『白い巨塔』最終回〜「医者として死ぬ」ということ



 今観終わったところなので、現時点での率直な感想を書いておきたいと思う。

 相変わらずツッコミどころは満載なのだが、今日は些細なところは無視したい。

 正直、この「白い巨塔」というドラマのなかで、第20回と今日の最終回は、ちょっと毛色の異なるもののような気がしてならない。
 僕は医者なので(もちろん、財前のような優秀な医者ではないけれど)、医者が癌になり、そして死んでいく、というプロセスには、「かわいそう」というような単純な感傷は抱けなかった。ああいうふうに、自分の症状から、自分の病状がわかってしまうであろう怖さとか(実際は、いくら癌センター設立で微妙な時期だとはいえ、あんなふうに本人に病状を隠すなんてことは、ありえないと思うのだが。隠したって癌が進行していけば、隠しとおせるわけもない)、財前の「医者としての悔しさ」とかは、なんだかとてもリアルに感じたのだけど。有史以来、医者だからといって死ななかった人間はいないし、僕もいつかは、ああいう形で死んでしまうのだろうか?という恐るべき未来予想図。

 僕は、少なくとも財前の「死に方」には強い共感を覚えざるをえなかった。「大学病院の医者が、大学以外で死ぬわけにはいかない」「癌と戦う医者が、癌で死ぬことを恥じる」なんていう彼のプライドには、大いなる悲しみも感じたけれど、それは、なんだかとても聖なるものに思えたのだ。

財前が末期癌であったことを知って「キミの苦しみを受け止めたいんだ」とすぐに口に出せるような善意の人、里見先生の言葉が、とてもとても薄っぺらいものに思えたのとは対照的に。僕の性格が悪いのかもしれないが、あの場面で、僕は里見に、『よくそんな言葉がパッと出るよな!』と言いたくなってしまったのだ。「受け止める」なんて、できるわけがないよ、そんなの。

「僕は間違っていたのか?自分でもわからない…」財前は、そう呟く。僕は、財前のようには生きられないけれど、彼の気持ちはなんとなくわかる。「僕は、ひとりひとりの患者に、里見ほど真摯に接しては来なかったかもしれない。でも、僕は僕なりに研究室のことにしても、手術にしても、最大限の努力をしてきた」という述懐は、ある意味「医者」というものの本質を問うているのだと思う。財前は、確かに「患者を診ずに、病気を診る医者」だったのかもしれない。それでも、財前は優秀な医師だったのだし、彼がいなければ救われなかった命はたくさんあったはずだ。1000人の生命を救ったのに、1人の患者においてのミス(というか、あれで説明義務違反、というのは、ちょっとあんまりだと思う。最初から「すべてお任せします」って言ってたのに。道義的責任はあるとしても、裁判で「有罪」にされるのは、あまりに感情的な判決なのではないだろうか?)で、あれだけの非難を浴びるなんて、あまりに割に合わないような気もするのだ。もちろん、その1人に偶然当たってしまった人が、素直に受け入れられるとも思えないけれど。

 実際に、「本当にひとりひとりの『人間性』に接するには、医者は忙しすぎるし、本当にそうしてしまうと『自分の心が耐えられない』のではないか」と感じることもある。財前は「野心家で、自分の目的のためなら、手段を選ばない人間」ではあったのかもしれないが、その一方で、自分の弱くて傷つきやすい内面を「優秀な医師」という仮面で覆って、強く強く生きようとしていた。財前が「人より病気を診る医者」になってしまったのは、彼自身、人間が怖かったのかもしれない。

 僕からすると、むしろ、里見先生のほうが「自分を上手く他者に見せるのが上手な人間」なのではないか、とも感じてしまうのだ。

 だから、財前は逆に、「世渡り」で「いい人」「いい医者」というように生きていくことができて、医者としての能力を出し惜しみしている(ように見えていたのではないか)里見のことを羨ましく、妬ましくも思っていたし、憧れていたのかもしれない。協調して世間を渡っていくことが苦手だった財前は、自分で「どうだ、みんな俺が必要だろう!」とアピールして生きていくしかなかった、そんな気がする。

 財前五郎は、最後まで医者として「見栄を張って」死んだ。死後は病理解剖を希望し、自ら医学の発展のために身を捧げる覚悟をみせた。

 ひょっとしたら財前の「改心」を望んでいた人もいたのかもしれないが、僕はこの財前の最後に救われる思いがしたのだ。

 もし最後に財前が、「今までの自分は間違っていた」なんて言っていたら、このドラマは僕をしらけさせたに違いない、そんな気がする。学問の世界とかいうやつは、そういう傍からみればバカバカしいような見栄やプライドに支えられているものだから。「ええかっこしい」をやっているうちに、自分で自分を追い詰めてしまう人たちが、「科学」を発展させてきたのだから。

 財前は、最期まで「大学教授」であろうとした。義父とのライターのやりとりのシーンにあったように、諦めと周囲への気配りとかすかな希望を抱きつつも。そして、財前は最期まで「業」みたいなものから逃れられなかった。
 でも、その「業に囚われた男の姿」は、僕の心を激しく揺さぶるのだ。

 最終回は、あまりに財前を美化しすぎとも言えるし、財前は、最期まで妄執を捨て切れなかった、とも言える。「死んでしまえば、すべての罪は赦されるのか?」と感じる人だっているだろう。確かに、僕たちは「死」の前ではあまりに無力で、「死んでしまった人」に対しての悪口は(少なくとも表向きは)禁忌だと考えがちだから。

 それに対しては、僕は結論を出せない。ただ、財前は、あまりに「人間的だった」し、僕が「赦す」とか「赦せない」なんて決められるような存在ではないだろう、というだけのことだ。

 「白い巨塔」というのは、本当は、財前の、里見の、そして多くの人たちの心の中にそびえ立っているのかもしれない。そして、みんながその見かけの立派さに驚嘆する陰で、本人は自分で築いた塔から出られずにもがき苦しみ続けている。

 僕が財前五郎に捧げたい言葉は、いくら考えても、これしか思いつかない。

 おつかれさまでした、財前先生。


 附記:財前先生の遺書で語られていたように、手術療法による癌治療は現時点で「限界」に近いところまできている。というより、基本的に癌というのは、「早期発見・早期治療」以上の特効薬はないのだ。定期健診の積極的な活用と異常を感じた際の早めの病院受診を僕からも勧めさせてください。