「自殺してしまった23歳教諭の苦悩」と「先生として生き延びる」ということ


参考リンク:asahi.com:夢見た教壇2カ月 彼女は命を絶った 23歳教諭の苦悩

 この記事を読んで、僕はなんとも言えない悲しい気持ちになりました。
 「先生」っていう仕事に疲れ果て、その場から逃げることもできずに「殉死」してしまうなんて。

 正直言って、僕は研修医時代、本当に無能でやる気のない医者でした。
 いや、ここでこんなことを書き散らかしている時点で、今でもそんなにやる気はないのでしょうけど。
 不器用なので朝の採血当番がまず辛くて、抄読会で読んでもさっぱりわからない英語の論文を読まされるのが辛くて、患者さんに会いにいったらとにかくいろんな要望を投げかけられるのが辛くて、カンファレンスではプレゼンの内容に「わかりません」と謝るまで突っ込まれるのが辛くて、仕事の大部分は検査の予約だとか上の先生の家族説明の時間調整だというのが辛くて、退院サマリーが山のように溜まっていくのが辛くて、夜中でもポケベルが鳴って、しかも、それに絶対に出なければならないのが辛くて、そして、他の研修医たちがやる気に満ち溢れて、どんどん自分より先に行ってしまうようにしか思えないのが辛かったのです。
 夜、家に帰って風呂に入るとそのまま寝てしまったことも何度かありましたし、疲れ果てて27時に帰っても、翌朝にまた仕事をしなければならないのが嫌で嫌で、ずっとダビスタをやったりしていました。
 僕は、本当にダメな研修医だったのです。

 でも、今あらためて考えてみると、僕がこうしていま生きていて、なんとか仕事を続けていられるのは、僕が「ダメ研修医」で、しかも、「ダメな自分を受け入れることができたから」なのかもしれないな、という気もするのです。そして僕は、周囲に「自分はそんなに能力が無いので、もうこれが一杯一杯なんだ」とアピールするのが上手かったのではないか、と自嘲しながら考えています。僕も自分がある程度上になったら、やっぱり「コイツはそろそろキツそうだから、少し患者さん減らしとこう」とか思いますしね。
 僕は今まで、「医者を辞めていった人」あるいは、「ボロボロになって休職してしまった人」をたくさん見てきました。
 学生時代は、「せっかく医師免許を取ったのに、結婚したろ出産したからといって、仕事をやめちゃうなんて信じられない!」と言っていた女性医師たちが、どんどん「アルバイト程度」の仕事にシフトしていくのも、わかるような気がするのです。
 そして、「辞めてしまった人」というのは、僕からみると二極化しているように感じられました。
 ひとつめのタイプは、「もともと向いていなかった人」。とにかく、なにかを強制されたり拘束されたりするのが嫌いだとか、体力的についていけなかったりとか(いや、僕はすべての職業にまず必要な能力は『体力』と『気力』だと思うんですよ)、こう言ってはなんですが「なんで医者になろうと思ったんだ……」と、ダメ医者の僕でも呆れてしまうような人。まあ、正直このタイプの人は、辞めてしまうのもしょうがないのかな、と。むしろ、大学とか研修なんていうのは、こういう人たちに、早いうちに引導を渡すためのシステムなのかもしれません。
 そして、もうひとつのタイプは、「がんばりすぎてしまう人」。
 彼らの多くはすごく能力もやる気もあります。そして、妥協を許しません。しかしながら、病院という職場は、やる気があればあるほど、仕事をすればするほど、かえって「こいつは使える」ということで、仕事が増えてしまう傾向があります。そして彼らは、ある日突然、破裂します。
 
 ただ、僕はいろんな「優秀な医者」というのを見てきて感じるのですが、実際のところ、こういう「がんばりすぎてしまう人」がみんな休職したり、辞めてしまうわけではないのです。むしろ、彼らの大部分は、傍から「仕事しすぎだよ……」なんて心配されながらも、どんどんキャリアアップしていくのです。逆に言えば、僕のように「突き詰めないで大事をとってしまうタイプ」なんていうのは、「先生」という世界では、間違いなく出世コースには乗れません。
 ほんと、「先生」の世界って、ある種のチキンレースみたいなものなんですよ。ぶっ壊れる限界まで行くような人じゃないと、なかなか「みんなに認められるような成功」は得られない。
 ところが、その「限界」には標識が立っているわけではないので、みんな「まだ大丈夫!」「このくらいキツイのは当たり前、のはず……」とアクセルを踏み続けているわけです。「死ぬくらいなら辞めればいいのに」ってみんな言うけどさ、本当の「限界」なんて、それを越えてしまわないとわからないんですよね。たぶん、自殺してしまった人たちも、「まだこのくらいなら『ガマンしなければならない範囲』にちがいない」と自分では思っていたはずです。そして、「このくらいのことに耐えられない私は、『先生失格』だ」と……
 極論すれば、学校でいうところの校長とか教頭、病院での院長とか教授なんていうのは、そういう「チキンレース」の勝者たちなわけです。その彼らに、「新人たちをサポートする体制を作れ」なんて言っても、まともな対策が立てられるとは僕には思えません。だってさ、彼らは絶対「そんなことでリタイアするようなヤツらは、この仕事に向いてなかったんだ」としか感じていないはずだから。日本の「先生」の社会っていうのは、「出る杭は打つ」し、「溺れるものは無能とみなして見捨てる」のが伝統。時津風部屋と一緒です。ただし、「先生」になろうとする人たちの多くも「競争は望むところ」「自分の理想を実現するためなら、自己犠牲も厭わない」タイプではあるのです。定時に帰れないと嫌、なんて教師や医者ばっかりだったら、学校も病院も崩壊します。そして、最初は「勝ってやる!」と意気盛んだった「先生」たちは、少しずつ挫折を覚えて、自分なりの幸せに向かっていくようになります。あるいは、自分の目標を見失って、何をどうしていいかわからなくなるのです。

 この先生の自殺に関して、「システムが悪い」「(いわゆる)モンスターペアレンツが悪い」「今の学生たちは……」などと、いろんな言葉が飛び交っていますが、実際のところ、僕は「先生」と呼ばれる人たちが絶対に挫折したり、精神的に傷つかない社会なんてありえないのではないかと思うのですよ。登山家に「山に登ると遭難する可能性がゼロじゃないからやめろ」と強制するのは、正しいことなのでしょうか?。たぶん、いろんな障壁でいえば、昔の学校の先生が登った山が富士山だとしたら、今の先生たちが登ろうとする山は、マッキンリーくらいでしょう。そして、近い将来、その山はチョモランマになるにちがいありません。
 それでも、登ろうとする人はいるし、遭難する人もいる。
 これまでも、多くの人が犠牲になってきたし、それがこれからゼロになることなんてあるのだろうか?と僕は正直疑問です。
「ぜったいに兵士が戦死しない軍隊」が作れると思いますか?

 とりとめのない話になってしまってすみません。僕はそういう「犠牲」や「犠牲を生むことを厭わないシステム」を容認するつもりはないのです。
 でもね、みんな「犠牲者」が出ると「そこまでしなくても」って言うけど、日頃は「先生が学校外での生活も指導してくれること」や「主治医が日曜日でも呼べば説明しに来てくれること」を当たり前だと考えているのに、なんでこういうときには「かわいそう」とか「学校や病院のシステムのせい」だと他人事のように考えられるのだろうか、と感じるんですよ。現場では、「そこまでやるしかない」し、そこまでやれる人しか、生き残れない。そうでなければ、要領よくやるか、あるいは、「避難」してしまうか。

 最後に、言い忘れたことを。
 なんだか悪い話ばっかり書いたけれど、僕が10年医者をやってこられたのは、もちろん他にできる仕事がなかったということもありますが、僕を温かく応援してくれて、自信と達成感を与えてくれたたくさんの人たちとの出会いがあったからです。悪い面ばかりを強調しがちなんだけど、けっこうやりがいを感じられる機会も多い仕事ではあるんですよ、医者っていうのも。学校の先生も、きっとそうなんじゃないかな。

 そうそう、これだけは言っておかなくては。
 ずっと「限界なんてわからない」と書いてきましたが、「死にたい」という気持ちが頭から離れなくなったときには、絶対に緊急避難してください(精神科を受診するなり、休職するなりの措置が必要です)。
 本当は、そこまで行ってしまうこと自体が問題なのでしょうけど……