ありゃー?こんなところにこんな人が!!
土佐の高知には思わぬ人が住み着きその地で死にひっそりと墓が残っちゅーがやき
なにぶん こじゃんと昔のことで単純に伝説に過ぎんかも知れんきね責任は持てんきね。
弓削道鏡の弟 猿丸太夫の墓 佐川町牧野公園南 猿丸山(佐川町指定文化財) |
耳なし地蔵(越知町横倉神社北東) 耳なし地蔵 城了翁 明治時代の小泉八雲の書いた 耳なし芳一よりも昔江戸時代から越知町横倉山に伝わる話 |
上の耳なし地蔵の由来(横倉山自然博物館の中にも資料がある) |
土佐は八丈島と並び島流しの国・高倉天皇の妃じゃった御室御前・後に別名 鶴姫を ↓ 島流しにしたのは平氏の清盛、その報いか平家は滅亡後土佐に逃げ込むはめに陥った |
場所は香我美町山北のここ |
平清盛は平安時代の末期1167年に太政大臣となり娘の徳子を高倉天皇の后(きさき)としたけんど 平家の時代はわずか30年、源氏に破れ追われた落人は最後は越知町の横倉山に落ち着いたと。 |
平家の家系図じゃけんど赤のアンダーラインが高知に逃げ込み 暮らし 死んだ と思われる、壇ノ浦で入水した?とされちゅーけんどあちこち証拠が残っちゅー ↓ |
81代 安徳天皇御陵墓 高倉天皇と平清盛の娘徳子との間に生まれ3歳で祖父清盛の意により即位した 安徳天皇、源平合戦で源氏に敗れ、壇ノ浦で入水とされちゅーけんど 四国山地を 2年間300人の平家の落人とさ迷い最後に越知町横倉山に落ち着いて23歳の時 病死をしたと、高知県で唯一宮内庁の管轄地になっちゅーがやき |
平知盛 平清盛の4男じゃけんど清盛亡き後 事実上の創師として一門を 率いたと、入水したとなっちゅーけんど、越知町楠神の部落に子孫が居る ↓ |
平清盛の七男 平清房 横倉山 杉原神社への階段の登り口にある ↓ |
平清盛の弟 平経盛 越知町楠神の部落にあった ↓ |
平有盛 小松少将有盛と呼ばれよった 横倉山北側中腹にあった。 ↓ |
源頼朝の弟 希義(まれよし)義経の異母兄弟 平治の乱(1159で敗けた源義朝の子頼朝(13)は伊豆へ、牛若(1)は鞍馬へ希義は土佐の 介良へ流されたと ほんで23歳になった時源平合戦に加勢しようとして殺されたと この家系図を見たら源氏の祖先は清和天皇じゃったがじゃね。 ↓ |
源希義の墓 高知市介良にある 三歳の時兄頼朝と別れた希義はそれから一度も兄に会うことなく死んだと ほんで 平成7年お互いの墓の石と土を交換させて836年振りに兄弟を再会させたと! ↓ |
武田勝頼(武田信玄の四男)の墓 仁淀川町大崎小正門前 正室は織田信長の養女で戦国の世に 大崎に落ち延びてきて、 名を「大崎玄蕃」と 名乗る、夏祭り(玄蕃踊り)は、玄蕃祭りとして400年もの間行われ続けた。 |
播州皿屋敷 お菊 西土佐村の黒尊川 奥屋内下に お菊観音菩薩像お菊の滝の前で ほら!ちゃんとお皿を抱いちゅー 菊姫之命と書いちゃーるぜよ ↓ |
播州皿屋敷の由来記の説明は 320年前 やっぱり侍女のお菊が家宝の皿を割って 責任を感じ滝に身を投げて自害した 番町皿屋敷の芝居のモデルらしいぜよ ↓ |
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伊達政宗の実子 伊達兵部宗勝の墓 独眼流正宗で有名な仙台藩主伊達政宗の実子宗勝の墓が 高知市五台山の登り口から100メートル位登った所に案内板がある |
学問の神様菅原道真の実子 高視公 高知市天神町の天満宮の中にひっそりとある 菅原高視公の碑 ↓ |
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