主治医としてのプライドと自分の生活と
市中病院で働いていると、大学病院などに比べたら、自分の患者さんが亡くなられる瞬間に立ち会う機会は多くなる。担当している患者さんの数も大学よりは市中病院のほうが多いし、その「重症度」も千差万別。大学病院では、基本的に90歳を超えるような超高齢者や悪性の疾患で「治る見込みがない」患者さんに入院していただくことは少ないのだが、市中病院では、風邪の患者さんもいれば、手の施しようがなく、「苦痛を少なくして看取るために」入院していただいている患者さんもおられるのだ。
しかしながら、田舎の病院では、必ずしも病院と医者の住まいが近くにあるとは限らない。研修医は若い医者であれば、「病院に泊まりこむ」あるいは「病院の近くのアパートで生活する」というようにすれば問題ないことなのだが、家庭があったりすると、話はまた違ってくる。医局のローテーションで動いている医者は、早ければ数ヶ月、長くても数年単位で転勤を繰り返すことが多く、そのたびに引越しをして、子供を転校させるというわけにはいかないから。もちろん、そういう「引越し」は、転勤させられる医者本人にとってもストレスなのだが、逆に医者には「職場」というコミュニティがあらかじめ用意されているにもかかわらず(とりあえず「仕事内容」なんていうのは、どこの病院に行っても、そんなに変わるものじゃないし、僕のような協調性に欠ける人間でも、医者としての仕事をやっていれば、みんなから無視されまくる、ということはない)、家族は、またゼロからのスタートになってしまうのだ。というわけで、結果としては「単身赴任」か「長距離通勤」となることが多い。とはいっても、せいぜい車で1時間くらいが、「臨床医としての通勤時間の限界」なのだけれど。
先日、車で1時間かかるちょっと街のほうから通勤している同僚の先生と「通勤時間が長くて、大変じゃない?」という話をしていたのだが、彼は「大変ですけど、通勤で運転するのも、いい気分転換になりますし、家のこともありますからねえ…」と言っていた。「でも、重症の患者さんがいるときとかは、間にあわなかったりもするんじゃない?」とさらに聞いてみたら、彼は「うーん、最初からわかっているときは、医局に寝泊りしたりしますし、1日に家と病院を3往復したこともありますよ。あらかじめ家族と相談して心臓マッサージとかしないと決めてあるときには、当直の先生に頼んで死亡確認をお願いすることもありますね。結局、ずっと病院に住まない限り、どんな急変に対しても、100%対応できる、なんてことはないわけだし、あるていど割り切らないと、自分と家族の生活も維持していけないから…」と答えてくれた。
たぶん、研修医時代の僕だったら、「自分が主治医の患者さんの死亡確認を当直医に任せるなんて!」と、ちょっと憤っていたかもしれない。でも、今の僕には、彼の言葉の意味がよくわかる。それはもう、医者はいつでもどこでもスタンバイ・モードで、急変には駆けつける気概を持っていなければならないと思うのだけれど、「積極的な蘇生をせずに、死亡確認だけすればいい患者さん」に対して、ずっと「そのとき」までモニターを眺めて病院に寝泊りするというのは、かなり辛いものなのだ。大学病院のように、医者ひとりあたりの担当患者さんが少なくて、そういう場面に遭遇する頻度も少ない場合なら「それは、キチンとするのが礼儀だ」と言い切れなくはないけれども、常に「いつ心臓が止まってもおかしくない」患者さんを抱えている状況だったりすると、本当にキチンとしようとするのなら、家に帰ることなんてできなくなってしまう。
「それは主治医の役割だろう?」と思う一方で、「誰がやっても、そんなに変わらないんじゃないかな…」とも感じる。どちらかというと、主治医の自己満足のような気もしなくはないが、初対面の医者に人生の終わりを告げられるというのも、それはそれでなんだかなあ、とも考える。そもそも「死亡確認」という行為をそこまで神聖化してしまっているのは、医者の錯覚なのかもしれないんだけどさ。
今のところ僕は「じゃあ、確認は当直医に任せて」と言い切れるほどには割り切れていないのだが、将来的にはどうなっていくかわからないし、学会発表中で遠くに出張しているときに、自分の患者さんが急変してしまうというのもありえる(今までそういうことが無かったということのほうが、幸運なのかもしれない)。まあ、当直のバイトなどをしている側からすると、初対面の患者さんの確認をさせていただく、というのは、やっぱり気まずいものなんだけど……