WEB日記と守秘義務(2)〜プライバシーの侵害について。

2002年9月24日の毎日新聞の記事より

【芥川賞作家の柳美里(ユウミリ)さん(34)が月刊誌に発表した小説「石に泳ぐ魚」のモデルになった知人女性が「プライバシーを侵害された」として、柳さんと発行元の新潮社などに出版差し止めと損害賠償を求めた訴訟で、最高裁第3小法廷(上田豊三裁判長)は24日、柳さんと新潮社側の上告を棄却する判決を言い渡した。出版差し止めと計130万円の支払いを命じた1、2審判決が確定した。

 最高裁が、人格権に基づいて小説の出版差し止めを認めたのは初めて。第3小法廷は「小説の公表により、モデル女性の名誉、プライバシー、名誉感情が侵害され、出版されれば重大で回復困難な損害を被る恐れがある」と判断した。

 「石に泳ぐ魚」は柳さんのデビュー小説で、月刊誌「新潮」94年9月号に掲載され、単行本の出版も検討されていた。小説のモデルとなった女性は、生まれつき顔に腫瘍(しゅよう)のある友人として登場し、家族関係や生い立ちが具体的に記されている。】

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 この判決を聞いて、僕は、考え込んでしまいました。
仕事上、WEB日記で他人の病気のことについて書くことが多い僕にとっては、悩ましい限りです。さて、プライバシーとは、どの程度まで気をつければいいものなのか?

医者には、「守秘義務」というのがあります。
これは、パート1で書いたように、「職業上知りえた他人の秘密をみだりに他人にもらしてはならない」という職業倫理でもあり、法律上も規定されているものです。

 では、この柳美里さんの場合にあてはめて、この「顔に腫瘍がある女性」というのを僕が日記に書いたとしましょうか。すると、相手が仮にそれを読んで「プライバシーの侵害だ!」と訴えたとしたら、僕はもう、罪に問われること確実。

 この「石に泳ぐ魚」という小説、僕は読んだことないのですが、書かれた女性は「この小説のおかげで、プライバシーを侵害され、ひどく傷ついた」ということで、出版差し止めと慰謝料を要求されています。一方、柳さんは、「実名で書くのは私のスタイル」とコメントされ、今回の判決は「表現の自由」に対する侵害だと考えておられるようです。

 柳さんの言われることは、わからなくもないのです。確かに日本の伝統である「私小説」という形式、いや、私小説に限らず、すべての小説にはモデルがあるはずですし、実体験から何のヒントも得ていない小説なんてのが、果たして存在しうるのかどうか?

 でも、「顔に腫瘍がある女性」というのは、まあ頻度としては、そんなに多くはないでしょう。しかも、その人が柳さんの知り合いということであれば、本人を同定するのは容易なことのはず。
 人気作家であり、社会的な影響力もある作家の文章のモデルとしてとりあげられれば、確かに、人々の噂の種にもなるでしょうし、訴えたくなった人の気持ちも、よくわかります。

 では、柳さんの小説ほど社会的影響力のない、WEB日記の場合はどうなのか?
 まず、病気について書くこと。「糖尿病の40歳くらいの女性」という文章では、まず誰かを同定することはできまい。セーフ?

 しかし、待っていただきたい。WEB日記というのは、小説以上に「誰もがみることができる文章」なのだ。基本的にタダだし。
 よく、「WEB日記の匿名性」とか、「誰だかわからないように名前を変えて書いています」とか言う人がいるが、ほんとうに、みんなそれを信じているんだろうか?

 僕は、日記をハンドルネームで書いているし、居住地や勤務先も明記していないけれど、
 「2ちゃんねる」でネコの虐待画像をアップした男よりは、100%事実が書かれていないとしても、日記の内容から僕が誰かを同定することは容易なはずだ。

 知り合いが読めば「ああ…」というところだらけのはず。
 とすると、登場する患者さんが誰のことをモデルにしているかなんてことも、その気になって調べれば、同定は難しくないはず。

「わからないように、ぼかして書いている」とか「匿名だから」というけれど、その「匿名性」というのは、「わからない」のではなくて、「読み手が、わざわざ詮索する必要性を感じていない」ということによって、成り立っているのだ、たぶん。

 それに、もうひとつ考えておかなくてはいけないのは「プライバシーの侵害」と感じる内容は、ひとそれぞれ異なるということだ。

 たとえば「糖尿病」という病気のことを日記に書かれるだけでも「私の病気のことをいいふらすなんて…」と嫌がる人は、けっこう多いと思う。

 書き手にとっては単なるひとつのネタでも、書かれるほうにとっては誹謗中傷。
 僕は、今回の柳さんのコメントを読んで感じたのだが、柳さんの「芸術は、プライバシーに優先する」という考えは、それはそれで立派。彼女自身も、作品のなかに自分のプライバシーをさらしまくっているし。

 でも、彼女の困ったところは、「世の人々がみんな柳美里じゃない」と言うことが理解できないところにあるんじゃないか。彼女の価値観が、モデルの女性を含むすべての他人に共通なものではないということは、考えればわかりそうなものだと思うのだが…

 それに、柳さんは、プライバシーをさらして、それでお金をそれなりに稼いでいるのだから、何の見返りもなく、自分の秘密をばらされまくるモデル女性が怒るのは、当然のような気がするのだが、違うかなあ。たとえば、広告でお金をもらっているホームページなどでは、こういうことが問題にならないとは限らないだろう。

 評論家の人が「作家の書く対象には、愛がないと」と言っていたが、愛だって、必ず伝わるとは限らないしねえ。

 結局、他人のことを書くのは、本当に難しいという結論になってしまう。
 まあ、誰かが訴えようと思うほどメジャーな日記なんて、ごくごく一握りだし、
 こういうのを杞憂というのかもしれないけれど。