死を目の前にした知人に、どんな言葉をかけてあげますか?
『プレイボーイの人生相談―1966‐2006』(集英社)より。
(『週刊プレイボーイ』40年間の「人生相談」のコーナーをまとめたものです。武田鉄矢さんの項から)
【質問:知人がガンで入院しました。それもこれて2度目です。はっきりとはわからないのですが、そんなに長くないらしいのです。お見舞いに行って死を目の前にした知人になにを話していいのかわかりません。それに、もし自分が同じ立場になったらと思うとちょっと涙が出てきてしまいます。武田さんだったらそんな知人にどんな言葉をかけてあげますか。また、自分が同じ立場だったらどうしますか。
武田鉄矢:あなたのとまどいは本当によくわかります。実は、ボクは春先に実兄を亡くしました。
その直前、兄を見舞いに行こうとした時に、兄の嫁から「あと数週間で……」というようなことを言われたんです。
そういう時って、やっぱり何を話していいかボクでも考え込んでしまいます。だから、病院に行くまで、なんて声をかけようか頭を悩ませていましたし、兄貴の顔を見ても、かける言葉がなかったんですね。
そうしたら兄貴のほうから話しかけてきました。それは、今年は桜が遅いとか早いとか他愛のない話だったんですが、実はそれでよかったような気がするんです。
死を目の前にした人へのお見舞いという状況は、誰でも言葉をなくしてしまうものなんじゃないでしょうか。
そして、言葉をなくしてしまう状況というのは、実は人生の中にはたくさんあって、その時間はただひたすら耐えるしかないんだと思うんです。言葉というのは、それほど万能なものではないんです。言葉をかけることよりも、黙ってそばにいてあげることのほうが大切なことがたくさんあるんじゃないでしょうか。
それから、兄の見舞いに行ってひとつだけ学んだことがあるんですが、病気をしている人や死というものを見つめている人にとって重大なことは、「がんばってください」と励ます言葉ではなくて、、「苦しいんですね」と同じ感情になってあげることなんですね。つまり、励ましの言葉はそこでは必要ないみたいなんです。相手が言った言葉をそのまま繰り返して言ってあげる。言葉ができることはそこまでだっていう気がするんです。
死の問題というのはボクでもさすがにこたえる問題です。だから、あなたのような若さではひときわこたえることでしょう。とりあえず、お見舞いに行くキミの知人には、「がんばれ」という言葉よりも、ただ単に「苦しいんだろう?」と同調してあげる。それだけで十分なんだとボクは思います。】
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武田鉄矢さんといえば、僕の世代にとって最初に思い浮かぶのは「金八先生」なのですが、この回答を読んで僕は深く頷いてしまいました。医者として、あるいは家族の一員として「死を目の前にした人」に対して、どう接すればいいのだろうか?というのは、非常に悩ましいことですよね。
この武田さんの答えは、「言葉をなくしてしまうという状況というのは、人生においてしばしば起こりうることで、それに対しては、耐えるしかない」というものです。確かに、僕が「なぐさめられる立場」だったときにすごく嫌な感じを受けたのは、そういう状況にもかかわらずなにかと詮索したがる人だとか、自分のことしか言わない人とか(そもそも、病人の見舞いに来て「私は健康に気をつけなきゃ」とか言う人って、けっこう多いのですよね)、これもお前にとっては人生勉強だ、とか遺族に説教を始める人のような「悪趣味な饒舌家」が圧倒的に多かったのです。
「口は災いの門」と言いますが、こういう人たちは、気の利いたことを言ってやろう、というように、自分をアピールするための、自分基準での「素晴らしい言葉」を他人にかけようとしがちです。もっとも、そういう場所で「沈黙すること」を受け入れるのはお見舞いに来た側としてもすごく不安ですから、ついつい妙なことを喋ってしまうという面があるのもわかるんですけどね。実際は「何を言っても神経を逆撫でされてしまう状況」というのはあるし、逆に「その場にいたのだけれど何も言ってくれなかったこと」について悪感情を抱いたことはなかったような気がします。
ただ、こういうのは普段からのその相手への好悪の感情によって大きく左右されがちな面もあり、結局のところは、「好きな相手であれば、何を言われても、黙ってそこにいてくれるだけでもありがたい」のですが、日頃から疎ましく思っている相手の場合は「何をやっても癇に障る」だけなのかもしれません。大事なのは、「死を前にしてからどういう言葉をかけるか?」ではなくて、「それまでの日常において、どういう関係を築いてきたか?」なのでしょう。