「『孫』代理出産」への「理解」と「嫌悪感」


読売新聞の記事より。

【[「孫」代理出産]「現実的なルール作りを急ぎたい」
 還暦を目前にした女性が「孫」を産む――。そんな代理出産が明らかになった。
 生殖医療は進んだが、それに対応した妊娠と出産のルールはない。現状のままでいいか、痛感させられる出来事だ。
 長野県内の産婦人科医によると、がんで子宮を摘出した30歳代の女性に代わって、50歳代の母親が、娘夫婦の受精卵で妊娠し、昨春、出産した。
 生まれた子供は健康という。母親も出産後に更年期に特有の症状は出たが、その後は、改善した。
 もともと、妊娠、出産にはリスクが伴う。しかも、30歳代後半からは妊産婦の死亡率が増える。それを超えて今回は50歳代の後半での妊娠、出産だけに、心臓や血管などにかかる負担は大きい。
 この医師は、母親が「命をかけてでも産みたい」と強く求めたため実施したという。新たな「孫の代理出産」も予定している。だが、大きな危険を伴う医療であることも無視できない。
 代理出産は、子宮を失った女性にとって自らの子を持つ唯一の手段だ。その実施を認めるのか。認めるとすれば、リスクをどう最小限にとどめるか。早急にルール作りをしなくてはならない。
 この問題を巡っては、厚生労働省の審議会が2003年に、出産の危険性などから代理出産を罰則付きで禁止すべきだとの報告書をまとめている。日本産科婦人科学会も同年、代理出産を禁止する会員向けの指針を定めている。
 だが、国会では論議されず、法制化は進んでいない。今回の代理出産は、こうしたルールの空白を突いたものだ。
 同時に、代理出産が自由に実施されている米国に渡る日本人も増えている。それに伴うトラブルも起きている。
 タレントの向井亜紀さん夫婦が米国の女性に代理出産を依頼して生まれた双子の出生届を巡っては、東京都品川区が不受理とし、裁判で争われている。
 現在の法律では、出産した女性が母親とされるため、遺伝上の親子でも法律上の親子として認められない。長野県の例でも、いったん祖母の子として届けられた後、夫婦の子として養子縁組した。
 生まれた子供の福祉を考えれば、法制度の不備は放置しておけない。
 代理出産には、危険性のほか、「人体の道具化」という批判などもあり、フランスのように禁止している国もある。だが、英国は、安全性の確保と、営利目的の代理出産の防止などを前提に、政府の監視の下で実施している。
 こうした事例も参考に、現実的なルールを論議することが必要だ。】


こちらも読売新聞の記事です。

【タレントの向井亜紀さん(41)夫妻が米国の女性に代理出産を依頼して生まれた双子の男児(2)について、東京都品川区は10日、双子の出生届を受理するよう命じた東京高裁決定を不服として、最高裁への許可抗告を同高裁に申し立てた。
 向井さんは同日夜、都内で会見し、再び司法の場に判断が持ち込まれたことについて、「代理母への感謝など、いろいろな気持ちを最高裁に持って行って、頑張ろうという気持ちです」と意気込みを語った。
 向井さんは9月29日の同高裁決定以降、公の場で見解を明らかにするのは初めて。
 向井さんは、夫で元プロレスラーの高田延彦さん(44)と会見に臨み、「(区側が抗告して)次のステージに進むことを予想していた。最高裁の場に行けるのは良いこと」と話した。その上で、「今はいろいろな方法で、赤ちゃんが生まれるようになっている。親や母とは何なのか、もっと話し合われるようになったらうれしい」と、笑顔を見せながら語った。
 高田さんは、「子どもの福祉を大前提に、子どもが幸せになれるような結果を出してもらえるよう待つばかり」と、最高裁の判断に期待を寄せた。
 法務省は10日、「民法の解釈上、母子関係は出産によって生じる。代理出産は判例でも学説でも認められていない」として、同区に抗告するよう指示した。
 品川区には同日午後、電話などで約40件の意見が寄せられた。「子どものために出生届を受理すべきだ」「国の言いなりではなく、区が独自に判断できないのか」など、大半が抗告に批判的だったという。浜野健区長は「子どもを持ちたいという向井さんの思いには胸を打たれるが、高裁の判断が世間一般の合意を得ているかと考えると、もう一歩進んで、司法の場で議論すべきだと思う」と述べた。】

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 この「孫を産む代理出産」に関しては、「いくらなんでもこれは…」というか、「生理的に受けつけない」というような反応が多いようです。うーん、僕の正直、自分の妻のお母さんが、「自分たち夫婦の子供」を産むというのは、あまり想像したくありません。そりゃあ、遺伝子的には「妻にもっとも近い女性」ではあるかもしれませんが、近親を「代理母」にというのは、赤の他人の「代理母」に代理出産を頼むより、かえって「禁忌」であるような印象すら受けてしまうのです。実際に性交渉をするわけではないのですし、代理母と子供の養育権争いなどのトラブルになる可能性もなく、ある意味「合理的な方法」だと言えなくもないのですが。

 ただ、その一方で、「じゃあ、どこまでが許されるのか?」と僕は考えてしまうのです。じゃあ、「体外受精」はセーフなのか?とか。

 おそらく、現代の一般的な「常識」としては、「体外受精まではOK、代理母となるとちょっと……」というくらいが一般的な「線引き」なのだと思います。遺伝的な親子関係だけではなく、「子宮の中で少しずつ赤ちゃんが育っていく」ということを現代人はかなり重視しているということなのでしょう。

 それにしても、僕はネット上で、こういう代理出産に対して「気持ち悪い」「自分はそんなことしない」と大声で批判する人々に対して、ある種の「若さ」を感じずにはいられません。以前に臓器移植のことについて書いたときもそうだったのですが、この母親に「孫」を産んでもらった夫婦も、向井・高田夫妻も、「ふつうに子供ができていたら、わざわざ代理出産という選択をすることはなかった」はずですよね。もちろん「子供なんていらない!」という価値観を持っている人はたくさんいると思うし、僕自身もそんなに自分の子どもが欲しいという気持ちはありません。ただ、それはあくまでも「僕の価値観」でしかなくて、世間には「どうしても子供が欲しい」という夫婦がたくさんいるということも知っていのです。そもそも、僕の「子供なんて別に…」という発想も、「自分は普通に子どもを作る能力がある(はず)」という「自信」に基づいているものですし。「普通に子供ができる」という人が、子供ができなくなってしまった人に「それが運命なんだ」と言い放つことが、そんなに「正しい」ことなのか。多くの人が「人工授精」を受け入れられて、「代理母」を受け入れられないのは、結局、「人工授精」くらいまでは自分の問題になるかもしれないと理解できるけれど、「代理母」というのは想像もつかない世界だ、というだけのことなのかもしれません。

 僕は最近、「どうしても子どもが欲しい人の気持ち」っていうのは、そうでない人、要するに「とくに苦労することもなく子供ができてしまった人」には、理解できないのではないかと感じています。

 以前、「琥珀色の戯言」というブログで、「村上春樹が怖い」というエントリを書いたのですが、それに対して、次のようなコメントをいただきました。

【村上春樹を読むたびに、「装われたものだけが装われたものに惹かれる」という言葉を思い出し、おれは信者にはなれないなと本を閉じます。
原稿流出の事件については、ひとこと、「あんた、やさしさがちっともないじゃないか」と言いたい気分です。
いい大人が、よくもまあ、あんなにめそめそと書いたもんだと。
「信用していたやつに裏切られちゃった、でもあいつにはあいつの事情があったんだよな、まあ、だまされた俺も幼稚だな」とこころで思えばいいことで、それをぺらぺら書くとは、あまりにも幼稚。
川端康成の本の一節に、「父を感じない男を女は愛さない」とありますが、村上春樹が実生活でも小説の中でも父親になれないのは、そのあたりの性格のせいだと思います。】

 実生活の上で、30代半ばという年齢でありながら、「父親」ではない僕は、このコメントを読んで、愕然としたのです。素晴らしい小説をあんなにたくさん「生んでいる」村上さんですら、生物学的に「父親」で無いからという理由で、ここまで全否定されてしまうことがあるのか、と。正直、何も考えて無いようなヤンキーとかでも、やることをやれば、生物学的には「父親」になっている人はたくさんいます。それは、ニュースなどで連日流れている「どうしようもない親たち」のニュースを観れば明らかなことです。彼らは別に、「成熟した父性を持っていたから」父親になったわけではなくて、避妊もせずにやっちゃったから父親になってしまっただけなのです。
 にもかかわらず、「子供がいないこと」というのは(あるいは、「独身であること」によって同様の蔑視を受けることもありそう)、それだけで、ここまでその人の人間性を攻撃する材料になってしまったりすることだってあるのです。

「少子化」(by 見たこと聞いたこと ('06/6/29))
 少子化問題について書かれた↑のエントリの最後に、こんな文章があります。
【ところで、出産にあまり関係ない年齢になった今日この頃、わたしはしみじみ思うのです。わたしのような凡人が後世に残せるものといったら子どもしかなかったなと。後悔先に立たず、って、別に後悔しているわけでもないですが、わたしの未来に待っているのは孤独死かも・・・などと想像するのはなかなか辛いものがあるのです。】

 「老後のこと」はさておき、たしかに「大部分の普通の人間」にとって、「後世に遺せるもの」って、自分の子どもくらいしかないのです。もちろん、人類の共通財産としての「知恵」みたいなものは受け継がれていくのだとは思うけれど、やはり、わかりやすい形での「遺産」って、「子ども」なんですよね。そして、子どもが「できてしまった人」の中にも「子どもなんて要らないと思っていた時期」があった人は多いでしょうし、逆に、「子供を持たないという選択をした(せざるをえなかった)人」で、「子どもが欲しいなんて、一度も考えたこともない」という人は、かなり少ないのではないでしょうか。村上春樹さんの「作品」という人類に誇れる立派な子供がたくさんいる人だって、「生物学的な子供が欲しい」と思ったこともあるはずだと、僕は想像しています。

 今までは、医学の「技術的な限界」が「子どもを持つという選択ができるかどうか」の実質的な「リミッター」となっていました。これだけ不妊治療をしたのだから、仕方が無い、と。
 でも、現在は、「医学的には可能」であることを、「倫理的に許されることなのか?」と考えなければならない時代になってきています。そして、「代理母なんて気持ち悪い」と多くの人が考えていたからといって、「既成事実」として代理出産で産まれた子供が存在していれば、「非倫理的な子供だから殺す」というわけにはいかないのです。現実に目の前に「人間」として存在してしまえば、「その人間をなるべく不幸にするべきではない」と考えざるをえません。命というのは、ある意味、すごくやっかいなものなのです。いくら違法な臓器売買で得た臓器であっても、それが一度体に埋め込まれてしまえば、「違法な臓器だから、取り出す」というわけにはいきませんよね。
 だからといって、無制限に「じゃあ、クローン人間でも許す」なんて方向に行くべきではないと僕は思うのですが、それでも、実際に目の前に「命」としてクローン人間が現れたら、それを「リセット」することができるのかどうか?

 どんなに考えても、僕には答えが出てこないのです。