無力なる医者の日常
僕にとっては久々の「前線勤務」になって、1ヶ月が経った。幸いなことに、同僚やスタッフには恵まれており、そういう面でのストレスは少ないのだが、やはり、いろいろ考えさせられることは多い。なんというか、あらためて、自分の「無力」と感じることばかりだ。
内科というのは幅広い疾患を扱うところで、とくにちょっと田舎に行けば「専門外だからどうのこうの」とは言い辛い。いやもし、本当に「専門」ということになれば、腹痛の患者さんが来るたびに消化器内科が呼ばれ、喘息の軽い発作の患者さんが来るたびに、呼吸器内科が呼ばれることになる。本当にそういうシステムにしていたら、みんな毎日当直させられているようなものだし、基本的に「内科医は、よほど手に余るもの以外は、内科一般を診る」ということになっている。そうやって、なんとかみんな、最低限のQOLを保っているのだ。
「家族」というものに対して、研修医時代に田舎の病院で働いていたときの僕は、病気が癒えた(とはいえ、やはり、家族にとっては手がかかり、不安の種なのだろう)お年寄りをなかなか家に引き取ってくれない家族やあまり面会に来てくれない家族に対し、「冷たいねえ」なんて、病棟の看護師さんたちと一緒に愚痴っていたものだった。そして、アルコール依存の患者さんに対しては「どうしてあんなになってしまうんだろう、自覚して頑張ればいいじゃないか!」なんて、憤ったりもしていたのだ。
でも、あれから5年くらいの月日が経って、僕は変わってしまった。その「変化」が、正しいものかと言われたら、自分でもよくわからないのだが。
「なかなか引き取ってくれない、冷たい家族」に関しては、患者さん本人はかわいそうなところもあるのだけれど、その家族側の立場になれば、一日中だれかがついていて、お世話をしなければならないような高齢者をかかえているというのは、ものすごく大変なことなのだろうと思う。家族とはいえ、親とはいえ、所詮、自分ではないのだし、自分の人生が他人の介護で終わってしまうというのは、相手がいくら身内だからといって、寂しくて辛いことではなかろうか。僕らにとっては、「○○さんの息子さん」であっても、その人本人は、誰かの息子として日常生活を送るような年齢じゃない。そして、人間が長生きするにつれて、介護をする側はどんどん年をとっていき、やっと「自分の時間」が持てるようになったときには、もう自分が介護される年齢になっていたりするわけだ。
先日外来で、「うちには年寄りがいるから、入院できません」と僕に言った患者さんの年齢をカルテで見たら、当人が70過ぎだったりして、「あなただって、『年寄り』なのに…」と、僕は暗澹たる気分になった。正直、そういう「家族の義務」みたいなものからは、逃げたもの勝ち、なのではないかとすら思えてくる。そしてたぶん、「優しい家族」は、損ばかりしているのだ。
アルコールにしてもそうだ。アルコール依存で、何度もアルコールによる身体的および社会的トラブルを引き起こす患者さんは、けっして少なくない。僕が今までいたような大きな病院では、こういう患者さんを診る機会はあまりなかった。そういう大きな病院に紹介する時点で、あまりに社会的に問題点が多い患者さんは、「紹介するのもなあ…」というふうに考え込んでしまうこともある。もちろん命にかかわる場合は別として。
僕は研修医時代は、「どうして、この人はこんなに弱い人なのだ…」と憤ってみたり、患者さんや家族に一生懸命「説得」をしようとした。もうお酒は飲まないでください、飲ませないでください、と。
それでも、結局、同じことは繰り返され、僕はいちいちガッカリしていたのだ。
でも、今回の僕は、もう、いちいちガッカリしたりはしない。
彼らの大部分は、どんなに真剣な説得を何度も繰り返しても、また、酒を飲む。
そしてまた、病院に戻ってくる。
もう自業自得なんじゃないか、と思うこともあるのだけれど、だからといって、自分が一度診てしまえば、いくら家族が「もういいです。放っておいてください」と言っていたとしても道端に放り出してしまうわけにもいかない。
そして家族は「冷たい」というより、「疲れ果てている」か「諦めている」のだ。いくら家族とはいえ、「自分のせいでもなくて、迷惑ばかりかけられている人のことで、周りには頭を下げ続けなければならない」という状況に。
原則的に病院の中でしか接することのない「医療者」が、一生つきまとわれる「家族」に、「冷たい」なんて言い放つことはできないだろう。しかし、何か起これば「責任」を問われる病院側としても、「もう勘弁してくれ…」というのが本音だったりもする。
結局、アルコール依存の治療ができる精神科の病院にお願いする、という選択をすることも多いのだが、残念なことに、本人が「自分は依存症なんかじゃない、自分でやめられる!」などと叫んで、治療できなくなるケースもけっこうある。多くの場合、本人の同意がないと、「治療」はできないのだ。そして、こういう治療がうまくいったとしても「再発」の危険性は、常につきまとう。でも、そんなのは、家族のせいじゃない。たぶん、本人のせいでもないのだ。精神力とか、そういう問題ではすでになくなってしまっていて、ラジオの電源を入れたら音が鳴り出すように、ごく自然に、アルコールを欲するプログラムに支配されているのだ。
しかしながら、「誰のせいでもない」というのは奇麗事で、僕だってそういう患者さんが酔っ払って外来にやってきたりすると、トイレの壁を蹴っ飛ばし、顔を洗って頭を冷やしてからじゃないと、外来に出られないようなときだってある。「誰のせいでもなくても、自分が迷惑をかけられるのはイヤ」なのだ。そういう感情は、当事者にとっては、理不尽でもなんでもないはずで。
「家族愛」とか「医療者の患者さんへの愛情」というのは、確かに大事なのだと思う。
しかしながら、その一方で、「愛情だけじゃ、どうしようもない」ということが、現場にはイヤというほど立ちはだかっている。いくら家族が「愛情」を注ごうとしても、「愛情」だけでアルコール依存症が治るわけではないのだ。にもかかわらず、そういう「愛情すら持てなくなった家族」に、僕は「冷たい」とか、そういうレッテルを貼って、うさばらしをしていた、というわけだ。
「どうしようもないこと」が、医療の現場には溢れている。そして、僕は、そういうことに対して、あまりにも無力だ。
今は、そういう「どうしようもないこと」の山のなかにごくわずかに混じっている「少しは力になれるかもしれないこと」をなんとかできるようにしたい、そんなふうに思っている。裏を返せば、「大部分は諦めている」のだけどさ。
医者が病気を治せる、なんていうのは大嘘で、医者には治せる病気もある、というくらいが、たぶん真実なのだろう。
【それでも私は人を治すんだっ!自分が生きるために!】
ブラックジャックのこの言葉の意味を、最近、あらためてかみしめている。