「私が看護婦なのではなく、私の仕事が看護婦なのだ」


『そして私は一人になった』(山本文緒著・角川文庫)より。


(山本さんの19961019日の「日記」の一部です)

【世の中の作家の中には、日々全部が小説的な全身小説家の人もいるけれど、私はどうもそういうタイプではないようだ。

 以前、看護婦さんのインタビュー記事を読んでいたら「私が看護婦なのではなく、私の仕事が看護婦なのだ」という台詞に行き当たって、ああ、私のスタンスはそれに似ているなと思った。

 私は小説を書いてお金を稼いでいるのだから便宜上作家と呼ばれるけれど、本当は私自身がまるごと作家なのではなくて、私の職業が小説を書くということなのだ。

 でも、オフの日の看護婦さんも、目の前に病人がいたら知らん顔はできないように、私も日常に起こる些細なことを小説を書く糧にしている。そうして何をしていても頭のどこかで小説のことを考えてはいるのだけれど、看護婦さんが勤務時間を離れれば看護婦さんではないように、私にも“作家であって作家でない時間”というのが必要なのだ。

 そんなことは改めて言うほどのこともない、当たり前なことなのだけれど、そうやってちゃんと意識しておかないと、大切なぼんやりとしている時間すら、自分自身で“さぼっている”と罪悪感を持ってしまいそうになるのだ。】

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 いまは「私が看護師なのではなく、私の仕事が看護師なのだ」と書かなければならないところなのですが、1996年に書かれたものなので御了承ください。

 実は、ここまで書きかけたところで、一度病院に呼ばれて、今まさに家に帰ってきたところなのですけど、僕が医者になっていちばん辛いと感じていることって、「24時間ずっと医者をやっていなければならない」ことなのです。
 入院患者さんを担当していたり、救急病院に勤めていたりすればなおさら。

 家でボーっとしながらバラエティ番組を観ていても、RPGでラスボスと「最後の対決」を繰り広げているときでも、病院からの1本の電話で、「医者スイッチ入ります!」という状態で常にスタンバイしてるというのは、ものすごくストレスなんですよね。

 そういうのがこんなに精神的にも肉体的にもこたえるなんて、実際にこの仕事に就くまでは思ってもみませんでした。

 看護師さんは“勤務時間を離れれば看護師さんではない”というライフスタイルもありなのかもしれませんが、医者の場合は、“勤務時間”という概念そのものがけっこう曖昧ですし。「呼ばれれば休日でも病院に行くのがあたりまえ」という世界なんですよね。

 学校の先生とか看護師さんとか医者というのは、「そういう仕事をしている」という理由で「こういう人間でなければならない」「こういうことをやってはならない」というような目で世間から見られがちです。

 もっとも医者側だって「私は医者だ!」(命を守るたいした人物なんだぞ!)みたいな感じで、自分を代弁するのに職業を利用しがちですし、それだけである種の「世間に対する説明」になってしまうのも事実なのですけど。

 本当は、医者にも“医者であって医者でない時間”が必要だし、そういう時間が欲しいと僕は切実に思っています。でも、現状では、「患者さんの状態が悪くなったら、休日でも駆けつけてくるのが良い医者」というのが世間のイメージですし、それは昔から全く変わってはいないんですよね。

 実際は、「忙しさ自慢」の医者もたくさんいるので、単に僕がこの仕事に向いていないだけ、なのかもしれません。

 それでも、1週間に1日、いや、せめて1ヶ月に1日でも、「完全に電源をオフにできる日」があれば、どんなに救われるか……