「優しくなれない」理由
単なる風邪だと思っていたら、どうもインフルエンザだったらしくって、ここ数日はずっと寝込んでおります。とはいっても、後輩の結婚式に行ったり、最低限の仕事はしているのですが。
それで、今日も「尋常じゃなく顔色が悪い」状態で研究室に出勤したのですが、これがまたみんな優しいのだ。今日終日当番だった術中迅速の係は代わってくれるし、会う人みんな「早く帰ってゆっくり休んだほうがいいよ」と言ってくれるし……ほんと、その温かさだけでインフルエンザも早く治りそうなものです。
しかしながら、僕が臨床医だったころのことを思い出してみると、例え死にそうに具合が悪かったときでも(二日酔い除く)、他の人たちは「仕事代わってやろうか」とか「帰っていいよ」なんて、誰も言ってくれなかったような気がする。逆に僕自身も、そういうキツそうな同僚に対して、当直のバイトを代わったりすることはあったものの、「帰っていいよ」とは声をかけられなかった。実際、そんなことを言ってもムダだとわかっていたから。
海外ではどうだか知らないが、日本の臨床というのは主治医制がメインで、この患者さんは○○先生の担当、というふうに決まっており、長期休暇などで「代医」が立てられる場合を除いては、その体制が崩れることはない。それは、担当医にとっては「自分が、この患者さんのことを一番良くわかっている」というプライドであるのと同時に、容易には他の人に仕事を任せられないという束縛にもなっている。もちろん、緊急事態(研修医が体調を崩して入院したとか)の場合には、それなりのシフトが敷かれるのだが、考えてみると、そういう状況というのは、他の医者にとっても「非常事態」なのだ。もともといっぱいいっぱいのところで仕事をしている上に、さらに受け持ちの患者さんが増えるわけだから、「病気なんだから仕方ない」と頭では理解しつつ、「勘弁してくれよもう…」という愚痴もつい浮かんでくる。僕たちの研修医時代の合言葉は、「お前が倒れたら俺も倒れるから、みんななんとか頑張れ」だった。いやもうほんと、どうしようもない。
僕自身も自分が39℃の熱があるにもかかわらず、「ちょっと喉がヘンな感じ」という、「急性上気道炎」の病名をつけるのにもためらわれるような患者さんを診ることに理不尽を感じることはあるのだ。「好きでこの仕事をやっているんだろう!」と仰る向きがあるのは重々承知しているが、正直、自分の体調がすぐれないときは、「代わりがいない」とされているこの仕事が嫌になることもある。本当は、ある程度以上のレベルの医者ならば、代わりができないこともないんだろうけれど、医者を数日間派遣してくれる人材派遣会社なんてないし、「医者」というものに対する社会通念上、そういうことはあまり好感を持たれないのは間違いない。その一方で、「かけがえの無い存在である自分」「こんなに具合が悪くても働いてしまう自分」に酔っていたりもするわけなのだが。考えてみれば、それで誤診でもしたら、どうするんだ、とも言える。でも、やっぱり代わりはいないし、自分がその代わりを押し付けられたときのことを考えると、人に、簡単には頼めない。
たぶん、今の研究室でみんなが優しいのは、今やっている仕事が比較的時間の制約が少なくて、診断当番などにしても「誰かがやればいい」というシステムだからなのだと思う。もちろん、僕の今の立場があまり責任のあるものではなく、必要不可欠な存在ではない、というのもその一因だろう。逆に、上の先生になると、自分の体調を理由に簡単に休んだりはできないし(それでも、臨床よりは多少はマシかもしれないが)。
そんな理由づけをしながらも、僕は正直、みんなに優しく「帰っていいよ」と言われて嬉しかった。そして、こういう生活が失われて、また、どんなに高熱でぶっ倒れていても、「患者さんが眠れないって言ってます」という電話で真夜中に叩き起こされる生活に引き戻されることに恐怖を感じている。いや、眠れない患者さんが悪いわけでも、それを伝達する看護師が悪いわけでもない。体調管理が不十分な僕が悪いのだ。そうに決まっている。あまりに時間に追われ、ストレスをかけられ続けると、そんな自虐的な発想しか浮かばなくなる。あんなに沢山のインフルエンザの人と接していれば、感染しないほうがおかしいくらいなのに。
たぶん、「そういう伝統」の前には、こんな言葉は無力なのかもしれないが、臨床でも「悪しき根性主義」みたいなのから、少しでも抜け出せないものなのだろうか。もう少しみんなに余裕があれば、もう少し、みんな周りの仲間に優しくなれるはずなのに。「俺もキツイ中頑張ったんだから、お前も頑張れ!」とかいうのは、そろそろ限界なのではないか。ただでさえ、「いつ訴えられるかわからない」とかいう不安もつのるばかりなのに。
最近、女性医師の出産のことが話題になっていたのだが、実際に職場の同僚の女性医師の出産によって、ギリギリの状況でさらに仕事が増やされたり、バイト先が遠くて安くてキツイ病院に変更されたりした経験からすると、「子どもを産むことのすばらしさ」は理解しているつもりでも、実際にその皺寄せを受ける側としては、「勘弁してくれ…」という気持ちが無かったというのは嘘になる。もともと余裕のある状況なら優しく「いいですよ。」と言えても、自分も限界だと、「えーっ!」という感じなのだ。つくづく僕はキャパシティが小さい人間だと思うけれど、やっぱり、自分に余裕がなければ、他人にも優しくできないのではないだろうか。今すぐアメリカみたいに、「勤務時間を過ぎたら、主治医がその場にいても診ない」ようになるというのも考え物なのだけれども。