『白い巨塔』は、過去の遺物じゃなかった…



朝日新聞の記事より。

昭和大学医学部(東京都品川区)脳神経外科の阿部琢巳教授(43)が、架空の症例や事実と異なるデータを入れた論文を作成し、国内外の学会誌に発表していたことが13日、わかった。虚偽の内容が含まれる発表論文は、95〜01年の間に少なくとも5本に上る。教授は昨年5月に講師から教授に就任したばかり。「論文が採用されやすいようにデータを変えた。教授選を前に負けたくない、という意識もあった」と話している。

 詳細はこちらの記事を御覧下さい。

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 この記事を読んで、最初に僕が思ったのは、「ああ、『白い巨塔』は、過去のものではないんだなあ」ということでした。もちろん、あのままの世界というわけではありませんが。
 この教授は、43歳という若さで教授に就任されました。

11人が立候補し、論文の数や面接などを通じて決められた。阿部教授は当時、講師で、約10歳上の助教授を飛び越えての当選だった。第一筆者(中心となる執筆者)の論文本数は、11人の中で一番多かった】

と記事中にありますが、おそらく、この若い教授が誕生した背景には、彼が優秀な人であったのと同時に、この論文の数の多さというのが、大きいと思うのです。
 大学というところは、臨床の場であると同時に、さまざまな医学研究を行う場です。
 そして、大学のスタッフを決めるときの基準となるのは、実際に患者さんを診る臨床能力よりは、研究実績であることがほとんど。
 「大学というのは、医学の進歩のために、医学研究をやるところである」(裏を返せば、「臨床がやりたければ、市中病院でもできるじゃないか」ということです)というのが、大学側のものの見方だと思われます。
 こういうふうに書くと、「大学病院というのは、やっぱり患者を実験動物にしているのか!」というリアクションをする人がいるのですが、これは、必ずしもそういう意味ではありません。
 もちろん、新薬の治験を頼まれたり、医学生の相手をさせられたりで、不愉快な思いをさせられる患者さんも多いとは思うのですが。
 実際のところは、「大学病院(もしくは、一部の先進的な医療機関)でもないと、医学研究をやるのは難しい」というのが正解。なのです。
 大学病院では(最近では、病院が独立採算制になったりして、お金に関してはだいぶシビアになったとはいえ)、国からの金銭的な助成もありますし、研究のための器材やデータも揃っています。そして、スタッフの数も「充足している」とは言い難い状況ではありますが、それでも「研究をやっている人がいる」という前提でスタッフは編成されています。
 患者さんも、いわゆる「専門的な病気」の方が紹介されることが多いですし。
 さらに、研究を行っていくには指導者が必要なのですが、そういう指導ができる人の多くは大学病院に在籍しているのです。

 というわけで、大学というのは、基本的に「研究重視」の場所ではあるんですよね。
 そして、その「研究実績」を評価する基準となるのが、「論文の数」というわけです。
 研究者としての医者の世界では、【書いた論文の数×その論文が掲載された雑誌の数】というのが、その医者の「実績」となります。
 ただたくさん書くだけでなく、いかに価値が高い(世界的に読んでいる人が多いとか、参考文献として引用される数が多い)雑誌に載せるか、というのがポイント。
 しかし、まあ、これが口で言うほどたやすいことではないのです。
 いわゆる「評価が高い雑誌」に掲載されるには、それなりの内容が求められます。学術的な斬新さとか、論理的整合性とか。
 この教授は、ライバルたちの中で、この若さで第一筆者の論文数第一位ということは、この「実績」が高かった、ということなのです。

 しかし、現実というのはなかなかうまくいかないもので、斬新で論理的整合性を伴った論文を書くのは、とても難しいことです。
 とくに、医学論文の場合には、「発想が斬新である」というだけでは相手にしてもらえず、それを裏付けするデータが絶対に必要になりますから。
 しかも、そのデータを収集するには、安全性がなくてはなりません。当然のことですが、無謀な人体実験のようなデータは、評価の対象外です。
 あとは、対象数が多いほうが確実性が高いとされるので、評価も上がります。
 「この治療法を2人に試したが、副作用は無かった」というよりは、「100人に試したが…」のほうが、より信頼度は高いですよね。
 とはいえ、先進的な治療法の対象になるような患者さんが、そうそうたくさんいるわけもないでしょうし。

 でも、どんなに斬新に思える実験や治療法でも、実際にやってみると、思ったとおりにはうまくいかないものなんですよね。
 そして、論文としては、「従来の方法とあまり変わらなかった」というような曖昧な結論よりも、「この治療によって、劇的な効果が期待でき、副作用はなかった」というような内容のほうが、当然採用されやすくなります。
 もちろん、内容次第、という面はありますが、やっぱりクリアカットな結論のほうが、読者に訴える力がありますし。

 ですから、この教授が「架空の症例」や「データの捏造」を行う気持ちはわかるような気がします。ただ、それは「やってはいけないこと」なんですよね。
 なぜかというと、そういう「捏造データ」がひとつ出てきてしまうと、今までの全てのデータについて、「これは捏造ではないのか?」という疑念が出てきてしまうからです。
 そう、あの歴史の教科書を書き換えてしまった、捏造考古学者のように。
 いくらなんでも、雑誌のレビュアー(論文を選考し、掲載論文の決める人)が、報告された症例のひとつひとつまで実際に自分で確認することは不可能。
 要するに、医学の学術論文のデータ(とくに臨床データ)は、あまりに異常なものや特異的なものでないかぎり、追試もできないし、「著者は事実を書いている」という「信頼」のもとで成り立っているわけです。
 その前提条件がなければ、すべてのデータが信用できなくなるわけで。
 もちろん、あまりに突飛なものはレビュアーも気がつくでしょうけど、専門家が多くの症例の中にひとつやふたつ注意深く捏造したものを入れても、それを判別するのは非常に困難でしょう。

 ところで、僕がなぜ「白い巨塔」を思い出したかというと、「症例の捏造なんて事実は、論文を読んだだけの外部の人間には、まずわかるわけがない」からです。

 つまり、内部告発者がいる、ということ。
 現在でも、教授の椅子というのは、それだけの野望と羨望の対象になっている、ということなんですね。

 「白い巨塔」は、必ずしも過去の遺物ではない。

 こんな事件がなければ、「若い優秀な講師を年齢にこだわらずに実績を評価して公正に選んだ」といわれていたかもしれないのに。
 「論文だけで決まるのはおかしい」と思われるかもしれませんが、教授を選考するのは、「教授会」という現役教授の投票による場合がほとんどで、「論文の実績で」教授になられた方がほとんどなのですから、なかなか変革するのは難しいでしょうね…
 それに代わる客観的な指標なんて、一朝一夕にはできないだろうし。