「自分の時間」は、どこにある?
僕だけなのかもしれないが、医者という仕事をやっていて、ときどき怖くなることがある。それは、御高齢の患者さん、悪い言葉を使えば、「寝たきり」のような状態の方たちばかりの病棟で診療をやっていると、「自分は何をやっているのだろう?」と思うことがある。もちろん「お金を稼ぐための仕事」と割り切れればいいのかもしれないが。
でも「こうして自分の時間を他人のために使っているうちに僕もどんどん年を取っていき、いつか自分もこんなふうに介護される立場になるのかな」とか考え始めると、とてもいたたまれない気分になることがあるのだ。いくら医療というのが神聖な行為だとしても、あるいは、仕事なんてそんなものだとしても、こうして「自分の時間」がないまま、年ばかり取っていくのは、不安でもあるのだ。僕ももう、ただ、ぶっ倒れるまで頑張れるほど若くもないし。
でも、実際に研究室で働きはじめて、「ポケベルや入院患者さんのために『拘束』されない、自分だけの時間」が持てるようになってみると、その「自分の時間」に何をしているかといえば、こうやってサイトを更新するための文章を延々と書いていたり、ゲームをやっていたり、本を読んでいたりだったりと、そんなに「自分の時間の必要性」を声高に主張するほどたいしたことができるわけでもないのだ。結局「自分の時間」なんていうのは、サボる理由に過ぎないのかな、なんて考えたりもする。それでも、ずっと臨床にいて「いつ呼ばれるかわからない」という生活をしているときよりは、精神的にも肉体的にも調子がいいのは確かだ。ずっと電源をオンにしていると、携帯電話の電池のように、どんなに充電しようとしても容量そのものが少なくなっていくような気もするし。
たぶん大部分の人間にとって「自分の時間」は、ものすごく大切なものだろう。しかしながら、「自分の時間」というものに価値を見出しているほど、その時間を有効に使えているかは難しいところだ。「これが私!」とか言いながら、それこそ「典型的な自分探し」をするために、日本人だらけの外国にワーキングホリデーに行くようなもの。「人と違うもの」を目指しているようで、「ガイドブック通りの典型的なマイナー路線」に乗ってしまう。それでも、「何もしない」よりはるかにマシなのだろうけど。
僕ももっと英語を勉強しておけばよかった、とか、何か形に残る作品のひとつでも書けていたのではないか、とか思うけれど、実際にそんな向上心をオフのときにまで持ち続けるのは非常に難しい。「せっかくの休みだから」という理由で、自分が好きなこと、楽しいことをやっている「今日はいいや」が積み重なっているうちに、こんなに時間が経ってしまった。
もっと気楽に「気分転換」とか「趣味に生きる」ことに対して、自分の現状を追認してあげればラクになれるような気もするけれど、なんとなくそれは「負け」なのではないか、という気持ちもあって、いっそのこと「自分の時間」なんて無いほうが僕自身のためには良いのではないか、なんて考えたりもする。それこそ、朝から晩まで病院に詰めて、パソコンの前に座るヒマもないような生活のほうが。「自分の時間をこういうふうに他人の時間と交換して生きること」に懐疑的になって深刻ぶるより、「忙しい…」「疲れたから寝る!」のほうが、健康的なのかもしれないし。
たぶん今の僕はそれなりに幸せなのだろうし、どこに行ってもそれなりに幸せになれるのだろうなあ、とか思うし、その一方で「その程度で満足してもいいのか?」なんて自問自答してみたりもするのだ。
結局は「他人のために時間を使って…」とか思うほど、「他人のため」に生きていないし、「自分のための時間」には、好きなことしかしていないのだ。にもかかわらず、そんなことに悩んでいるのは、自己陶酔なんだよね、たぶん。