アヒルのホームページ

トップページヘもどる

私の仕事

父親の戦後の仕事

食べていくためには何でもありのようでした話によると倉庫の夜警もしていたそうです、暫く京都で背広の修行を積んでやがて大阪に所帯を構えることに成り最初は洋服の仕立ての下請けを始めていた、
 戦後の焼け跡で何も無い福島の地に中古の弐階建てにて仕事と生活が始まる、この頃からお手伝いすることは当時当たり前であった、夜遅くまで働き12時に締まる向かいに有った風呂屋に間に合うまで仕事であった、勿論夜通しも仕事が当たり前であった、今では考えられない事だ、その為か継母は胸を病み36歳で他界しました、
やがて 色々の仕事が有り洋服以外のミシン仕事が増え其のうち洋服はせずに袋物の縫製が主体となる、作れば売れるとゆう時代でも仕事の時間は24時間しかない、体だけの勝負は限界がある、やはり、少しでも頭を使って稼ぐことと、つくづく思った。
噛「山商店昭和50年頃

当時 高周波ウエルダー(塩化ビニール素材)が出来早速導入ビニール財布に始まり、
ボタン屋さんにマンボ帯なるネックレス様な物がよく売れた、その後ダッコちゃんブームが来て
目の動かないコピー商品を作りこれもよく売れた、寝る暇なしの状態であった、しかし よい事
ばかりは続かないのが商売、売掛金の未払や不渡り手形に随分泣かされた、とりわけ昭和49年にエベレストジャー(ナショナルマホービン)の倒産には参った、(昭和41年にすでに父は他界し私は29歳時)年商の三分の一程度の負債を負うことに成った当時新築三軒分程の負債である、しかし捨てる神あれば拾う神ありで、銀行はじめお得意様より心強い応援をいただき、必死で働いたパンをかじり乍ら夜通し走る日が何日も続くこともあったお陰様で10年少しで返済する事が出来た、しかしそれまで何軒かの仕入れ先は我社より離れた、今その会社は不思議と有りません、
会社の継続は大変難しいです、仕事がなければ続きません、社員がいなければ続きません、
ましてや後継者がいなければねえ 人の繋がりが如何なっていくか運と縁と努力 どれが欠けても成就出来ない見たい 置かれた場所で咲きなさい 自分の器の中で精一杯咲けば其れで良し。

syainryokou
昭和35年頃会社創業当時

静子事務

栄一事務所

昭和50年頃社員旅行

我が社で作ったダッコちゃん
完成品の空気漏れのテスト中

大阪のバッグ製造メーカー圓山商店