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1937年(昭和12年)11月7日父三郎母勝子の長男として大阪市西区江戸堀下通り3丁目22(新江戸堀3丁目92)にて誕生、
後 妹 智恵子(17年2月)誕生
(父母昭和12年5月14日婚姻)

両親の仕事は 悉皆や(洗い張り)着物のクリーニング業で屋号は(はかまや)で当時
店主は山本なにがしで、母親の実家(大阪市西区立売堀通り2−31)が(父山門伊三郎 母かす)が同じ職業を営んでおりその関係と思われる。

父 三郎は9人兄妹弟の次男で 母勝子は7人姉弟の次女で、当時父が太平洋戦争(1941年 昭和16年12月)の為満州やフイリッピンに騎馬兵として出征していた(後に父から聞いた話による)

戦時中の昭和18年6月26日に母勝子病死
享年29歳 栄一5歳8か月智恵子1年4か月であった、負け戦が激しくなる中私は父の実家である 京都府南桑田郡曽我部村字穴太(現京都府亀岡市曽我部町穴太)に縁故疎開の形で祖父栄蔵祖母アグリに預けられ、ここより曽我部小学校1年より世話になる、妹智恵子は大阪で父三郎の後添えとなるマツ子の世話になるが、詳しくは父からも聞かずじまいであった、継母マツ子の事は全く何もわからず残念である。(20年10月11日没位牌による。

戦後 祖父栄蔵の兄である京都の潮田家
(洋服の仕立て業)京都市荒神口河原町西入に智恵子とともに世話になる、一人娘であった潮田家に父が子連れで入ったが、どうやら旨くいかず、小学校5年(春日小学校)の2学期までで 再度亀岡の小学校へ私のみ転校する、この後大阪で3学期から生活が始まるまだまだつらい生活が待っている。

昭和25年3学期より大阪市福島区上福島北3丁目に父三郎 継母まさゑとその連れ子である良子とはその日初めて会いそして私と智恵子との5人の始めての生活が始まることに成る何とも不思議な気持であった、勿論智恵子と父も正式に家族としての生活は始めてであるだから全員他人と暮らす様なもんである、その後に3女になる廣子が誕生する。
勝子栄一

母勝子と私

父 三郎騎兵
屋号はかまや
勝子栄一
生い立ち
斎藤家について 斎藤家 は私の父三郎の母アグリと 私の母勝子の母カスの出所で アグリとカスとは姉妹で あるつまり私は父と母は 従姉妹の子である

母勝子と私

母と私と二人のお手伝いさん左の方に
いつも添い寝してもらってました残念な
がら名前はおやっさんとしか覚えていま
せん、そして右の方はおよしさんです大
変お世話になりました。

母勝子と私と妹智恵子
私5歳頃智恵子誕生間も
なくの頃。この後母はすぐ
になくなっています。

父親の仕事で仕立物(着物)
を包む包装紙

父三郎年代不詳

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