「過失によって与えられる精神的苦痛」というブラックホール
「訴えてやる!大賞〜本当にあった仰天裁判73」(ランディ・カッシンガム著・鬼澤忍訳・ハヤカワ文庫)より。
【1994年、ニータ・バードは娘のジャニスに付き添われて病院へ行った。20分間の卵巣がん治療を受けるためである。1時間たっても治療が終らなかったため、ジャニスは長引いている理由をたずねた。その頃、ニータを手当てしていた医師はほかの医師に援助を要請していた。約1時間後、ジャニスは、母に合併症が生じていることを告げられた。
その悪いニュースを耳にした直後、ジャニスは母が救命救急診療のために廊下を急いで運ばれていくのを目にした。ニータの容態は悪そうだった。内出血のため真っ青でむくみも出ていた。それから、ジャニスの妹のデイル・エドグモンが病院に到着した。ちょうどそのとき、2人はニータが再び廊下を急いで運ばれていくのを見た。今度は緊急手術のためで、容体は依然としてきわめて悪そうだった。
医療過誤事件として正当な主張をしてもよかった。ニータが緊急事態に陥った原因は、ステージVcのがんではなく治療にあったのだから。しかし、医療過誤を証明するのはかなり難しかったかもしれない。そこで、ジャニス、デイル、さらにもう1人の妹のキム・モランは、「過失によって与えられる精神的苦痛」――訴訟の世界ではNIEDという――を受けたとして訴えた。ところが、話はここからおかしくなる。医師が姉妹の母親にNIEDを与えたと主張されているわけではないのだ。過失によって与えられる精神的苦痛を被ったのは、3人の姉妹だというのである。医師たちが苦しむ母を手術室に急送する――「そのおかげでバードの命が助かったとされている」――のを目にしたせいで、3人は「心に傷を負った」から、というのだ。カリフォルニアでNIEDが認定されるのに必要な3つの基準をクリアするため、訴訟では、3人が「損害を生じさせる事件が起きた場所に居合わせ」、「3人全員が、自分の母親に被告のそれぞれが損害を与えていることを知っていた」と主張されている。3つめの基準は、被害にもっと密接に関係している。
ロサンジェルス郡上級裁判所はこの訴訟を棄却し、医師側勝訴の略式判決を出した。手術中ニータの動脈が誤って傷つけられたとき、姉妹は手術室におらず、したがって「損害を生じさせる場に居合わせ」ていなかったという事実を踏まえてのことである(手術時3女のモランが病院にさえいなかったのは言うまでもない)。
3人の姉妹が控訴すると、カリフォルニア控訴裁判所は上級裁判所の判決をくつがえした。すると、今度は被告側が上告した。この訴訟はカリフォルニア州最高裁判所で決着した。事故から8年後、最高裁判所は全会一致で姉妹の敗訴とし、NIEDの認定に必要な3つの基準を厳格化した。
これはカリフォルニア州、ことによるとわが国(アメリカ)に住むあらゆる人にとってきわめて重要な結末である。なぜだろうか。姉妹が勝訴し、その際の判断が判例法に取り込まれていたら、医師や病院は治療の際に家族を立ち会わせないようにするしかなくなっていたはずだ。医療処置を見守る家族が、精神的苦痛を感じるようなことがあってはいけないからだ。医療処置は(率直に言って)血なまぐさく苦痛な場合もある。患者にとって家族が近くにいてくれれば心強いことを忘れてはならない。姉妹が悪しき先例をつくっていたら、医療専門家はそうした機会を提供できなくなっていたことだろう。】
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まあ、結果的には、この姉妹の「訴え」はしりぞけられたのですが、それにしても、この裁判に8年間も付きあわされた医療者サイドの気持ちを考えると、本当に「訴えられるっていうのは割に合わない」と痛感します。裁判に勝っても、訴えられた側というのは、せいぜい裁判費用を自分で負担しなくて良いというくらいのメリットしかなく、しかも、その裁判費用というのは、こんなふうに訴えられたりさえしなければ、全く必要なかったものですし。
この裁判に関しては、もしかしたら3姉妹は「医療ミス」として訴えたかったのかもしれませんが、状況を考えると「医療ミス」を証明できなかったため、こういう形での訴訟を行ったのだと思われます。もちろん、医療者というのは患者さんはもちろん、周囲の人たちにも、なるべく「不快感」を与えないように注意しなければならないのでしょうが、このような緊急事態では、急いで処置をしなければならないことも少なくないのです。そして、医療行為というのは、それを見る立場の人間にとっては、どちらかというと「気持ち悪い」ことに属するものです。いや、医者や看護師だって、「やらなければならない」からやっているだけで、テレビの画面で同じ映像を観たら、やっぱり愉快な気分にはなれないと思います。
これはアメリカの話なのですが、「不快だった」「心に傷を負った」という人々の主張に対しては、なかなか客観的な評価が難しいことは間違いありません。人の「傷つきやすさ」や「傷つくポイント」というのは、それこそ、千差万別ですから。
世の中には、「がんを告知された」ことによって心に傷を負う人もいれば、「がんを告知されなかった」ことによって心の傷を負う人もいるし、残念ながら医療者というのは、「誰が、どのくらい傷つきやすい人間なのか?」というのを完璧に判断するのは難しいのです。身近なはずの家族だって、「自分の親が告知されても大丈夫か?」と想像してみれば、やっぱり、「確信」までは持てない人がほとんどではないかと思います。医療者サイドとしては、あくまでも「平均的な対応+自分が知っているかぎりのその患者さんの特徴」に基づいてやっていくしかありません。
でも、このように「患者さん側が受けた不快感」が拡大解釈されていけば、近い将来、「もともと手の施しようが無い末期がんだったけど、病院で死んでしまった姿を見て傷ついたから病院を訴える」とか言われかねません。というか、時代は、確実にそういう方向に行っているような気がします。事あるごとに「訴えてやる!」と言い出す人の割合は、どんどん増える一方です。そんなふうに誰かを脅かして動かそうとしても、かえって相手は萎縮し、敬遠されてしまうだけなのに。
いや、例えばラーメン屋で美味しいラーメンを食べたいとき、「不味かったら訴えるぞ!」とカウンターで叫べば、店長は美味しいラーメンを作れるようになると思いますか?
結局、そういう「とにかく訴えてみる」という訴訟の増加によって、医者たちは救急患者や時間外の患者を診るのをどんどん敬遠するようになっていき、「訴えられやすい科」を専門にしようとする若い医者の数は、減っていく一方です。