【書 斎】



2004年09月20日
『島津氏と薩摩藩を語る』

 私の手元に一冊の本があります。「島津歴代略記」の題で表紙は島津氏初代の島津忠久公所要の「赤糸威大鎧甲杏葉付」の複製写真と薩摩藩が幕府の許可を得て建造後、日本国旗の起源となった「日の丸」の旗を掲げて品川沖に回航して幕府に献上した我が国初の洋式軍艦「昌平丸」の図絵で飾られています。先般の帰郷時にアルバムの写真にもある「尚古集成館」の別館で購入しました。

 著者は島津氏32代の現当主で島津顕彰会会長の島津修久氏です。また島津修久氏は鶴嶺神社の宮司でもあり、その境内にある「尚古集成館」も島津顕彰会で管理しているようです。

 この「島津歴代略記」には島津氏初代の島津忠久公について次のように書かれています。
 ***「島津氏正統系図」や旧島津藩の正史といわれる「島津国史」によると、忠久は源頼朝の長庶子。母は比企判官能員の妹丹後の局と伝えられております。
 初め丹後の局は頼朝の寵愛を得たため、その正妻北条政子に疎まれ、潜かに西国に遁れることになりました。途中、摂津国住吉(今の大阪市住吉区)まで来たとき、局は俄かに産気付き、住吉神社の境内で後の忠久を出産しました。時は平安朝も末期。治承三年(1179)十二月晦日も夜の更けた頃のことでした。
 この夜、雨が激しく降って出産の前後を浄め、境内にある末社稲荷神社のお使いといわれる狐が火を灯して局の身を守ったと伝えられ、これが「島津雨」と島津氏の稲荷信仰のはじめとなりました。神社の境内には今は「お誕生石」も遺されております。
 忠久は知らせを受けた頼朝から三郎と名付けられ、近衛摂政基通卿の紹介によって局の嫁いだ京都の公卿。惟宗民部大輔廣言のもとで育てられ、惟宗姓を称えました。
 元暦二年(1185)七歳のとき、初めて父頼朝と鎌倉に対面し、のち元服にあたって畠山次郎重忠からその名の一字を授けられ「忠久」と称しました。
 忠久は頼朝から異例の厚遇を受け、同年(文治元年)かつて太宰太監平季基が開墾した南九州の広大な荘園で、平家の没官領でもあった島津の荘の下司職に、翌二年(1186)には地頭職に任じられて、島津姓と十文字の紋を賜りました。*** 

 ここで島津忠久公に“忠”の名を授けた畠山次郎重忠なる人物は、以前に書いた“河越氏”と同じ「秩父氏」の子孫なのです。この後に島津忠久公は畠山次郎重忠の娘を正妻に迎えておりますから、奇しくも河越氏と島津氏は親戚にもなるわけです。宮崎県の高千穂神社には頼朝の命で参代した畠山次郎重忠が植えたといわれる樹齢約800年の「秩父杉」が今でも聳えていますね。この参代の時に畠山次郎重忠は嫁がせた娘である島津忠久公の正妻のもとを訪れたという記録も残っているようです。

 関が原合戦の後に、島津氏の居城である「鶴丸城」では毎年の正月行事の一つに、家老が主君に向かって「今年はどう致しましょうか?」と尋ねると主君は「今年は止しておこう!」と答えるものがあったそうです。この行事の意味は、家老が「今年は徳川を攻めますか?」と聞いて、主君が「今年は徳川を攻めるのは止しておこう!」と答えることになっている訳です。徳川幕府300年余に毎年ずっと続けて来て・・結局は明治維新の原動力となって倒幕を果たすまで続いたのでしょうか。ちなみに鎌倉幕府以来の大名の中で国替えも無く明治維新まで存続したのは島津氏だけのようです。

 薩摩藩では士族の子弟教育に「郷中制度」なるものがありました。この制度は、徹底した自主教育が特徴で、藩士の家格に上下の差はあっても、この制度の下では全く平等であり、他藩とはこの点が著しく異なっていたようです。

 城下の子弟を居住地域で6つの郷中(ごじゅう、方限―ほうぎり、ともいう)に組織しています。郷中制度は、7,8才〜13,14才を稚児(ちご)、14,15才〜24,25才までの青年を二才(にせ)と呼ぶ2階層から成っていました。

 稚児は、朝6時に、郷中の先生格の家に駆けつけ文字を習います。8時には、二才達の指揮の下で駆けくらべ、旗とり、相撲などで体を鍛える。午後2時より、歴史・地理など色々な学問を学び、4時になると、武道、特に薩摩独自の剣法、示現流の基本を教わったようです。

 14〜15才で元服式をすませると二才となり、藩主にお目見えして俸禄(年4石)をもらうようになるそうです。朝8時から正午まで、藩校「造士館」で儒教を中心とした学問を学びます。入学試験もなければ卒業証書もくれない。(笑)

 午後は、家の手伝いと読書をします。4時から造士館の隣りの武術道場に行って示現流の武術の鍛錬をし、稚児の指導も行いました。夜は、各家輪番で座元を決めて、「三国志」・「漢楚軍談」などを輪講し、その内容について徹底的な討論をやったようです。

 海江田信義は、当時を回想してこう言っています。

「たとえば『近思録』をひろげ、区切りのよいところまで読む。そして、本をたたんで床にのせ、これをたたき台にして議論する。そうしないと、本当の学問にはならないのだ。」

 17〜18才になると、本人の得意とする技能に応じて、役目を授け手当を与える制度となっていたようです。書の得意な者は書役、武術の上手な者は、練武館の助教、これはという芸のない者は茶道方にした。西郷は能筆であったから書役に採用されたそうです。

 このような郷中教育は、心身の鍛錬のみならず、長幼の序を植え付け、負けじ魂を養い、連帯意識を形成するのにすこぶる有効であったようです。西郷隆盛も、20才で下加治屋町郷中(方限)の二才頭(にせがしら)に選ばれています。

 郷中では、「うそを言うな」、「負けるな」、「弱い者をいじめるな」の3原則があったといわれています。郷中制度のような優れた組織には、優良企業にすばらしい経営理念があるように、すぐれた教育理念があったのでしょうね。それが上記の3原則を包括した、島津日新公「いろは歌」であるといわれています。「いろは歌」は、稚児の頃から全員合唱して暗誦させられ、薩摩武士の魂の奥底まで深くしみこんだものとなっていたようです。

 日新公・島津忠良は、明応1(1492)年、コロンブスがアメリカ大陸に到達した同じ年に、島津氏の一族伊作家に生まれました。21才で同じ島津氏の相州家を継ぎ、伊作・相州の両家を合体して、田布施・亀丸城に移ったようです。35才の時、長男・貴久(13才)を薩摩藩15代藩主の位につかせています。49歳の時、加世田に居城を構え、永禄11(1568)年、77才で没したようです。この年は信長が京に上洛しています。日新公は文武、神、儒、仏三教をきわめ、善政をひいて島津家中興の祖と仰がれ、「薩摩の聖君」とも呼ばれる名君です。
中でも「いろは歌」は天文8年から14年ごろの作で、藩政時代から薩摩武士、士道教化、師弟教育の教典となっています。今の時代にも通じる多くの教えを含んでおります。

 16代義久、17代義弘は日新公の孫であって、祖父の薫陶を受けました。17代義弘は「朝鮮出兵」に抜群の軍功を挙げましたが、後に紀州高野山に敵味方の区別無く戦歿者のために供養塔を建て、その博愛慈悲の心厚きことは今に広く海外にまで讃えられているそうです。更に、義弘は慶長5年(1600)関が原合戦には西軍に属して徳川家康本陣の正面を突っ切って島津豊久等多くの将兵を失いながらも伊井直政などの多くの武将に負傷を与え戦場を逃れた「島津の退き口」と呼ばれる薩摩武士の勇猛を天下に示しています。

 それでは、日新公(じつしんこう)「いろは歌」の全文を、現代語訳とともに紹介します。

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[] いにしえの道を聞きても唱えても 我が行(おこない)にせずばかひなし

 昔の賢者の立派な教えや学問も口に唱えるだけで、実行しなければ役に立たない。実践実行こそもっとも大事である。この歌は薩摩藩教学の金科玉条となったもので、47の代表名歌であると言われています。


[] 楼(ろう)の上もはにふの小屋も住む人の 心にこそはたかきいやしき

 大きなお城に住む身分の高い人、金持ちでも心が卑しかったら尊敬できない。貧しく小屋に住む人でも、心が清く正しく高尚であれば真に仰ぐべき人である。結局、その人の心のあり方によって人としての価値が決まるのである。


[] はかなくもあすの命を頼むかな 今日も今日もと学びをばせで

 今日は用事があるといって明日にのばし、明日はまた明日があるからと次に延ばし、一向に勉強せずに日々を送るのは心得違いである。毎日たゆまず勉強せよ。


[] 似たるこそ友としよければ交らば われにます人おとなしきひと

 友を選ぶ時は、自分と似ている者を選びがちであるが、自分をより向上させるためには、自分より優秀な見識を持つ人を友とせよ。


[] 佛神他にましまざず人よりも こころに恥ぢよ天地よく知る

 神仏はほかならぬ自分自身の心に住むものである。他人のことを気にするよりも自分の良心に恥じよ。天地神仏は全てのことを見通しているのだ。


[] 下手ぞとて我とゆるすな稽古だに つもらばちりもやまとことのは

 自分がいろんなことに下手だと卑下して努力を怠ってはいけない。稽古さえ積めば少しづつ進歩して、遂には上手になれる。ちりも積もれば山となるとのたとえもあるではないか。


[] とが(科)ありて人を斬るとも軽くすな 活かす刀もただ一つなり

 科(罪)のないものをもちろん切ってはならないが、たとえ罪があってその人を死刑を行うにあたっても、軽々しくこれを行ってはならない。活かすも殺すもただ主君の心一つで決まるものであるから。


[] 智恵能は身につきぬれど荷にならず 人は重んじはづるものなり

 知恵や芸能は身につけても荷にも、邪魔になるようなものでもない。多くのものをならって上手になるべきである。世の中の人はその人を見て尊敬し、かつ己の及ばないことを恥じるであろう。


[] 理も法も立たぬ世ぞとてひきやすき 心の駒の行くにまかすな

 道理が通らず法も行われない乱世であっても、自分ひとりは正道をふんで克己心を奮い起こして正義と人道を守り通せ。自分の心の向くままに自暴自棄にならないように注意しなければならない。


[] 盗人はよそより入ると思ふかや 耳目の門に戸ざしよくせよ

 盗人は他所から入ってくると思っているかもしれないが、本当の意味での盗人は耳や目から入ってくるものだ。目や耳によく戸締りをせよ。ここから色々な悪いものが忍びこんできて、心を奪い身を滅ぼすのだ。


[] 流(る)通すと貴人や君が物語り はじめて聞ける顔もちぞよき

 たとえ自分がよく知っていることでも目上の人の話は、初めて聞くという顔で聞くのがいい。決してその話は知っていることを言葉に出したり、顔に出したりするな。


[] 小車(をぐるま)のわが悪業にひかれてや つとむる道をうしと見るらん

 人はおのおのその職分を守って人は人たる道を尽くして行くのであるから忠実にまじめにその業に務めるべきである。にもかかわらず、これをつらいことと考えるのは、わがままの情欲にひかれている証拠である。


[] 私を捨てて君にしむかわねば うらみも起こり述懐もあり

 主君に仕えるには全く一身をささげて我を捨てなければ、恨みも起こり不平不満もでる。自分の一身をささげて主君に仕えよ。昔の武士が馬前に命を落とし殉死したのはこの考え方に従ったものである。


[] 学問はあしたの潮のひるまにも なみのよるこそなほ静かなれ

 学問をするには朝も昼も間断なく修めなければならないが、静かな夜が一番いい。


[] 善きあしき人の上にて身を磨け 友はかがみとなるものぞかし

 人は自分の行いの良し悪しを知ることは難しいが、他人の行いの善悪はすぐに目に付く。日ごろ交わる友人を見て良いことはこれを見習い、悪いことは反省せよ。


[] 種子となる心の水にまかせずば 道より外に名も流れまじ

 私利私欲にかられて世の中の事を行えば、道に外れて悪い評判もたつ。この悪の種を刈り取って、仏の教えに従って正道を行え。


[] 礼するは人にするかは人をまた さぐるは人を下ぐるものかは

 礼を人に尽くすことは人に尽くすことの他に、自分を正しくして己を敬うことである。どんな人に対しても謙遜な態度で接せよ。


[] そしるにも二つあるべし大方は 主人のためになるものと知れ

 臣下が主人の悪口を言うのには二通りある。主人を思うあまり言う悪口と自分の利害から来る悪口である。主人たるものは寛大な心で受け入れ、自分の反省の資とすべきである。


[] つらしとて恨みかへすな我れ人に 報い報いてはてしなき世ぞ

 相手から仕掛けられたことがどんなにつらくても相手を恨みを返してはならない。次から次へと恨みが続いて行きよくないことである。恨みには徳を持って対処すべきである。


[] 願はずば隔てもあらじ偽りの 世に誠ある伊勢の神垣 

 偽りの多い世の中、伊勢の皇太神宮は偽りのない神である。正しいものは正しく、曲がったものは曲がったようになさる。願う側が心の内に無理な願いを思い起こさねば分け隔てなく願いを適えてくださるのだ。


[] 名を今に残し置(おき)ける人も人 こころも心何かおとらん

 後の世に名をのこした名誉ある人も、人であって我々となんら違いはない。心も同じであるから我々とて及ばないということはない。勇気を出して奮起して頑張ることが必要である。


[] 楽も苦も時過ぎぬれば跡もなし 世に残る名をただ思ふべし

 楽しいことも苦しいことも永久的なことではなく、そのときが過ぎれば跡形もない。その困難に耐えて自分の節を曲げず、世の為国のために一身を粉にして尽くすべきである。ただ後世に名声を残すことを心がけよ。


[] 昔より道ならずして驕る身の 天のせめにしあはざるはなし

 昔から道に外れておごり高ぶった者で天罰を受けなかったものはない。人は正道をふんでおごりを遠ざけ、神を敬い教えを守っていきなさい。


[] 憂かりける今の身こそはさきの世と おもえば今ぞ後の世ならん

 いやなことの多い現世は前世の報いの結果である。現世の行の報いは後の世の姿である。現世の行いを大切にしなさい。


[] 亥に臥して寅には起くと夕露の 身を徒(いたづら)にあらせじがため

 亥(午後10時)に寝て、寅(午前4時)に起きると昔の本に書いてある。朝早く起きて夜遅く休むのも、それぞれの勤めを果たすためである。無用な夜遊びをして露のような自分の身を誤るようなことがあってはならない。


[] 遁(のが)るまじ所をかねて思ひきれ 時にいたりてすずしかるべし

 人にはどうしても命をかけなければならないときがやってくる。日ごろから覚悟を決めておけば、万一の場合にも少しの未練もなく気持ちが清らかであろう。


[] おもほえず違(たが)うものなり身の上の 欲をはなれて義を守れ人

 どんなに慎重にしても、おもわず道からはずれてしまうものである。私たちは私利私欲の闇に迷い込みやすいから用心して心を磨きなさい。


[] 苦しくと直(すぐ)道を行け九曲折(つづらおり)の 末は鞍馬のさかさまの世ぞ

 どんなに苦しくても、悪事を行ってはいけない。正道をいきなさい。鞍馬のつづら折の道のように曲がった道を歩んだものは、まっさかさまに闇の世界に落ち込むような目にあうものである。心正しい正道を歩みなさい。


[] やはらぐと怒るをいはば弓と筆 鳥と二つの翼とを知れ

 和らぐと怒るをたとえれば、文と武である。これらは鳥に二つの翼があるように自由に飛ぶために必要な二つの要素である。どちらか欠いても役に立たない。宜しく使い分けて政治を行うべきである。


[] 万能も一心とあり事(つか)ふるに 身ばし頼むな思案堪忍

 ことわざに「万能一心」というのがある。いかに万能に達するとも一心が正しくなければ役にたたない。人に仕えるためには、自分の才能にたのんで自慢めいた言動をしてはならない。良く思案して堪忍しなければ身を滅ぼすことになろう。


[] 賢不肖用ゐ捨るつといふ人も 必(かならず)ならば殊勝なるべし

 賢者を登用し、愚か者を遠ざけて政治を行えば、口に唱える人もその言葉どおり実行できるならば誠に素晴らしいことである。実行はなかなか難しい。


[] 不勢とて敵を悔(あなどる)ことなかれ 多勢を見ても恐るべからず

 少人数だからといってあなどってはいけない。また大勢だからといって恐れるに足りない。敵の強弱は人数ではない。味方は少人数でも一致団結すれば大敵を破ることができる。


[] 心こそ軍(いくさ)する身の命なれ そろふれば生き揃はねば死す

 戦いにおける教訓。衆心一致すれば勝ち、一致しなければ敗れる。


[] 廻向(えこう)には我と人とを隔つなよ 看経(かんきん)はよししてもせずとも

 死者を弔って極楽往生を祈るには敵味方分け隔てなく、等しく祈りなさい。読経するもよし、しなくてもよいのである。日新公は敵味方の供養搭を建て冥福を祈られた。


[] 敵となる人こそ己(おの)が師匠ぞと 思ひかえして身をも嗜(たしな)め

 敵となる人はもともと憎むべきものであるが、考えてみれば反面教師のようなものである。
すなわち手本ともなるものである。敵にも慈悲の心を忘れずに、自重自戒せよ。


[] あきらけき目も呉竹(くれたけ)のこの世より 迷はばいかに後のやみじは

 光あふれる世界である現世でさえ迷っているのに、死後の闇の世界ではますます迷うだろう。早く仏道を修めて悟りを開け。


[] 酒も水ながれも酒となるぞかし ただ情あれ君が言の葉

 酒を与えても水のように思う者や、少しの酒で奮い立つ例もある。要は与え方の問題である。人の上にたつ者は思いやり深く、情け深くあれという歴代藩主の教訓。


[] 聞くことも又見ることもこころがら みな迷いなりみなさとりなり

 同じ事を聞き、同じものを見ても、何も感じない人もいれば、何かをつかむ人もいる。心の目をしっかり開いて物事を受けとめなさい。


[] 弓を得て 失ふことも大将の こころひとつの手をばはなれず

 弓矢の道に優れて、士卒に信服され、戦に勝も負けるもただ大将の心の配り方ひとつにかかるものである。


[] めぐりては我身にこそはつかへけれ 先祖のまつり忠孝の道

 先祖を良く祭るものは、死後においては子孫が良く祭ってくれる。君父に忠孝なれば、子孫もまた忠孝を尽くす。世の中は回りまわるのであり自分に帰ってくるから先祖の祭りや忠孝にはげむべきである。


[] 道にただ身をば捨てんと思ひとれ 必ず天の助けあるべし

 正しい道であれば一身を捨てて突き進め、そうすればかならず天の助けがあるはずである。


[] 舌だにも歯のこはきをばしるものを 人は心のなからましやは

 舌でさえその触れる歯の硬いことを知っている。まして人においてはなおさらなことである。交わる相手の心の中を察しなくてはならない。


[] ゑ(酔)へる世をさましもやらで盃に 無明の酒をかさぬるはうし

 この迷いの世の中、その上に杯を重ねて酔いしれ、迷いの上に迷いを重ねて歩くのは情けないことである。


[] ひとり身をあはれとおもへ物ごとに 民にはゆるす心あるべし

 たよる者がない老人、孤児、寡婦に対しては情けをかけて一層いたわれ。人民に対しては仁慈の心で寛大に接しなさい。


[] もろもろの国やところの政道は 人にまづよく教へならはせ

 治める国や村の掟は、まず人民に良く教え、さとした上で政治を行え。教えないで法を犯したものを罰するのは不仁の仕方である。よくよく知らせて刑に落ちないように気をつけよ。


[] 善に移りあやまれるをば改めよ 義不義は生れつかぬものなり

 善にうつり、過ちは改めよ。元来、義不義は生まれつきのものではない。心のありようで義にも不義にもなる。悪いと気づいたらすぐに改めよ。


[] 少しきを足れりとも知れ満ちぬれば 月もほどなく十六夜の空

 なにごとも10の内7か8をもってよしとせよ。満月の次の夜の十六夜の月は欠け始める。足るを知って楽しむ心が大事である。

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 郷中教育からは、西郷のみならず、大久保利通・五代友厚・寺島宗則・松方正義・森有礼・東郷平八郎・大山巌・山本権兵衛・牧野伸顕などキラ星のごとく逸材が輩出し近代日本の礎を築いたといわれています。

 狭い一地域からこれだけの人物を創出した郷中制度は日本の奇跡といっていいだろうともいわれます。1863年の薩英戦争で薩摩の強さに驚嘆した大英帝国は、薩摩の教育制度を徹底的に調査したらしいですね。その調査資料をもとにイギリスのベーデン・パウエル卿は今日世界中に普及している「ボーイスカウト」を創始したとのこと。

 日本に逆輸入されたボーイスカウトの初代総裁は後藤新平で、晩年は特に熱心に運動を推進したようです。後藤は昭和4(1929)年没しましたが、次のような生前の最後の言葉を残しています。

 「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ。


    
2004年06月30日
『日本に吹く北欧の風とは♪』(Carlsberg)

 「Carlsberg = “息子の名前”と“小高い丘”」これを見ただけで何のことかが解かる人がいたら・・・その人は外国のビールか北欧に関してかなりの“通”であると思います。(笑)

 7月に入って盛夏を迎える北欧は午後10時を過ぎても空には太陽がまだ残っていてうすぼんやりとした明るさがずっと続きます。太陽が遠ざかっていくかのように、光りはゆっくりと時間をかけて弱まりますが、真夜中になっても完全に暗くはなりません。そうこれは皆さんもご存知のように「白夜」と呼ばれる現象ですね。
この時期の北欧では通りに面した飲食店は路上に席を設け、人々は時間を気にかけることなく食事と対話を楽しむようです。

 北欧のデンマークでは「沈まない太陽」と「気心の知れた仲間」と「Carlsberg(カールスバーグ)」で乾杯をする。つまり食事と仲間とよく冷えたビールが揃った状況をデンマーク語で「hygge」と呼ぶのだそうです。喉の奥で「フュゲ」と発音し、幸福な時間や温かい言葉が交わされる食事の時間や、仕事の仲間と飲む楽しくて充実した時間を一言で表す言葉だとか。

 「Carlsberg(カールスバーグ)」は約160年前の1847年にデンマークのコペンハーゲン郊外の小高い丘でヤコブ・クリスチャン・ヤコブセンの手によって誕生したビールの名前です。息子の名前の「カール」と“小高い丘”を意味する「バーグ」を合体させて「カールスバーグ」と命名したのだそうです。(笑)

 1875年に設立した「カールスバーグ研究所」からは、1883年に世界で始めて酵母の一つの細胞だけを分離することに成功したハンセン博士による“酵母の純粋培養技術”が生まれている。ちなみに“ビールの三大発明”と呼ばれている技術の一つめは「独のリンデが発明した冷却機」、二つめに「仏のパスツールによる低温加熱殺菌法」、三つめがこのハンセン博士の酵母の純粋培養技術だそうです。

 1904年にはカールスバーグがデンマーク王室御用達ビールに認定される快挙を達成し、「カールスバーグ財団」は今もデンマークの美術館や旧跡の維持・修復をサポートしている。一方、カールスバーグビールは世界140カ国以上へ輸出、40カ国に生産拠点を持つまでに成長。日本でもお馴染みのビールとして私たちの喉を潤してくれている訳で・・・どこかお店でカールスバーグビールに出会えたら・・・デンマークの小高い丘の爽やかな風を感じられるかもしれませんね。
 
                       
2004年05月26日
『今こそ語ろう・・・忘れぬうちに♪』(第一ラウンド)

 そう私がまた禁煙してみようかと思ったのは、忘れもしない平成15年8月18日の朝でした。その日の朝は、昨日煙草を急いて吸ったせいか肺の辺りに微かに痛みを感じたのです。過去に何度も経験していたのでそのまま暫く煙草を吸わないでいれば治まる痛みだと思いました。
 それで暫く時間が経ってからふと頭に浮かんだのは「このまま煙草をずっと吸わないようにして、上手く行ったら禁煙してみようか」との想いだったのです。

 それから3日〜4日後のことでした。想像した程の禁断症状もなく禁煙は続いていました。それまでの私はパソコンは好きなのでいろいろと部品を購入して一台組み立てたり、表計算ソフトで様々な計算をしてみたりとそれなりに使いこなしてはいたのだが、インターネットの特に"掲示板"というものはたまにしか触ったことがなかったのです。"掲示板"の何たるかを知らずに来たので何が面白いのかも解らなかったのですね。(笑)
 ところがある日、禁煙をテーマにしたHPを検索してみようと思い立ってやってみると「続・禁煙のススメ」というHPがあったので覗いてみたらなかなか面白そうな内容でしかも「禁煙宣言帳」には自分と同じような多勢の禁煙者が書込をしていて読んでみると共感を覚えるものばかりなのでいつの間にか夢中になって読んでおりましたね。(笑)

 他人の書込を読んでばかりでは徐々に物足りなくなって、自分でも参加して意見を言いたくなってきますよね。(笑)恐る恐る思い切って最初の書込をしてみました・・・何とも嬉しい爽快な気分でしたね。その時の書込が未だに「禁煙宣言帳」には残っているので・・・驚きです。
 掲示板に書込む為にはHN(ハンドルネーム)が必要になる訳ですが、それまでほとんど掲示板に投稿することなど無かったのでどのようなHNにしようかと思案した結果、思い浮かんだのが"世界遺産に指定された屋久島とその象徴である縄文杉"でした。「樹齢7000年にもなる木が日本にもあるなんてなんと凄いことか、これなら世界にも胸を張って堂々と誇れるではないか・・・」との想いが頭の中をぐるぐると巡っておりましたよ。日本が世界に誇れる"縄文杉"・・・そうだこれしかないHNにするなら"縄文杉"しかないという訳で私の初HNが誕生した瞬間でした。(爆)

 丁度禁煙開始から一週間経過した頃、過去の禁煙の経験を書き込んだことに対する質問の形で最初に声を掛けて下さる方が現れました。その方は"メバルさん"でした。この事はとても嬉しかったので良く覚えています。(笑)メバルさんをご存知の方は多いと思いますが、この日以来、私にとってメバルさんは大切な友人の一人なのですね。メバルさんの書込はいつ読んでも義理も人情も良くわきまえて温もりのある素晴らしいもので深く感銘を受けています。お人柄だと思いますが、自然に出て来るものですね。ですので私の方も自然に敬意を払いたくなるのです。

 この頃まではずっと「禁煙宣言帳」だけに書込をしておりました。「Suedonの談話室」の方も気にはなっていたのですが、なかなか入って行くことが出来ずに過ごしておりました。(笑)
 禁煙開始から二週間目に書込をしたところ、"私も8月18日に禁煙を始めました"と声を掛けて下さる人が出て来られました。何とその方は"ななママさん"だったのです。同月同日に禁煙を始めた方が現れて俄然やる気も出て来ました。(笑)私は、ななママさんのことを"禁煙の相方(あいかた)"と言っておりましたが、"伴走者(はんそうしゃ)"とも言うようですね。ななママさんの出現から間もなくしてようやく「Suedonの談話室」にも入って行けるようになりました。そこでは今までに見たことのないような華やかで美しいものに出会うことになります。

 「Suedonの談話室」それはまるで夢のような世界でしたね。(笑)凸ぽんさんをリーダーにした形でななママさんとじんさんにくまちゃんやマキさん達に出会うことになる訳ですね。そしてついにあの華やかで美しい"レインボー(グラデーション文字)"にも出会った訳です。今でもやりますけどね、禁煙を開始して1ヶ月毎に巡って来る記念日には皆でレインボーを書き込んでお祝いするのですが・・・あの当時のレインボーの多さと華麗さは語り草になっておりますね。お祝いを受けた人はまたそれはそれは嬉しいもので本当に感激します。その当時の役どころの設定は「レインボー会社」があってその社長が"凸ぽん社長"であり、期待の社員が"ななママ"さんでした。それで私はその当時人気のあったテレビドラマ「相棒」から水谷豊の役は私で寺脇康文の役をじんさんに見立てて勝手に特命係を名乗っておりましたね。同じ目的を目指して皆と語り合い励まし合い新しい人をサポートしたり・・・時には白熱の議論もあって面白かった。

 ところが夢のような日々が続いていたある日、突然の不幸が立て続けに襲って来たのです!!最初の不幸は皆さんもご存知だと思うが、リーダー格の凸ぽんさんの書込がピタッ!と止まってしまったのです!そう凸ぽんさんのお母様の病気による入院があって凸ぽんさんが看病しなければならなくなったのでした。そのことと前後して禁煙期間2ヶ月目を目前にしていたななママさんが"一本お化け"の襲撃を受けて敢え無く脱落したのです。大変なショックでした。一瞬目の前が真っ暗になりましたものねえ。辛い!!それでも何とか立ち直ろうと懸命に気力を振り絞っていた矢先に・・・決定的な不幸が容赦なく襲いかかって来たのです。

 決定的な不幸は「Suedonの談話室」から突然降って湧いたように起きた"レインボー反対論"の出現とある古い常連で超有名な"Tさん"の発作的な大暴走書込も発生して「Suedonの談話室」が一時的な閉鎖に追い込まれたばかりでなく、ついにはレインボーを書き込めない掲示板に換わってしまったのでした。現在では「Suedonの談話室」もレインボーの書き込み可能の掲示板に戻ったようですが以前のような華やかなレインボーは見られませんね。

 この時以来、ななママさんの書込もピタッ!と止まってしまいました。悔しいけどどうすることも出来ずに時間だけが経って行きました。正直言って途方に暮れましたね。どうすれば良いのかもう分からなくなってじんさんが使っていた古い掲示板で会いたくても会えない凸ぽんさんとななママさんに向かって愚痴を書いてしまう羽目になっちゃったのでした・・・今思い出しても寂しい・・・砂を噛むような日々でしたねえ・・・。
 そのような状況の中でじんさんが声を掛けてくれて何人かのHPを紹介してくれたので、止むを得ずしてその中の1つのHPに入らせていただいた次第・・・。

 ・・・と私の心の中ではここまでが"第一ラウンド"の印象なのですね。もちろん現在は"第二ラウンド"での幸せな日々を満喫しておりますが・・・嘗てはこのような激動の日々もあったのです。ヾ(´^`ヾ))) ウルウル
 時期的には昨年の10月〜11月頃だったと記憶しておりますが・・・ということでここで"第一ラウンド"は完結とします。
 "第二ラウンド"についてはまた時期を見て書いてみたいと思いますので宜しくお願いします。(笑)

            
2004年05月25日
『人間って面白い・・・』

 人間っつうのはなかなか面白いものですね。自分自身を見ていてそう思います。(笑)
昨日までは所謂HP作りの最新技術であるFlash(フラッシュ)を追って追って追い掛け回している自分が確かにおりまして孤軍奮闘していたのです。(爆)
 錦の御旗(古過ぎて分からないって・・・もう!歴史で習ったよね〜)の如くFlash(フラッシュ)を前面に押し立てて突き進んでいたのです・・・がむしゃらに猪突猛進でした・・・。

 ところが今日になってふと我に返って気付いたのです。
「Flash(フラッシュ)って動きが速くて面白くてカッケー!!と思っていたけど自分とこのHPにはどうしても雰囲気が合わない!!何故じゃ!!どうしてじゃ!!」と堂々巡りを繰り返したあげくの果てに・・・「そうか!“縄文杉の森”にはもう少しクラシカルな雰囲気でないと合わないのだ!!」という想いに到達してようやく納得がいった次第・・・。

 そこで杉村陽一郎氏が描いたヨーロッパの歴史的建物の水彩画に「額縁」を付けて表示してみたところ何と!絵の位置といい、雰囲気といい・・・ほぼ何から何までピッタリと収まったではありませんか!!やっぱり“縄文杉の森”にはこれですよという訳で「地球」の写真も元に戻しました。そう地球を大切に思って大自然と歴史的建造物に畏敬の念を持って接することこそ「禁煙」を機会に皆さんと一緒に立ち上げた(私はそう信じています)このHPの“永遠のテーマ”であることを再確認した次第・・・人間って面白いよなあ。(爆)

                                             
2004年05月15日
『関東と申しましても・・・』

 皆さんもご存知だと思いますが、muraさんの住んでおられる埼玉県川越市の“川越(かわごえ)”という地名の由来は、平安京の創設者である桓武天皇の第三皇子葛原親王の孫高望王が臣籍降下によって平姓を賜り上総の介(国司)として坂東に赴任したことにより、その子孫は関東の有力豪族に発展していくことになります。これら有力豪族の一つであった“秩父氏(ちちぶし)”の子孫で川越市近辺の“荘園”と“武蔵国留守所惣検校職”を受け継いだのが、鎌倉幕府の御家人として歴史に登場する“河越氏(かわごえし)”で、そこから来ているのだそうです。他にも秩父氏の子孫で地名に残っているのは“江戸氏(えどし)”・“豊島氏(としまし)”・“渋谷氏(しぶやし)”等が有名です。

 河越氏の居住跡は「河越氏の館跡」という史跡として保存されておりますね。河越氏が歴史の表舞台に登場するのは前にも述べたように源頼朝に従った鎌倉幕府の御家人として「吾妻鏡<あずまかがみ:鎌倉幕府の事績を記した編年体の史書。五二巻。鎌倉幕府の編纂になるといわれる。1180年(治承4)から1266年(文永3)までを収める。>」に登場します。河越氏の当主は「河越重頼(かわごえしげより)」で源頼朝の乳母であった「比企の尼」の娘を妻にしています。
その関係からか源頼朝の命によって娘を「源義経」の正室に嫁がせています。源義経と言えば「静御前」が有名ですが、静御前は正室ではなかったのですね。源義経が奥州平泉で藤原泰衡に攻められて亡くなる時には正室と産まれていた子供も一緒に最後を伴にしたそうです。その後、河越重頼と長男の重房は源義経の縁戚とのことで誅せられ領地も没収されますが、さすがに源頼朝も良心が咎めたと見えてまもなく一部を除いた領地の大部分を河越重頼の妻に返還したそうな。(笑)

 現在も川越市には寛元(1244年)河越重頼の曾孫にあたる経重が開基となり、大阿闍梨円慶法師が開いた寺である「養寿院」とその中に河越重頼の墓が保存されて残っており、源義経の位牌とその正室となって最後を伴にした娘の位牌も河越重頼の位牌とともに保存されています。私自身もこの「養寿院」と「河越氏の館跡」はどちらも訪れたことがあります。

 余談になりますが河越重頼の“重”は秩父氏の子孫の男子(特に長男)の名前に代々つけるように決まっているようです。また河越氏と同様に秩父氏の子孫で江戸近辺の荘園を受け継いだ「江戸重継(えどしげつぐ)」は武蔵野開拓の祖神・江戸の郷の守護神として山王宮を祀り、さらに文明十年(1478)太田道灌が江戸の地を相して築城するにあたり、鎮護の神として川越山王社を勧請し、やがて天正十八年(1590)徳川家康が江戸に移封され、江戸城を居城とするに至って「城内鎮守の社」・「徳川歴朝の産神」として、又江戸市民からは「江戸郷の総氏神」「江戸の産神」として崇敬されたようです。
 二代秀忠の時の江戸城大改造の際、城内紅葉山より新たに社地を江戸城外に定め、社殿を新築して遷祀させたのが現在の赤坂にある日枝山王神社です。このホームページの【アルバム】の初めの頃の写真に私が毎年初詣に参拝してお神酒と破魔矢(鏑矢)をいただいてくる神社として紹介しています。(笑)

                                            
2004年05月13日
『はしがき』

 以前に開示しておりました【News Eye】に換えて本日より、身の程知らずも甚だしく趣味として自筆の文章を書いてみたくなりましてスタートすることに致しましたので何卒よろしくお願い申し上げます。

 ここの部屋は【書 斎】と題しておりますので、綴る文章も独り言のような日記にも近いような中途半端なものになるかもしれません。あらかじめご承知おき下さるようお願い致します。

                                                  


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