『東京タワー』に感動できない理由


※以下の文章には、『東京タワー』(リリー・フランキー著)のネタバレが若干含まれていますので、御注意ください。


『東京タワー〜オカンとボクと、時々、オトン』(リリー・フランキー著・扶桑社)より。

【「抗ガン剤の効果はどのくらいあるんでしょうか?」
「人にもよりますが、劇的な効果を得る可能性は、決して高いとは言えません。そして、抗ガン剤治療を開始しますと、患者の身体にはかなり負担がかかります。痛みや吐き気、だるさ、相当の衰弱が予想されますが……」
 医師の口調は、もうなんの手立てもない末期ガン患者なのですから、無理をさせて苦痛を与えるよりは、このままそっとお迎えを待ってはどうですか?と言っているようだった。
 その考え方も、ひとつの医師としての判断なのかもしれない。末期ガン患者に対する対処の価値観もそれぞれであることは知っている。死は誰にでもいつかは訪れる。それを苦痛を伴いながら迎えるよりも、極力安らかに送ってあげたいと考えるのは当然だろう。
 しかし、ボクはどうしても納得ができなかった。そこにある”どうせ死ぬなら”という考え方に頷く気にはなれなかった。
 もしかしたら、抗ガン剤治療を施すことで死期を早めることになるのかもしれない。でも、そこに0.1%でも可能性が残されているのなら、その奇蹟に向かい、たぐり寄せたい。

(中略)

 そして、ボクはもう一度先生に聞いてみた。
「手術はどうしても無理なんでしょうか?」
「ええ、手術はできません」
 手術はできません。抗ガン剤も好ましくありません。ならば、医者のあなたはなにをするんですかと憤りを感じたが、もうそれならば抗ガン剤治療をしてもらうしかない。オカンの体に苦痛を与えるだろうが、望みが残っていることに目をつむることはできない。

(中略)

 K医師は告知をすると言ったボクを見て、「それならば、私から告知させて下さい」と言った。
 それは医師の役割ということなのだろうか。どちらにしても、このすぐ後に行われるオカンに対する説明にもボクは立ち会う。
「では、先生からどうぞ」
 まるで、カラオケの順番を譲るような口調でボクは答えた。

(中略)

 オカンの抗ガン剤治療が始まる。
 病院の治療と並行してハスミワクチンも注射してもらうことにした。医師はワクチンに対して、口には出さないが批判的な態度で苦笑するような表情だったが、本当は誰にもなにが効果的なのかわかるはずもないのだ。なにしろ、どうしてガン細胞ができるのかさえ、誰も知りはしないのだから。

(中略)

 医学といったってわからないこよだらけじゃないか。麻酔薬が人の痛みを取り除くということは明らかに誰でも知っていることでも、どうして麻酔薬を打つと人は痛みを感じなくなるのかというメカニズムは未だに解明されていないのだという。いい加減なものだ。
 人の命は0と1で組み立てられているわけじゃない。間違った数字を入力しても正しい回線に繋がることだってあるに違いない。
 そんな曖昧な世界の中で医者がなにを言ったところでそれが必ずしも的中するとは限らないのだ。
 みんな、なんでも知ってるつもりでも、本当は知らないことがたくさんあるんだよ。
 世界の不思議や、いろんな奇蹟。ボクたちの知らないことはたくさんあるんだ。】

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 120万部を売り、「本屋大賞」を受賞した、この「東京タワー」。僕も読みました。リリーさんのお母さんへの思いが伝わってくる作品です。
 でも、リリーさんのお母さんの闘病を描いた場面を読んでいて、「人の息子」であると同時に医者でもある僕としては、非常に辛い気分になってきたのです。
 この引用部で描かれている「医者」という存在からは、患者さんの家族にとって、僕たちはどう見られているのか?というのがものすごく伝わってきたし、少なくともこういう医者の描き方について、これだけの大ベストセラーへの批判的な意見を聞いたことがないということは、世間にもこの場面を含めて「共感」「感動」している人が多いのだろうなあ、と思ったので。
 少なくとも、「医者」である僕の立場からすれば、このK医師の診療は、ごくごく真っ当なものだと感じます。医者というのは経験上、抗ガン剤というのが多くの末期ガンの場合、患者さんを苦しめるだけで効果が期待できないことを知っていますから、「同じような患者さんが100人いたとして…」という仮定で話をします。でも、ここに書かれているように、御家族が、「100人に1人しか助からなくても、自分の身内がその『1人』になるかもしれないではないか」と思われるのもよくわかります。しかしながら、実際に医者という仕事をやっていると、「残りの99人の苦しむ姿」を見てしまうので、あまり「分が悪い」治療を行うわけにはいきません。「根治不可能で、術死のリスクが高い」「体力を落としてしまうだけ」というような手術を「奇蹟が起こるかもしれないから」(医者の立場からいえば、その「奇蹟」が起こる可能性は限りなくゼロだったりするわけです)、という理由でやるわけにもいかないし。
 そして、【そんな曖昧な世界の中で医者がなにを言ったところでそれが必ずしも的中するとは限らないのだ。】というのは確かに事実なのですが、そういう中で、医者というのは自分の仕事として、「いちばん的中する可能性が高いこと」を患者さんや家族に示していかなければならないのです。もちろん「100%ではない」のですけど、その100%に少しでも近づけるように、僕たちは努力しているのに。
 いや、「信じたい」という気持ちはわかるけれど、「本人や家族と一緒に泣く」というのは、医者という専門家に求められているものの本質ではないと思うのです。冷たい物言いかもしれませんが、「泣いている暇があったら、最新の治療法を確認する」というのが、医者にしかできない、医者の仕事であるわけで。でも、別に医者が患者をガンにしているわけでもないのに、医者というのは、治らない病気の前で、「役立たず」となじられたり、恨まれたりすることだってあるんですよね。御家族のなかには、「医者のくせに、なんとかできないのか!」と食ってかかってこられる方もたまにいらっしゃるのですけど、そんなの、なんとかできるんだったらそうするに決まっています。医者である以前にひとりの人間として、目の前に苦しんでいる人がいて救う方法があれば、その方法を実行するのはごくあたりまえのはず。
 でも、僕の印象としては、「周囲の人々に自分が患者のことを心配していることをアピールするために、医者に食ってかかってくる家族」というのもいらっしゃるんですよね。そういう状況って、非常に悲しい。
 もちろん、医者を含む医療従事者が、命の最前線にいるがゆえに、患者さんや御家族の「感情の揺れ」を受け止めなければならない場面というのはけっこうありますし、それは僕も「やむをえないこと」だと理解しているつもりです。でも、それがあまりに「全部医者が悪い」というふうに置き換えられてしまうと、正直、僕たちも「そんなこと言われても…」という暗澹たる気持ちになってしまいます。いや、病院や病気が好きな人なんていないだろうし、イライラしているのもしょうがないし、ディズニーランドのアトラクションでは1時間ニコニコして待てても病院の待合室では30分で「なんでこんなに待たせるんだ!」と言いたくなるのもわかるんですよ。僕だって同じだもの。
 ただ、医者というのは、そんなふうに「悲しみを投げつけられる職業」であり、そのことが、「普通の人間」である僕にとっては、とても辛く感じられることがあるのです。ほんと、僕たちは神様でもなんでもないのにね。