「特別なはずの自分」との葛藤
「週刊現代」2006/9/2号(講談社)より。
(外科医・南淵明宏さんのエッセイ「異端のメス」第50回の一部です)
【秋になれば、学校で運動会が催される。かけっこでは一等賞を取りたい。女の子にもモテるだろう。そこで「足が速くなりたい!」と思ったとき、「ではどうやれば、足が速くなるか?」と、考える。「タイヤを引っ張って鍛えれば、きっと速くなるだろう」ぐらいは、誰でも思いつく。だが実際、それをどれぐらい実効できるのか。そこで差がつく。
本などを買って、ちょっと勉強してフォームの練習やメンタルトレーニングなどもやってみる。ここでも、さらに差がつく。平凡な能力と欲望を持った人間同士は、考えることも、望むこともみな同じだ。だが、そこで何をするか、実行力で差がつくのである。
ところが、「自分は生まれつき特別。だから何もしないでも速い」と考えるヤツがたまにいる。実際に走ってみて、遅いという現実を突きつけられても、「あれは本当の自分じゃない」などと、”自己洗脳”し、事実を受け入れない。その人物が「変わっている」からではない。それこそが幼児性なのである。
私も、心臓手術という”職人技”を磨くとき、「プレッシャーのなかでも、細かい仕事に集中できる能力」が最も必要だとまず考えた。そして、どうやれば身につくかを考えた。私も平凡な人間だからである。だが、そのあとは違った。血の滲む努力などしなかったが、千本ノックのような実践トレーニングを積む機会に恵まれたのだ。運が良かった。それでも、いつも「自分は特別ではない。ただの人間」と思っていた。ところが、医者のなかにはそう考えられない輩がいっぱいいる。そう、幼児なのである。
「自分は特別だから、何もしないでも、他人よりはるかに手術が上手いに決まっている!」
妄想もいいところだ。大人になっても、「医者」という形ばかりの地位を得た幼児が溢れている。いや、医者などになってしまったがゆえに、妄想の世界で死ぬまで過ごせるのだ。小さいころから、褒められすぎたせいだろうか。勉強ができたせいだろうか。しかし、「実践」と「勉強」は違う。なまじ勉強ができたせいで「自分は普通の人間」という客観的事実に気がつく年齢が遅れてしまったのだろう。
「優秀だ」とずっと言われつづける環境は、人間の成長を遅らせ、結果的に彼らに不幸をもたらすように思う。「自分は特別」オヤジは信用されない。そんな人間は好かれないだろう。他人の存在や立場、感情も理解できないだろう。いくつになっても「自分は特別」なのだからずっと嫌われたままだ。『東京タワー』にも登場するが、母親が一番望むのは「子供が人に好かれること」だそうだ。
私も愚かな人間なので、心臓手術でピンチになると、時にプライドが頭をもたげてきて判断を誤りそうになることがある。バイパス手術において、縫うのがほとんど不可能に近い、心臓の後ろの細い血管が見つかったとき、「これは難しそうだな。でも自分ならできるぞ」などと「自分は特別」オヤジに変身しそうになる。
そんなとき、"俗物オヤジ”のもう一人の自分が出てきて、
「こんな細い血管を無理してつないでも誰も褒めてくれへん、普通は何もせんとこれでおしまいにする」
と助けてくれる。
「特別なはずの自分」という考え方はプライドそのものだ。ある面、人一倍の忍耐を生む成功の秘訣といえるのかもしれない。だが、何が特別なのかよく考えるべきだ。われわれは人間でしかない。構造はみな同じだ。何かを感じたら、何を欲して、どう考えるか。これまた同じだと思う。
特別なものがあるとしたら、そこでいかに行動するかだ。だが、その前に自分が平凡であることを客観的に理解し、冷静になれるかどうか、これが勝敗を決する最大の要因だと思う。思いきり俗物である自分、欲張りで怠惰で、めんどくさがり屋で、そのくせ欲望だけはものすごい。それを自覚することが勝利の必要条件だ。】
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この南淵さんの文章には、ものすごく頷けるところと、医者の悪口を書いたほうがこういうエッセイってウケるんだろうなあ、と悲しくなってしまうところが両方含まれているのです。確かに医者のなかには「勘違いしているように感じられる人」がいることは事実なのですが、僕の経験上は、だいたいそういう人の割合って、10人から20人に1人くらいです。それが「いっぱいいる」と言えるのかどうか、僕にはよくわかりません。世間の「困った人率」とそんなに変わりないんじゃないかなあ。医者の場合、少々困った人にも働き口があるので、目立ってしまうのでしょうか。
【妄想もいいところだ。大人になっても、「医者」という形ばかりの地位を得た幼児が溢れている。いや、医者などになってしまったがゆえに、妄想の世界で死ぬまで過ごせるのだ。小さいころから、褒められすぎたせいだろうか。勉強ができたせいだろうか。しかし、「実践」と「勉強」は違う。なまじ勉強ができたせいで「自分は普通の人間」という客観的事実に気がつく年齢が遅れてしまったのだろう。】
この文章などは、「いや、そんな甘いものじゃないってことは、ほとんどの医者はわかってますよ」と言い返したくなってしまいます。現代の「医療業界」は「妄想の世界」に浸っていられるほど現実から乖離してはいないし、そもそも「医者」なんてそんなに珍しい仕事でもなんでもないわけで。プロ野球選手とかミュージシャンなどに比べたら、はるかに「普通の仕事」です。僕のような冴えない勤務医には、世間は南淵先生に対するようには、ちやほやしてはくれないんですよね、残念ながら。
ただ、ここで書かれている「自分にはできるのではないか?という根拠のないプライド」に関しては、僕にも思い当たるフシがあって、ドキッとしてしまいました。
僕は内科医ですから、難しい手術に挑んだりするわけではないのですが、自分の専門ではない患者さんに対して「このくらいの軽症なら、僕が診ても大丈夫だろう」とか、検査や処置をしていてなかなかうまくいかないとき、ついつい「このくらいは自力でできるはず」と、検査や処置を長引かせ、中止するタイミングが遅れてしまって後でヒヤリとしたことは、今までに何度もあるのです。幸いなことに、僕の場合はいままでそれが原因で大きな事故につながったことはないのですが、たぶん、こういうささいな「このくらいなら自分にもできるはず」というプライドから起こってしまうミスや事故というのは、けっして少なくないと思うのです。飲酒運転のような「悪意」があるものではなくても、このくらいなら大丈夫だろう、と、つい寝不足で運転してしまったことが車の事故につながることもあるように。
現場としては、どんな田舎の病院にも珍しい疾患に対する専門医がいるわけでもないし、救急時にリスクを承知でやらなければならない事態というのも出てきます。「これは僕には難しい……」と撤退したくても、緊急であればとにかく自分でやらざるをえない場合もあるし、いかなる場合でも「一番上手い人がやる」ということになってしまえば、その一番上手い人が死んでしまったら、その検査や治療ができる人はいなくなってしまうのです。どこかで「背伸び」をしないと新しいことができるようにならないのは、どんな職業でも同じことなんですよね。
僕は「特別な人間」どころか、「勉強以外に他の人より優れていることが無いこと」に凄くコンプレックスを持っていて、勉強でなんとか辻褄を合わせてダメ人間として生きのびてきたようなものです。そして、医療の現場で仕事をしていると人の温かさに触れて感動することがあるのと同時に、「現実の厳しさ」と「他人の理不尽さ」に酷く落ち込んでしまうこともあるのです。大部分の「普通の医者」がそうであるように。
実際は、平凡な人間だからこそ、「自分は特別」だと思い込まないと、人に針を刺したり、カメラを入れたり、手術をしたりなんてできないような気もするんですよね。
でも、最近本当に「自分を過信しないこと」って大事だなあ、とつくづく思います。ミスや事故のほとんどは、「足りなかったこと」ではなくて、「やりすぎてしまったこと」「やらなくていいところまでやってしまったこと」が原因なのだから。