ヨルダン爆発事件は「疲れていたから」で、医療ミスは「不注意」?
ヨルダン・アンマン国際空港の爆発事件について、今日(5/10)の毎日新聞に検証の特集記事が掲載された。
写真部記者の五味宏基氏がなぜ爆弾を持っていたかについて、五味記者の供述や、戦場取材に詳しい専門家の見方が紹介されており、現時点での「推測」として、精神的、肉体的疲労の蓄積や武器に対する知識不足などが指摘されていた。
で、僕が言いたいこと。
これって、何を検証しているんだろうか?身内をかばいたい気持ちは伝わってくるのだが。
「武器に対する知識不足」は、理解できる。たぶん、彼自身に悪意はなくて、
「これ、爆弾のカケラなんだってさ」とか言いながら、日本で周りの人に見せようと思ったんだろうから。
「無知だった」という反省は、結果を考えれば当然のことだろう。
しかし、「精神的・肉体的疲労の蓄積」とかいうのは、言い訳にしてもいいのだろうか?
よく、医療ミスの報道で「医療従事者の倫理と能力」を問う報道は見かけるのだけれど、
僕は、その記事の中で医者や看護師が「当直明けで一睡もせずに翌日の診療業務を行い、疲れ果てていた」とか、
看護師が「夜勤続きで精神的に消耗していた」なんて弁護してくれているのを見たことがない。
(ちなみに、誤解を招かないように記載しておくけれど、一方で医療現場を検証する記事では、
労働条件の過酷さを指摘し、改善の必要性を訴える論調のものも確かにある。
でも、医療ミスの記事のところには、「こんな過酷な労働条件だった」なんて書いてはいない)
「戦場は特別で異常な場所だ」とか言うのなら、病院だって「特別な場所」には違いあるまい。
でも、多くの医者や医療従事者は、「疲れていること」を言い訳にすることはできない。
新聞記者なら、「疲れていた」という理屈がまかり通るのだろうか?
交通事故のようなもの、という解釈なの?
誤解しないでもらいたい。僕は「疲れていたんだから、医療ミスも許してくれ」と言ってるんじゃない。
今の医療現場の根源的な問題は多々あるのだが、それでも医療ミスはあってはならないことだ。
医療従事者も記者も、「自分で選んだ仕事」であり、きつくても、やりがいがある仕事ではある
(とはいえ、度が過ぎることが多すぎるが)のだろう。
だからこそ「疲れていた」なんて通用するはずもない理屈で身内を弁護するのは止めて欲しい。
オウムの麻原だって「疲れていてあんなことをやりました」と言えばOKなのか。
そんな言い訳は、プロとしてみっともない、としか言いようがない。
僕は、すべての記者がそんな人物だとは思わないし、大部分の報道関係者は「普通の人間」だと信じたいが、
医者も記者も、己が「特別な人間」だと考えすぎている人が多いのではないかという気がする。
自分で自分の仕事にプライドを持つのは大事なことだけれど、
それは他人にひけらかしたり、ましてや大新聞の2面も使って表明するようなものではないだろう。
彼は、少なくともそれを爆弾の一部だとは知っていたのだ。
「無知で不用意だったからやりました」
そして、無辜の人間の命が奪われた。