないということも意味しています。すなわち、経営者は従業員に対して「権力」をもっているが、その労働を「請求する」権利をもっている,とは考えてきませんでした。また同じく,従業員は経営者に対して賃金を「請求する権利」をもっているとは考えず、「働かせていただく」「お給金をいただく」と考えていました。このような「伝統的な」関係は,第2次大戦後民主主義が侵透し「権利と義務の価値体系」が主張されてきたにもかかわらず,今日でもいまだに根強く残っているように思われます。
なぜこのようなことが生じたのでしょうか? これに対してはつぎのように答えることができるでしよう。
一般的に(ヨ−ロッパの発想では),共同体のもとでは個人はそれに従属するものとみなされ、独立した存在としてみなされなかったのであり,その意味でそこには個の確立がなかったのです。資本主義の成立はそのような共同体の否定によって可能となったのでした。その社会の成立とは独立した個人の確立を意味したのであり、それによって契約意識・慣行も生まれることになるのであり、そして事実少なくともヨーロッパではそうだっのでした。
だが日本では共同体が必ずしも崩壊せずに中途半端な形で残り,また−−−すぐ後で説明するように−−−企業のなかに共同体的関係がもちこまれた(⇒経営者によってイエの論理がもちこまれた)ために,上述の意味での個の確立をみることがなかった−−−ただし日本的な意味で個は確立していたともいえるのであり、これについては後に詳しく述べます−−−のでした。日本において人格的に真に平等な(⇒ヨ−ロッパ的な)契約関係が再生産されてこなかったのはそのためなのです。
日本の工業化はなによりもまず明治政府による「試行錯誤」的な殖産興業政策のなかで「上から」推進されました。これは、主として,江戸時代に富を蓄積してきた商人たちが(家業の維持・家産の増殖という伝統的な「理念」に縛られ)その資金を近代産業に投資しようとはしなかったために,明治政府自身が重要な産業部門に官営諸事業を創始しなければならなかったという事情によるものでした。たとえば,富岡製糸所、釜石製鉄所,などが官業の代表的な事例です。
このように日本の工業化は,先進欧米諸国と異なり,政府主導型として,すなわち,政府が企業家的職能の担い手となることによって,はじまりましたが、やがて民間のなかからもその推進者が現われはじめました。いわゆる「本来の」企業家と言われている人々です。
これらの数多くの企業家にとって、企業活動は、単に「利潤追求」のためのものだけでなく「産業自立のため」「殖産興業のため」のものでした。そこでは,日本のためという経営ナショナリズムが理念として訴えられたのでした。そして事実,彼らはナショナリズムの意欲・情熱によって近代企業を起業し初期の企業者的困難にたち向かっていったといわれています。
このことが当時可能となったのは明治維新が(西欧のようにブルジョアジーではなく)下級武士層によって成し遂げられたためであり,その事実が企業家の価値観に大きな影響を与えていったのでした。明治維新によってつくりあげられた国家はいままでの藩(国)を単位とした家から日本全体を1つの家とする構造への転換(倣い拡大)だったのです。すなわち,「藩という家が幕末に下級武士に担われて、強兵のために国を富ましめ,そのための国産奨励・洋式工業の導入という殖産興栄が推進されていった。その西南雄藩の下級武士たちが幕府を倒して、‥‥天皇家を宗本家とする国という家国家を形成し、藩という家のための、殖産輿巽・富国強兵をそのまま諸外国に対する富国強兵の国是としておしすすめた。こにに封建制から資本制の移行の根底に家の論理が貫かれ,産業化・利潤追求が国事とされ,国益中心理念が蔑視された金儲けを完全につつみこみ、昇華せしめ,封建倫理・封建イデオロギーがそのまま生かされて資本家社会の形成がなされていったのである。」(三戸公『家の論理』文眞堂)
下級武士を中心として組織された明治政府によって,新しい社会制度の建設にあたって藩という家(イエ)がモデルとされ,これが国家にまで拡大され,具体的には、一方で、国家という家を繁栄させるために工業化が押し進められ,他方で、家国家観がさまざまな教育を通して国民に植えつけられ,その結果,日本という国が天皇制共同態として再編成されていくことになったのです。だがこのような家(イエ)をモデルとした共同体化は企業自体(その内部構造)にもあてはまるのです。
明治初期の企業家たちの出自(出身階級)は,現実には,商人,農民,武士,とさまざまでしたが、彼らの企業活動のモデルとなったのは事実上商家の経営でした。
江戸時代の商家経営は、営利を目的としてしかも家業として,行われていました。その家業は「イエ」の観念によって裏づけられています。「イエ」は1つの制度体であり,婚姻によって成立する集団としての家族とは異なり、血縁的系譜性よりも「イエ」そのものの系譜的連続性が重要視され、それによってイエの存続と発展がはかられてきました。「イエ」は経営体であり生活共同体であったのです。
家業を中心とした経営体としての商家では、その運営に必要な人間がイエの構成員として認められていました。具体的には、「イエ」の構成員とはまず直系の子孫と傍系の親族(血縁者)でありそして非親族の奉公人(非血縁者)もそうであり、さらには限定された一時期ではあるが一部の奉公人(下男や下女)も構成員でした。そこでは,(下男や下女を除く)子飼の徒弟的奉公人は単なる使用人ではなく,家長とのオヤ・コ関係下におかれ、実の親子に準じた待遇が与えられていました。このことを象徴的に示しているのが別家制度です。彼らは,たとえば,丁稚−手代−番頭として奉公したあと,主家から「のれん分け」をされ,一人前の独立自営業者となっていきました。これが、傍系親族の「分家」と区別される,「別家」です。本家を中心としてその分家や別家が同じ「のれん」を守りたすけあい存続していく(同族団としての)集団−−−これが(商家の)「イエ」であり,それはそこに属する人々の社会生活の主要な舞台としての生活共同体でもあります。
このように商家では非血縁者である奉公人にも主家の繁栄をめざした献身的な奉仕が期待されそれが現実にも行われていたのであり、そこには集団(⇒イエ)に対する「高い帰属意識」がありました。
そして,この「イエ」観念が明治時代の企業家の活動のなかで拡大され、「イエ」の擬制としての企業が現われたのです。たとえば、このことは、1870年代から90年代のはじめにかけて官営工場を安く払い下げられた三井・三菱などの特権商人たちがそのような工場を家業として経営したことに典型的に示されています。これは,「イエ」と結びつき展開されてきた「家業」観念が,近代企業家のなかに,受容されていったことを物語っています。
ただし 明治時代の終り頃になるとイエの観念がいままでのそれとは微妙に違ってきました。なぜなら,以前のイエでは血縁者だけでなく非血縁者も家族としての構成員となることができましたが,明治民法(1898年・明治31年実施)のもとでは,血縁者だけが家族として認められるようになったからです。このことは、以前ならば当然のこととして「イエ」の構成員として自他ともに認められた(非血縁者である)奉公人が制度的にはイエから排除されることになったことを意味しています。ここに,そのような奉公人を従業員として「イエ」(⇒企業)につなぎとめておくために新たなイデオロギーが必要になってきました。これが、第2次大戦前の日本的経営の代表的なタイプとして今日常識化している「経営家族主義」の形成であり,このことは、たとえ家が制度的には新しく規定されることになったとしても,「イエ」観念が経営者たちによってすでに明治の初め頃に意識されていたことをあらためて示しています。今日の研究によれば、経営家族主義は明治末に導入されはじめ,第1次大戦前後に広く普及していったといいわれています。
経営者たちはこの時期になぜイエの論理を企業にもち込んだのでしようか? これは,なぜ経営家族主義なるものがこの時期に成立したのであろうか? という問題でもあります。
資本主義企業における経営は,一般的にいえば,本源的蓄積の過程,原生的労働関係の過程を経て,近代化されてきたのであり,このことは日本にもあてはまります。原生的労働関係は長時間労働と低賃金に代表される劣悪な労働条件に特徴づけられたものであり,そのような原生的労働関係のなかから経営家族主義が形成され,経営の近代化へとつながっていったのでした。経営家族主義の形成の直接の原因としていくつかのことを指摘できるでしようが,工場法の制定が大きな役割を果たしたものと考えられます。なぜなら,極めて劣悪な労働条件のもとに置かれていた労働者の保護を目的とした工場法の制定によって経営の近代化がはじまったといわれているだけでなく、工場法をめぐる状況のなかに日本的なものを見出すことができるからです。
我が国において工場法が制定されたのは,その必要性が明治10年代の前半頃から議論されその制定への準備がはじまっていたにもかかわらず,明治44年(ただし、その施行は大正5年)でした。この工場法では、女子・年少労働者の保護が中心であり,労働者全般にわたる賃金,労働条件の最低規制は無視され,労働条件の規制はあっても賃金に対する保護規定はまったくなく、しかも,女子・年少者に対する保護規定も不十分でしたし、そのうえ,適用を除外する例外規定があり,さらに15年の長期に渡る猶予規定がもうけられるなど,形式をととのえただけで,その内容は実質を失っていました。
工場法がただ「有は無に優る」という意味でしか存在意義がないものになってしまったのは,経営者たちが工場法制定の動きに対して一貫して激しい反対の立場を取り続けたためでした。経営者たちの反対理由はつぎの2つの点に集約されます。
(1)深夜業の廃止や雇用年齢別限等を内容とする工場法の制定が、産業の発展を抑え,企業利潤の減退を招くこと(すなわち、ここには、現在は欧米列強に負けずに日本資本主義を発展させなければならない時期であり、そのために、労働者も「お国のため」に耐乏しなければならい、という経営者の主張がある),
(2)工場法が制定されれば,日本固有の美風である主従、師弟、家族親子のごとき労使関係、そこに存在する徳義,情誼,温情が失われ、これが西欧的確利義務のなかに没して,労使紛争のもとになること。
ただし,経営者たちはただ反対するだけでなく、工場法の制定は時代の流れとしていずれは避けられないものであると観念するなかで,新しい管理様式を準備していきました。それは前述の第2の反対理由に関連するものであり、人道主義、温情主義の立場からの原生的労働関係への非難に対する経営者の温情主義の立場からの「反批判」とも言えるものでした。しかもこれは,まったくのつくりごとではなく,たとえ,フォーマルに制度化されていなくても,扶助救済,治療・教育・娯楽などの温情的措置はたしかに実施されていたのでした。そして,労働力不足,熟練労働者の定着・熟練労働者の養成の必要,といった資本の論理の現実的要請を受けて、そのような温情主義の伝統を経営者なりに受容し、それを個人的・断片的な措置から組織的・総合的管理施策への転換を目指した結果として「誕生」したのが経営家族主義だったのです。
経営家族主義とは、一言でまとめれば,従業員に対する温情的生活保障政策であり、その実体は家族的温情主義でした。こうした施策を比較的はやく打ち出したのは,鐘紡、国鉄,王子製紙などであり、それらは,社会保障がほとんど存在していなかった当時、貧困な農家から押しだされ不安定な生活をおくらざるをえなかった多くの労働者のなかに経営帰属意識を高めるために大いに役立ったといわれています。したがって,それらの施策のなかで最も基礎的なものは福利厚生制度である、ということになります。
この経営家族主義「方策」は,19世紀にヨーロッパ諸国において生じた問題、すなわち、工業化途中の社会が新たに生まれた工栄労働者を新しい社会(コミニュティ)にどのような条件で組み込んでいくかという問題,に対する日本的な解決方法だったのです。
このように考えると、経営家族主義は経営者によって「強い意図をもって意識的に作られたもの」である、ということになります。このことは,資本の論理の貫徹のために「イエ」の論理が経営者によって企業にもち込まれたこと、すなわち,新しい家族的な擬制(共同態)がつくりだされたことそしてそれによって従業員のなかにイエ意識が強要されたこと,を意味しています。そして,この経営家族主義(⇒経営者によって企業にもち込まれたイエの論理)は法律によって守られ(認められ)その存在を正当化され従業員のなかに強制的に植え続けられていったのであり、資本・賃労働関係(資本主義企業のもとで管理するものと管理されるものの関係)が主従関係として再生産されていったのです。
明治の終り頃から(第2次大戦)敗戦までの我が国の企業経営の歴史は、この経営家族主義が多くの企業のなかに,それがどの程度当初の目的を達成したかは別として,具体化されていったことを示しています。
このことは,小生の問題意識に沿ってまとめると,熟練工の必要のためにまた人員の定着を望んだ経営者たちによって,当時の状況の判断のもとで、イエ意識の拡大をめざして意識的につくり出された経営家族主義(⇒一家主義)(イエ共同体の創造)が、単身者でありまた村落共同体の出身者であるために(故郷では共同体が完全に崩れずに残っているために)共同体にあこがれをもっていた従業員のなかに−−−実際には年功賃金のために特定の会社に長期間に渡って勤めざるをえなかったという経済的事情が大きな要因となったと思われますが−−−ある程度「受容」された、との経営者の理解のもとで、経営が続けられていったことを意味しています。第2次大戦後アベグレン(J.Abeglen)によって終身雇用として再発見され評価されたのはこれだったのです。
このように日本企業では、ムラ共同体(ムラ意識)とイエ共同体(イエ意識)がいわば重層的に存在してきたと考えられるのですが,それはいかなる意味で重層的に存在しているのでしようか。
これに関して,様々な説明が可能ですが、ムラ共同体へのあこがれが企業の共同体化の「前提」条件であり,イエ意識のもち込みがその「構造的」条件の1つである,との小生の立場からいえば,当初はムラ意識とイエ意識はそれぞれ別の回路に属するものであったかもしれないが,次第にムラ意識とイエ意識がブレンドされ,言葉を換えれば,(イエ意識がムラ意識を包みこむ形で)イエ意識によってムラ意識が薄められ,企業全体が共同体化していったのではないでしょうか。日本の企業の従業員が「ウチ」と「ソト」の区別をはっきりともっていることはよく知られていますが,これは,たとえ,強制的にもち込まれたものであるとしても,イエ意識が従業員のなかに侵透していることを証明しています。ただそのことが可能になったのは,歴史的にいえば,ムラに由来する集団主義が存在していたためだったのです。
かくして,従業員たちの村落共同体へのあこがれを背景としたイエ意識の強要によって人々の長期的な結びつきが企業内にもち込まれることになりましたが,これは,第2次大戦後,農地改革によって旧い「共同体」の崩壊がより促進され,多数の人々が農業を捨てて工業労働者としての途を選択せざるをえなくなった時点でも,新しい「共同態」としての企業社会のなかで再生産され続けていくことになりました。なぜそうなったのでしょうか?
それに対してはつぎのように答えることができると思われます。すなわち,人々の長期的な結びつきのもとでは,当然のこととして.その結びつきのブツ的「土台」となる共同体(⇒集団)の存在が重要視され,その集団(⇒企業)の存続に第一義的な価値を置く集団主義的行動あるいは規範・心理特性が形成されたが,そのような規範はすぐに消失するものではなく,それを前提として,戦後の昭和20〜30年代前半にかけて伝統的な経営制度が再編されたりあるいはまたさまざまな新しい経営制度が「輸入」構築され,それを媒介として「共同態」が定着してきたのである、と。
したがって,管理における日本的なものの確立⇒企業の共同体化には,基本的には,つぎのような2つの段階があることになります。
(1)明姶以降に企業のなかに長期的な結びつきがもち込まれた時期。これが企業の共同体化のはじまりです。
(2)第2次大戦後の日本的経営の確立・完成期。これは旧い「共同体」が「完全に」くずれていくなかで企業が「共同態」として明確に位置づけられていく時期です。そしてその場合に利用されたのがイデオロギーとしての集団主義でした。これ以降,イデオロギーとしての集団主義が積極的に利用され,経営制度を通して共同態としての企業が再生産されていったのです。
イデオロギーとしての集団主義とはどものなのでしようか? それは,日本人の行動様式は欧米人のそれとは異なるのだという考え方が,その真偽はともかく,独り歩きし「常識」化したことを意味しています。そして企業でもそれが利用され,Planning−Organizing−Motivation−Controlという一連の管理機能に具体化され、「集団主義」規範が定着していったのです。
1960年代の後半から70年代にかけて日本が「経済大国」として再び世界の注目を集めるとともに,日本人には(欧米人の眼からみて)特殊で独特な行動様式がみられるという「神話」が急速に広まっていきました。そして現代では、日本人の典型的な行動様式を,「個」が確立していないこと
→ 集団志向 → 「和」の重視 → 集団主義,という脈絡のなかに見出すことができるという,考え方が,多数の文献のなかで繰り返し指摘されることによって,1つの「常識」となってしまったかのような観を呈してきています。
そのような考え方の形成に大きな影響を与えた代表的な啓蒙書として,たとえば,土居健郎氏の『「甘え」の構造』、中根千技氏の『タテ社会の人間関係』、荒木博之氏の『日本人の行動様式』、クラーク氏(村松増美訳)の『日本人ユニークさの源泉』、ライシャワー氏(国弘正堆訳)の『ザ・ジャパニーズ』、ヴォーゲル氏(広中和歌子/木本彰子訳)の『ジャパン・アズ・ナンバーワン』,をあげることができるでしょう。
この(日本人は特殊であるという)解釈は,多くの啓蒙書の内容からわかるように,組織(企業)内の人間行動・心理に,特に,あてはまるものとされたのであり(あるいはそこから導きだされたものであり),日本的経営を支えるものは集団主義(⇒集団主義に基づく経営)だといわれるようになっていきました。そのような日本人は集団主義(者)であるという一連の議論の背後には,一般的にいって,欧米人は個人主義(者)であるという暗然の前提があります。このような「前提」そしてそこから導き出される(日本人は集団主義者である、という)「結論」は果たして正しいのでしょうか。
西欧において個人主義が確立したのは近代であり,中世には個人主義なるものは存在しなかったといわれています。近代化の過程で個人主義が現れてきたのであり、人々は、すべての生活領域に渡って行動や意識を統制していた中世社会の共同体の崩壊とともに,独立した単位(個人)として存在せざるをえなくなったのであり(言葉を換えれば,バラバラとなり),いままでのような共同体的なきずなに代わって,自分自身だけしか頼ることができなくなっていったのでした。「集団に所属せずまた自分を絶対に独りであるとみなす個人」の存在が今日の個人主義を準備したのでした。
したがって,この「個人主義」という言葉は,「社会主義」や「共産主義」と同じく19世紀の言葉なのです。しかもそれはその初めから今日のようないわば積極的な意義をもつものとして受け入れられてきたのではありませんでした。∃−ロッパ諸国においては批判的ないし否定的な「原理」を指すものとして個人主義は理解されてきたのです。
たとえば,フランスでは,一般に,個人主義とは社会解体の源泉を指し、協同社会や社会主義などの理想の協働的な社会株序との対比で、自由放任主義・産業資本主義によって生じた,無秩序状態・社会的原子化・搾取を意味したり、個人間に私利追求の態度がはびこることを意味していました。この言葉は,その当時において,批判的な意味合い,すなわち、個人に関心を集中することは社会の重要性の優位を損うとする強い暗示を含んでいただけでなく、今日でもそうなのです。この点、ルークス(S.M.Lukes)によれば、1843年のルイ・ヴェイヨー(L.Vevillot)の言葉「全体は個人のためにあり、個人は全体のためにある。それが社会というものだ。個人は自分自身のためにあり、それゆえ個人が全体と対立する。それが個人主義である」と,フランス学士院の20世紀の辞典における個人主義の定義「一般的利害に従属させること」、がそのことを証明していることになります。このように,フランスでは,個人主義とは悪徳であり、社会的結合に対する脅威である,と考える点で,広い意見の一致がみられていたのでした。
個人主義は,社会主義的伝統を欠いたアメリカにおいてはじめて、資本主義と自由主義的民主主義を称賛する「原理」となりました。そこでは、個人主義は、社会解体の源泉や,未来の調和的な社会秩序への苦痛に満ちた移行を意味するのでもなければ,唯一性(uniqueness)の育成や有機体的共同体を意味するのでもありませんでした。それはむしろ,平等な個人の権利,権力を制限された政治,自由放任主義,自然的公正と機会均等,個人の自由,個人の道徳的発達と尊厳に基づく自発的に結ばれた社会にみられる,人類進歩の最終段階の,現実的で,早急な実現を意味したのです。そして,その後,この「アメリカ的理想としての個人主義」が,アメリカ資本主義の発達とともに企業活動における非情な競争を正当化する「原理」として,西欧諸国に国境を越えて伝播されていったのです。
このような歴史をふり返ると,欧米人が個人主義(者)であるということは1つの「理念」であり必ずしもすべての欧米人が個人主義的行動をしているのではないということがわかってきます。個人主義は,欧米人たちにとって「自分は何をしていると信じているかを理解するために必要な『概念』」なのです。
個人主義が1つの「理念」(理想)であるということは、現実には,「個人主義」いう言葉が非常にあいまいなままで今日まで用いられてきたということです。ということは、集団主義も1つの「理念」であるということであり、このことは,1つの国に(たとえば,日本で)集団主義のみがみられるとかあるいは他の国(たとえば,アメリカ)には個人主義だけがみられるという主張は,当然のことですが,現実離れした考え方である、ということを意味することになります。言葉を換えていえば,個人がその社会(集団)にどのようにかかわっているかという点でそれぞれの国々においてさまざまなものがありうるのであり,国民のなかにさまざまな行動様式が生まれることは当然の現象なのです。しかしながら同時に,個人主義と集団主義の組みあわせにはそれぞれの国にそれぞれ独自のものが一定の傾向として存在することも事実なのであり、そのように考えることにも一定の根拠があり,それはそれで1つの現実に即した考え方なのである、ということになってきます。
したがって、日本人が集団主義(者)であるという場合には,主として,その集団主義的行動様式は(アメリカを中心とした)欧米人の行動様式である個人主義との対比のうえで理解されることになるのですが、単にそれだけではなく,日本の集団主義は日本に独特なものであり,欧米的な発想に基づく集団主義ではないという見解が,当然のこととして,出てくることになります。そして,近年ではそれが大きな潮流となってきています。
この点、たとえば、間宏氏によれば,個人と集団を対置してとらえる考え方そのものが個人主義的発想なのであり、集団主義の立場からは別の見方が出てくることになります。「集団主義の下で,個人と集団との『望ましい』あり方は、個人と集団とが対立する関係ではなくて,一体の関係になることである。ここから、西欧の観念からみて,個人の未確立の状態がでてくる。だが,集団主義の理想からいえば,個人と集団、もっと抽象的にいえば個と全体とは,対立・協調の関係にあるのでなく融合・一体の関係にあるのが望ましい。個人(利害)即集団(利害)であり,集団(利害)即個人(利害)である。この状態では、『会社のため』という,外部の人の目には自己犠牲とも映る行動も、当人にとっては,他者への犠牲ではなく,自分自身のためのものでもある。
集団主義だからといって,個の主張、いいかえれば自己実現の考え方がないわけではない。ただそれが個人主義のように、どこまでも個人の努力と責任によって実現されるものだとは考えられず、集団を通して実現されるものと見なされる。それゆえ,集団もまたその構成員の自己実現に大きな責任を負うことになるのだ」、と。
かくして,最近の研究(発想)によれば、日本人に特徴的であるといわれている集団主義は個人主義に対立する形での集団主義ではないのです。このような解釈は多くの人々によって支持されています。「集団主義」に「日本的」という形容詞がつけられたりあるいは新しい概念が提起されてきたのはそのような「発想」の現れなのであり、「間人主義」概念はそのような概念の代表的なものの1つです。
日本人は単なる「人(ひと)」ではなく(「人間」(じんかん)に生きる「人間」としての)「間人(かんじん)」である,と主張されることがあります。この説によると,日本人の社会的行動の基盤となっているものは「対人的関連そのものを社会生活の最も重要な要件と考える価値観」であり,それは「間人=間柄主義」という槻念で説明されることになります。これは,日本人に顕著だとされてきた集団志向性を,アンチ「個人主義」としての「集団主義」に拠らないで解明するために構築された概念であり,「協同団体主義」と称せられることもあります。以下その代表的論者である浜口恵俊氏の一連の著作を借りて、間人主義の内容を−−−特に,それと集団主義との異同を中心に−−−確認し、その後そのイデオロギーとしての意味を検討してみようと思います。
間人主義というタームが登場してきた背景には,実際の日本人は,それぞれに独自な意思を押し通そうとする欧米型の自律性を示さないという点で,「個人」ではなく,その意味で集団主義(者)かもしれないが,日本人の集団主義的傾向は必ずしも,個人主義の否定としての,個人の集団,組織への没入や隷属、を意味しないのではないか、という問題意識がありました。すなわち,日本人の集団主義とは成員の組織への全面的な帰服を意味するのではなく,他の成員との協調や集団への自発的なかかわりあいが結局は自分自身の福利をもたらすことを知ったうえで、組織的活動にコミットする傾向−−−それが日本人にみられる集団主義だ,というのです。
日本人を特色づけている集団主義は、かくして,個人優先の「個人主義」の対立項としての集団優先としての「集団主義」ではないということになります。個人主義とは、浜口氏によれば,自己を客体視(対象化)する際に自己自身だけをレファレントする(一神教社会に多くみられる)「単独的主体」としての「個人」に抱かれる価値意識であり,それはつぎのような3つの特性をもっています。すなわち、(1)自己中心主義(自己自身が人間社会の中心的な拠点だとする確信),(2)自己依拠主義(自らの生活上の欲求は、自己の力によって,また自己の責任において充足させるべきだとする考え方)、(3)対人関係の手段視(自律的な「個人」どうしは,ギブ・アンド・テークを目的として関係を結ぶが,その際,戦略的視点からその関係の手段的有用性が問われる),がそれです。
これに対して、日本人は相互の「間柄」を分有し体現した存在であり,「間柄」それ自体の維持・充実をはかりその関係性を最も重要視する「関与的主体」としての「間人」であり,そのような存在としての我々にはつぎのような価値意識が強くみられます。
(1)相互依存主義(社会生活では親身になった相互扶助が不可欠であり,依存しあうのが人間本来の姿だとする理念),
(2)相互信頼主義(自己の行動に対して相手もまたその意図を察してうまく応えてくれるはずだとする互いの思惑),
(3)対人関係の本質視(いったん成り立った「間柄」は、それ自体値打ちのあるものとして尊重され,無条件でそれの持続が望まれる),がそれです。
いままでによく知られてきたタームを用いれば、「和」の精神に近い「概念」に見えますが、自己の主体性をなくすほど他者のなかにのめりこむことではない、属性,をもつ価値意識が、集団主義ではなく,日本人の行動のベースとしての間人主義なのです。そして,この「間人主義」にもとづき職場集団を単位にして仕事を進めようとするのが「協同団体主義」であり,日本の職場では,各成員が仕事をするうえで互いに領分を越えて協力しあい,そのことを通して,組織目標の達成をはかると同時に自己の生活上の欲求を満たし、集団レベルの福祉を確保しようとする姿勢が支配的となってきます。そこでは,成員間の協調性(人の和)が重要視されるだけでなく,「個人」と「集団」の相利共生がめざされている、ということになります。
したがって,浜口氏によれば、間人としての日本人の行動原理,言い扱えれば,「日本人らしさ」の公準の原理(行動レベルの日本人らしさ)は,「アウトサイド・イン」outside−inの原理として公式化されます。これに対して,欧米人のそれは「インサイド・アウト」inside−outの原理です。これらの原理は、行動の自己制御において準拠点を自己の内側にとるかそれとも外側にもとめるか、によって区別されます。日本人は,その社会的行動において、相手に対する働きかけの拠点を(自分自身ではなく)相手の側におくのであり、「関係」が行動の基準なのです。
日本人の行動を特徴づけるもの(価値覿)がなにであるかについて、その名称がなにかは別として,浜口氏の問題提起を軸に整理すると、事実上一応の共通の理解が存在しているように思われます。それは、まず消極的な意味において、つぎの2点でまとめられるでしょう。すなわち,
(1)日本で集団主義といわれているものは西欧的発想の個人主義に対立するものとしてのそれではないこと,
(2)それは対人的配慮を強くもとめられる風土に生じたものであり.(全体への個の完全な埋没を意味する)全体主義−−−たとえばそれが全体主義へと転化する危険性を充分に内包しているとしても−−−ではないこと。
そしてこのことは、積極的な意義として,日本における個の確立のあり方が独特であることを示しています。すなわち,日本の社会では,(自らの主体的意思によって集団にかかわっているという)西欧的意味での個の確立はみられませんが,いわば(集団とのかかわりを前提にしたうえでそのなかで自己を生かす途を追求するという)日本的な意味で個がそれなりに確立している−−−必ずしもつねに全体主義ではない−−−のです。このような(集団との関係において自己の主体的存在を主張せざるをえない)組織風土のもとでは,その成員のなかに一種の集団的行動が生じることは当然の現象なのです。
したがって,現実に企業内で働く多数の人々が集団主義的に行動していることは「事実」であり、その「事実」を認めざるを得ないと思います。但し、実はそこから問題が生じるのです。それをどのように評価・解釈するか,より具体的にいえば,なぜそのような行動をするのか,またより正確にいい直せば,なぜそのように行動させざるをえないのか,明らかにすることが問題になってくるように思われます。
ここで,集団主義経営の価値観としての和に注目することが必要になってきます。なぜならば,日本企業では,それがそこで働く人々の長期的な共同体的結合を前提にした共同態である以上,集団のまとまりを確保するために成員間の「和」の維持が必要不可欠なことになっているからです。このことは,共同態に所属する人々は同じ集団の仲間として全員一体となって共通の利害−−−これは通常長期的なものです−−−の実現のために行動しなければならない,という事情,を示しています。したがって,和とは単なる協力や協調ではなく,長期的なバランスのなかでそれぞれの成員の利害が調整されるメカニズムのもとでの協力なのです。それでは,この和は,現実的には,いかにして維持されているのでしようか? これが「本来の」間題なのです。
我々の経験的事実から考えても,多くの日本人は,特に,一定の組織のもとでは,「ウチ」と「ソト」の意識をもち,集団主義的に行動している、といえるでしよう。この意味で,日本的な集団主義を意味する間人主義は,たとえ,そもそも「間人主義」概念には,それが必ずしも欧米人が個人主義であり日本人が間人主義であるとされたばあいの量的差異が質的差異を生じせしめるはどのものであったかどうかの実証的分析から構築されたものではないという「疑問」がつきまとっているとしても,現象的な「事実」をみるかぎり妥当しているといえるでしよう。
だが,日本の社会にも,当然のことですが,集団主義的規範や行動様式・心理を有していない人々も存在しています。したがって,日本人は集団主義者であるという考え方は,それらの「枠外の」人々を切りすてる形で,またその他の都合の悪い事実を無視して「公式化」されたものです。もちろん,ある1つの「概念」とはまた「モデル」とはそのような性格のものであり,現象をより包括的に説明するための1つの試みとしてさまざまな試行錯誤の過程を経て構築されるものであり,当初から一定の限界をもっています。
ただし,問題は依然として残ります。1つは無視された事情が無視できないほどになってしまったにもかかわらず,そのモデルが独り歩きするばあいであり,もう1つは,そのモデルがイデオロギーとして流され,現実の行動をそのモデルにあわせざるをえなくなってしまう雰囲気(風土)ができあがってしまうばあいです。これらは密接にからみあって生じますが,そのことは今日の日本人論にもあてはまるように思われます。
問題は,かくして,このモデルが独り歩きして企業のなかに逆にもち込まれたことから生じる、と言うことになります。
先に述べたように、我々の経験的事実から考えても,多くの日本人は,特に,一定の組織のもとでは,「ウチ」と「ソト」の意識をもち,集団主義的に行動している、といえるでしよう。何故、我々は「集団主義的に」行動するのでしようか。小生の立場では、そのような疑問に対してつぎのように答えざるをえません。共同態としての企業で働く人々は他の人々に同調せざるをえないのであり,このことが従業員を集団主義者(間人主義者)にしているのである,と。これは決して「自発性」と同一ではない(本来的に集団主義者ではない)のです。それはイデオロギーとしての集団主義の作用の結果なのです。
日本企業で働いている人々にとっては,自分がどう行動するかの意思決定のばあいに,まわりの同僚たちの多数が日本的経営の根底にある価値観は日本的な集団主義だと思い込んで行動しているかのようにみえる,ということが大きな意味をもっているのではないでしようか。まさしくこれは日本的な個の存在(確立)を意味するものです。このことによって,「日本人は集団主義者だ」という1つの経験的事実が「日本人ならばすべて集団主義者でなければならない」という規範へと転化してしまうのです。ここに至って,日本人である以上,集団主義者でなければ悪いことだ,という価値判断が組み込まれることになり,これが自己の行動を規制することになるのです。これは,そのような規範・心理を認めずに行動する人々はその企業で適切な企業内人生を送れなくなる,ということを意味します。「ホンネ」を「タテマエ」にあわさなくてはならないのであり,それが可能な人々には良い「場」となりましが,それをできない人々は矛盾に苦しむことになることは容易に想像できます。
特に,そのような「公式」にあわせて,計画化一組織化一動機づけ−統制,に代表される管理サイクルが再生産されてくると,それによってまた集団主義的行動をとらざるをえない状況が生み出されてくるのではないでしょうか。すなわち,仕組み(計画のたて万,組識づくり,仕事の仕方,などの管理のあり万)が集団主義的なものとして再生産され続けるために,また更には,集団主義イデオロギーが周囲にはびこるために,いい換えるならば,従業員自身も,日本人は集団主義者であるという「情報」が(先述の啓蒙書に代表される)各種のメディアを通して多量に流されることによって,自己の行動を集団主義規範に照らしあわせて確認(正当化)するようになるために,どっちみち集団主義者として集団主義的に行動しなければならないならば,積極的に集団(会社)と一体化した方が,間柄をはかって行動し仕事をした方が,自分にとっても得である,という考え方が,いわば生活の知恵として,出てくるのではないでしょうか。
これが「現象」「現実」としての間人主義であり,これによって「和」が維持されていくのです。間人主義的状況はイデオロギーとしての集団主義の機能の当然の帰結なのです。間人主義は共同態の強制的な維持のための文化としての集団主義的行動様式を示す価値観なのです。
我々の「集団主義的」行動様式は人工的に(意図的に)共同体化された企業のなかで,(共同態としての企業に適合する形で展開された経営制度によって再生産されていく)集団主義的行動・思考の確立とともに,生じたものなのです。したがって,それは決して自発的なものではなく、その意味で,基本的には,「強制」的なものといえるでしよう。ただし,それは必ずしも全面的に強制的なものでもないのであり,従業員自身の意思(利害)を反映した「強制」的なものなのです。そのような行動が外からみると−−−忠誠心として−−−自発的なものと映ることもあるのは,まさにこのためなのです。
日本企業では,そこで働く人々は,もし企業内外において「充実した」人生を送りたいならば,企業の目的の実現をめざして集団主義的に行動しなければならない,という風土,がつくり出されそれが再生産され続けてきたのです。これは,(自己の人生の中心に会社が存在している)「会社本位」集団主義というべきものです。この「会社本位」集団主義のもとで,会社のためならどんなことでもいたしますという論理,会社のためになることならすべて善であり,会社のためにならないことは悪であるという価値観,が支配し,会社のためにやったことならいくら罰せられようと罪の意識は生まれないという風土ができあがってしまうのではないでしようか。日本企業における集団主義とは(「横」の結びつきを欠いた)当該企業のためにのみ集団的に行動させられる価値観なのです。
小生の立場から言えば、次のようにまとめることができるでしよう。詳しくは、宮坂純一『日本的経営への招待』晃洋書房、を参照ください。
日本人の深層心理としての資本主義生産様式以前の共同体的生活の共同体的結合のもとで存在した集団志向的な行動や心理が企業のなかにもち込まれそして利用され(共同体的結合の強制⇒企業の共同体化),これに適合する形で共同態としての企業の具体的な経営制度がつくり出され,その枠のなかで一定の行動規範・心理が形成されてきた。これが会社本位主義としての集団主義であり、共同態としての日本企業の「誕生」である。しかもこのある意味では強制的につくり出されたものとしての集団主義規範が日本人に特徴的なものであるという普遍的な価値「観」にまで高められて,これが教育・宣伝されてきた(イデオロギーとしての集団主義)。そして,今度は逆に,企業内部において,従業員たちがこれによって我々日本人は集団主義者でなければならないのだという気持にさせられ,そのことが共同態としての企業の経営制度をより強固なものにするように作用してきたのである。ここに至ると従業員の集団主義的行動・心理が再生産されていく「途」が完成され、日本企業は共同態として「存在し続ける」ことになる。
このように共同体化した日本企業の在り方を再生産し続けてきたのが様々な管理制度であり、なかでも、終身雇用制度は「イエ」という枠組みを提供するモノとして、またそれをベ−スとした年功賃金はその共同態のなかのメンバ−の「身分」を保障するモノとして重要でした。しかし、その「終身雇用制度」と「年功賃金」に現在「大きな」変革が進行しつつあり、共同態としての日本企業の存立「基盤」・「枠組み」の在り方に「地殻変動」が生じています。しかも、現状では、多くの企業人にとって、企業に代わるべき「共同体」を見いだせないのも「現実」なのです。
我々は、このような現状の中で、今後どのような企業(企業内人生)を構築していくことになるのでしようか。展望をどこに見いだせばよいのしようか。