「死に向かう医療」をめぐって


参考リンク:チーム医療 主治医支える複数の目(YOMIURI ONLINE)


 この記事を読んで、僕が受けた印象を、率直に書きたいと思います。

「ああ、マンパワーのあるところは羨ましいなあ」

 実際は、この高岡市民病院だって、限られたスタッフでやりくりをしてこの毎日の病棟回診をやっているのだとは思いますが、現実問題として、多くの市中病院では、チームと言っても「担当医と、せめてもうひとり」くらいが限界なのではないかと思います。いくら「チーム医療」が良いと思っていても、無い袖は振れない。

 いや、いくら「チーム医療」とはいえ、ひとりの医者が15人とか20人の患者さんを主治医として担当しなければならないような末端の病院では、こういうシステムを確立することはかなり難しいことなのではないでしょうか。そして、多くの患者さんが亡くなる場所というのは、「中核病院」ではなくて、「医者の数も限られた、市中病院」なのです。

 現在の医療情勢では、「助けられるかどうかギリギリのところにいる人を、なんとか助ける」ということだけで、医療の力は、もう、一杯一杯になりつつあります。

 いや、実際のところ、その「助けられるかどうかの人」に対する医療サービスですら、すでに、限界に達しつつあるのです。

 救急車の出動要請は飛躍的に増えて有料化が検討され、「救急病院」とくに小児科などでは、「救急なのに3時間待ち」の状況で、親たちが苛立っています。「どうしてこんなに待たせるのか!」と。診察室の中では、一睡もしていない医者たちが、休む間もなく押しよせる患者さんたちに対応しているにもかかわらず。

 この高岡市民病院のケースでも、おそらく、医者たちは自分の時間を削ってこれらの「チーム医療」に従事しているはずです。少なくとも、今後短期間で医者の数が急速に増えるということは考えにくいのですから、このようなシステムを運営していくためには、スタッフ一人一人にさらに負担がかかるというのが大前提になるのです。

 もちろん、この方法には大きなメリットがあります。やはり「すべて主治医の責任」というような状況では、医者側にも「本当に自分のやっている治療は正しいのだろうか?」という不安におそわれることは少なくないのです。いやもちろん、いいかげんな治療をやっているつもりはなくても、医学の世界というのは日々更新されていますし、どうしても、今までの経験に引きずられたり、思い込みに流されたりすることもありますし。

 人はいつか死んでしまいますから、ある意味、すべての医療は終末期医療なのかもしれません。

【終末期医療の治療方法の決定に当たっては、最初に複数の家族と医師が話し合い、その後に倫理委員会などの第三者機関の判断を仰ぐ必要があるとする。

 「射水市民病院でも、こうした過程を踏んでいれば、もう少し違う議論になったのでは……」

 死期が迫る患者に向かい合う終末期医療の現場では、主治医は精神的な重圧を受ける。チーム医療には、主治医が冷静に判断できるように支える重要な役割がある。富山市民病院では、末期の患者に対する治療方針はチーム医療で決定することなどを申し合わせた。】

 これは、まさに「正論」ですし、僕も本来そうあるべきだと思います。

 しかしながら、現場の感覚で言えば、「人の死なんてものは、そんなに手順通り、予想通りにやってくるものではない」のですよね。高齢の患者さんの場合には、急変されるリスクも当然高いのですから、それこそ、「すべての患者さんに関して、終末期医療を倫理委員会であらかじめ決定しておく」ようにしなければなりません。いや、実際のところ、高齢の患者さんに対しては、さほど重症でないようにみえても「万が一のときは、どうされますか?」と多くの医者が確認するようになってきているのです。でも、家族だって、いきなり入院当日にそんなことを言われても、混乱するばっかりですよね、それはわかってはいるのだけれど。そして結局のところ、どう対応していいかわからないような、主治医も混乱している状態に限って、偉い人たちはみんな「ケースバイケースで対応せよ」とか言うわけですよ。降伏寸前の軍隊じゃあるまいし。

そもそも、「倫理委員会」なんていうのがある立派な病院の多くは、「もう対症療法しかできなくなった患者さん」たちのためにベッドがうまってしまうことを、あまり歓迎していないのです。「その大病院でしかできない、『治すための治療』を待っている患者さんのことを考えれば、それは、やむをえない話でもあるのですが…

 僕たちは、こういう話を読んでいるときは、「終末期医療を受ける患者さん側」に立って考えるわけですが、その一方で、「終末期医療を希望する患者さんが転院を了承されないために、ベッドが空かずに先進医療が受けられない、生死の境にいる患者さん」だって、実際はたくさんおられるわけで、そちらの立場になることだって、十分に予想されることなのです。

「チーム医療」というのはいい言葉なのですが、実際のところ、日本の多くの病院の現実というのは、「患者さんが急変したらいつでも主治医(あるいは当直医)が呼ばれ、ひとりでの決断を求められる」というものです。「チーム医療」とはいっても、看護師さんたちは勤務時間が終われば家に帰れるし(いや、それが悪いということではなくて、そうしなければ看護師さんたちは全然家に帰れなくなってしまうというのも、よくわかってはいるのですが)。人工呼吸器につながれて回復の見込みもなく死を待っている患者さんたちに対して、いつ終わるのかわからない闘いを続けていると、医者だって疲れはててしまうときもあるのです。それは、けっして表に出すことはできない「消耗」なのですけど。極論すれば、人工呼吸器をつけていて意識もない患者さんのために、家族や医者は24時間体制が1ヵ月続いて疲れきっているにもかかわらず、週に1回の回診でしかその患者さんの顔を見ることがない偉い院長や今日だけの担当の看護師さんが「人工呼吸器を外すなんてけしからん!」と言うのが、本当に「妥当」なのかどうか。もちろん、外す前には、御家族の意思や複数の周囲のスタッフによる検討が必要です。でも、正直なところ「患者さん本人や御家族以外の以外の誰が、その選択を高いところから非難できるのだろう?」とも、つい考えてしまうのです。

僕は、最近こんな不謹慎なことをよく考えます。

これからの世の中は、人を「延命」することが求められなくなっていくのではないか、と。
少なくとも、「延命治療」を望まない患者さんや御家族は、確実に増えてきています。

しかしながら、やっぱりみんな「身近な人の死」に対しては、そんなに達観はできないものではあるんですよね、当然のことだとは思いますが。

「末期がんで、何もしないで自然に任せる」はずの患者さんの心臓が急に停まったときに「やっぱり心臓マッサージをしてください」とか「家族が集まるまでは…」などという話になることは珍しくないですし、そういう場合「このあいだは『自然にまかせる』って仰っていたじゃないですか!」なんて言うわけにはいきません。
 結局のところ「事前のとりきめ」というのも、絶対的なものではないのです。

こういう記事を読んで、実際の医療現場とマスコミが求める「理想の医療」との大きすぎるギャップを感じるたびに、僕は正直、「いつまで僕は、この現場に耐えられるだろうか?本当に、耐える必要なんてあるのだろうか?」なんて考えます。周囲の病院からは、「万が一のため」ということでどんどん患者さんが紹介されてきて外来は人で溢れかえり、もともと治る可能性がほとんどない病状にもかかわらず、何も聞かないうちから「医療ミスじゃないんですか?」と疑ってみせる声に傷つけられ。

最前線で入院患者さんたちの主治医として働いている医者たち、「死に向かう医療」に立ち向かっている医者たちにとっての負担は確実に増していく一方だし、たぶん、その流れは、どんどん加速していくのでしょう。

 所詮、偉い人たちの考えることって、「形式を整えること」だけでしかないような気がしてなりません。いくら理想を掲げられたって、3人で野球チームは作れないよ……