「エホバの証人」信者の妊婦を「見殺し」にしてよかったのか?


毎日新聞の記事より。

【信仰上の理由で輸血を拒否している宗教団体「エホバの証人」信者の妊婦が5月、大阪医科大病院(大阪府高槻市)で帝王切開の手術中に大量出血し、輸血を受けなかったため死亡したことが19日、分かった。病院は、死亡の可能性も説明したうえ、本人と同意書を交わしていた。エホバの証人信者への輸血を巡っては、緊急時に無断で輸血して救命した医師と病院が患者に訴えられ、意思決定権を侵害したとして最高裁で敗訴が確定している。一方、同病院の医師や看護師からは「瀕死(ひんし)の患者を見殺しにしてよかったのか」と疑問の声も上がっている。

 同病院によると、女性は5月初旬、予定日を約1週間過ぎた妊娠41週で他の病院から移ってきた。42週で帝王切開手術が行われ、子供は無事に取り上げられたが、分娩(ぶんべん)後に子宮の収縮が十分でないため起こる弛緩(しかん)性出血などで大量出血。止血できたが輸血はせず、数日後に死亡した。

 同病院は、信仰上の理由で輸血を拒否する患者に対するマニュアルを策定済みで、女性本人から「輸血しない場合に起きた事態については免責する」との同意書を得ていたという。容体が急変し家族にも輸血の許可を求めたが、家族も女性の意思を尊重したらしい。

 病院は事故後、院内に事故調査委員会を設置。関係者らから聞き取り調査し、5月末に「医療行為に問題はなかった」と判断した。病院は、警察に届け出る義務がある異状死とは判断しておらず、家族の希望で警察には届けていない。

 エホバの証人の患者の輸血については、東京大医科学研究所付属病院で92年、他に救命手段がない場合には輸血するとの方針を女性信者に説明せずに手術が行われ、無断で輸血した病院と医師に損害賠償の支払いを命じる最高裁判決が00年に出ている。最高裁は「説明を怠り、輸血を伴う可能性のあった手術を受けるか否かについて意思決定する権利を奪った」としていた。】

参考リンク:「エホバの証人」信者の妊婦、輸血拒否して死亡…「見殺しにしてよかったのか」と病院を非難する声も(by 痛いニュース(07/6/20))

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 こういうニュースを目にするたびに、ひとりの医療従事者として、「自分がこんな状況に陥ったらどうしよう……」と考え込んでしまうのです。
 毎日新聞の記事には、「同病院の医師や看護師からは「瀕死(ひんし)の患者を見殺しにしてよかったのか」と疑問の声も上がっている」なんて書いてありますが、この部分はこれを書いた記者の想像であってほしいなあ、と僕は思っているのです。というか、現在の日本の医療従事者で、この担当医に悠長に「疑問の声」なんてあげていられるような余裕がある人がいるのでしょうか? 

 たぶん、この事例では、担当医の心だってかなり傷ついているはずです。別に担当医は見殺しにしたかったわけではないし、実際に患者さんの家族にも輸血の許可を求めています。でも、そこで拒否されたとき、担当医は「それで自分が訴えられることになっても、輸血すべきか?」と、ものすごく悩んだはずです。「瀕死(ひんし)の患者を見殺しにしてよかったのか?」それをずっと自分で抱えていかなければならないのは、家族であり、その患者さんに直接関わった医療者です。同じ信仰を持っているわけではない医療者たちは「輸血しなかった罪悪感」が全く無く、「エホバの信者だからしょうがないな」と割り切れるものだと思いますか? そういう意味では、御家族や患者さん本人のほうが、まだ「自分を納得させることができた」のかもしれません。

 この記事を読んでいると、少しずつ時代は変わっているのだな、ということも感じるのです。これと同じことが、僕が医者になった直後の10年前、あるいは、僕が医学部に入った20年近く前に起こっていたら、おそらく、「医者は良心に従って輸血を行った」可能性が高かったと思うのです。その頃くらいまでは、「とにかく医療者は命をを救うことが仕事なんだ!」というのが「青臭い理想論」ではなかった時代だったような気がします。
 でも、「医療者の良心」に対して、【エホバの証人の患者の輸血については、東京大医科学研究所付属病院で92年、他に救命手段がない場合には輸血するとの方針を女性信者に説明せずに手術が行われ、無断で輸血した病院と医師に損害賠償の支払いを命じる最高裁判決が00年に出ている。最高裁は「説明を怠り、輸血を伴う可能性のあった手術を受けるか否かについて意思決定する権利を奪った」としていた。】というような判決が相次ぐことによって、医療者たちは、どんどん自信を失っていったのです。この判例の場合は「説明不足」が判決の大きな理由ではあるのですが、それでも「命を救うためなら、医療者が良心のもとに何をやっても許される」という時代の終焉を、現場ではみんな実感しています。高齢者が入院された際には、どんなに軽症のように見えても「ご高齢ですから、急変される可能性が十分あります」と必ず説明するようになりました。医療者にとっては「患者さんの命を守る」のと同時に「さまざまなトラブルから自分を守る」ことを考えざるをえない時代です。「命を救えても、患者さんも家族も喜ばず、訴えられてトラブルに巻き込まれる」という状況で、「見殺しにしてよかったのか?」って、お前らのほうこそ、「医療者としての建前」で担当医を「見殺し」にしようとしているんじゃないのか? 輸血しなければ患者さんの命は救えず(輸血したら救えたかどうかはまた別の話なんですが)、輸血したら「無理矢理、患者さんの希望に沿わない医療を行った」とのことで訴えられ……まさに八方塞がり。
 「見殺しにしてよかった」なんて、担当医が思っているわけありません。当たり前のことですが、助けられる命なら助けたいですよ。「見殺し」にしたって、何のメリットもないしさ。

 僕はこの「輸血拒否」に関して、医療者としては困っていますし、できればそんな教義はやめてもらいたいと願っています。しかしながら、「中国で出所のわからない臓器を移植してでも生き延びる」というのと「人の血をもらって生き延びるくらいなら死ぬ」というのと、どちらが「人間として正しい」のかは、医者としての立場抜きの僕自身としては、正直よくわからないんですよね。今の日本人の感覚としては「生き延びられる方法があるのに自らそれを捨てるほうが、より理解しにくい」だけなのかもしれないな、とも考えてしまうのです。それでも、自分が患者さんを「見殺しにしなければならない」立場になるのは、やっぱり嫌なんですけど。