「死にかた」についての主観と客観


「百年の誤読」(岡野宏文・豊崎由美共著・ぴあ出版)より。
(永六輔さんのベストセラー「大往生」についての著者たちのコメントの一部です。)

【豊崎:これ(「大往生」という本)については、わたし、あんまり言うことを思いつかない。でも、たったひとつだけ響いた言葉があった。永(六輔)さんの言葉じゃなくて、きたやまおさむさんの座談会での発言。わたしたち日本人は、死も生も空だみたいな感覚を持っているという考えにつづけて、<友達も信用できないし、金も信用できない、結局なにもなかったんだ、そして消えていくんだみたいな感覚で亡くなっていく方もいるように思います。でも、僕はそれを肯定したいと思います。そうであってもいいじゃないか>と。実はあらゆるベストセラーにはこの視点がなかったりするんです。

岡野:たいがい、マイナス思考を切り捨てるか、マイナス思考こそプラス思考であると反転させるかの、二者択一に落ち着いてしまうだけ。

豊崎:そう。何も信用しないでニヒルに死んでいく人がいたっていいじゃないか、どんな死に方だっていいじゃないかというきたやまさんの考えにこそ真理が宿っていると思った。】

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 きたやまおさむさんは、1946年生まれの作詞家・精神科医・精神分析家で、九州大学の教授をなさっているそうです。僕もこの言葉がなんとなく頭から離れなかったので、こうして取り上げてみました。
 「死」というものに対しては、2つの観点があります。ひとつは「死ぬ側」で、もうひとつは「死なれる側」。おそらく大部分の人間というのは、後者としての体験はあっても、前者の立場になることはないはずです。そりゃ、「臨死体験」なんてのもありますけどね。
 そして、「死なれる側」というのは、大概において、「美しい死」を望むものです。この「美しい」というのは、「誰かをかばって、代わりに犠牲に…」なんてドラマチックなものではなくて、「苦痛に顔をゆがめることがあっても、周囲の人に感謝しながらの安らかな病死」というように考えてください。ドラマなどでは、主人公が荒い呼吸のなか、病床に集まってくれた親族や友人たちに「ありがとう、オレは幸せものだ……、ガクッ」というような「大往生」のシーンがよくありますが、僕が知るかぎりでは、そんなに喋れるような状態のまま息をひきとるということはまずありえません。でも、そういうのがひとつの理想形である、というのもよくわかります。
 「残された側」としては、故人が「周りの人に感謝しつつ、安らかに天国に行った」と思えるというのは、死の悲しみの中でも「救われる」気持ちがしますし、その後の彼らの人生においても、ありがたいことではあると思うのです。やっぱり「死に際」というのにこだわりを持つ人は多いから。
 そういう点では、僕としては、「家族を待つための一時的な延命治療」にも意味があるとは思っています。これはむしろ、「残される人間のため」なのかもしれませんが、それでも「死に際に会えなかった」というのを一生後悔する人がいるよりは、形式だけでも「間に合った」ことにするのは無駄ではないと感じているので。
 しかしながら、「死ぬ側」としては、「綺麗な死に方」をしたり、「残された人たちに迷惑をかけないような死に方」というのは、果たして良いことなのだろうか?なんて僕は考えてもみるのです。中には、「そういうものだ」と信じているために、残された時間を財産整理のために使ったり、礼儀として、感謝してもいない人に「感謝のことば」を贈ったりしているのではないかな、と思うようなこともありますし。
 それとは逆に、昏睡状態でのうわ言や意識障害の状況での「暴言」のために、家族に悲しまれてしまう場合というのも存在しているわけで。「あれが本心なのでしょうか?」なんて聞かれると、僕も悲しくなってしまいます。「いえ、あれは病気が言わせているんですよ」と答えながら、「でも、やっぱり病気であるとはいえ自分が愛している人や身内から酷いことを言われるというのは、周りの人間からしたら、辛いころだろうな、とも感じるのです。
 医者だって、「どうして治療できないんだ、ヤブ!」と言われれば、平然とした表情をつくりつつも傷つくし、「よくしていただいて、ありがとうございました」と言われれば、感謝しつつも、自分の仕事に誇りを感じられたりもするしなあ。
 確かに、こうやって「ニヒルに死んでいく」というのも僕はアリだと思うのです。それもひとつの「死に方」だろうなあ、って。「死ぬ側」になると、やはり何かを「信じたい」という気持ちになる人は多いし、それもまた真理です。でも、その一方で、「死に臨んでも何も信じられない人」というのがいるのも真理なのでしょう。ただ、こればっかりは、自分がどうなるかは、その立場になってみないとわからないことです。
 僕にとっては、今の時点では「死」=「無」ですから、そういう意味では、どんな死にかただって終わってしまえば自分にはわからなくなるのだし、あまり周りに気を遣っても…などと考えてみたりもするのですけど。
 しかしながら、こういう「ニヒルな死」がある一方で、「自分のいい記憶を周りの人に遺してもらう」というのは、ある意味「死んでも生き続けること」に繋がるのかもしれない、という気もするんですよね。
 でも、少なくとも今の僕は「神や国のために死ぬことを義務づけられる」よりは、「ニヒルに死んでいける」ほうが良いと考えています。実際は、「死んでも神のもとに行ける」ことをいざとなったら望む可能性だって十分にあるのですけど。