「後期高齢者医療制度」と「姥捨て山」化する日本


日本は本当に姥捨て山になる。(河野美代子のいろいろダイアリー(2008/5/15


 ↑のエントリと、このエントリのコメント欄などでの反応を読んで、いろいろと考えるところがありました。

 後期高齢者医療に関しては、さまざまな問題点が指摘されていますし、「高齢者」を75歳で線引きすることに何か根拠があるのか僕も疑問に感じています。

 いや、75歳でも元気な人はたくさんいるし、60代でも生活習慣病などで全身状態が非常に悪い人も大勢いらっしゃいますし。

 しかし、現実問題として、いまの医療というのは、「病院の経営陣やスタッフの努力」だけではどうしようもない状況にあるのも事実です。病床数には限りがあるし、医師も看護師も足りない。そのうえ、社会からのプレッシャーは年々高まるばかり。

 これからさらに高齢化社会が進行し、治療を必要とする「病人」が増えていった場合、医療資源の枯渇は明らかです。

 ある絶海の孤島に100人の遭難者がいて、50個のパンがあるとします。1人が24時間生き延びるには、最低限1個のパンが必要です。24時間後に救助が来る可能性があります。それでは、このパンをどのように「分配」すべきでしょうか?

 ジャンケン? 力づく? 半分ずつみんなで食べて、結果的に「飢え死に」する?

 おそらく、この状況が100%「他人事」であれば、僕の答えはこうです。
 まず子供が最優先、続いて若者、次に女性……
 とりあえず、「この先長生きできる可能性が高い人を優先」するのです。

 電車やバスの中では「お年寄りに席を譲る」のがマナーですが、本当にその集団が「生命の危機」にあるとすれば、「集団として、最も犠牲者(損害)が少ない選択をする」のが妥当ではないかと、僕は頭の中では考えるわけです。

 日本の経済状態は悪化しており、高齢者社会に伴って医療費が高騰しているなか(しかし、同僚の医者や看護師さんの給料とかを聞くと、どこにそんなにお金がかかっているのか、とても疑問ではあるのですが)、厚生労働省の人たちは、「医療費にも限界があるのだから、その限られたお金の使い道を考える時期がきている」と言いたいのだと思います。

 それは、医療経済という観点からすれば、至極当然のことなのでしょう。

 ただし、先ほどの孤島の話でいえば、実際には、この100人は「駒」ではなく、それぞれ意思を持って生きている人なんですよね。

 他人であれば、「もう70歳なんだから、あなたにパンをあげるのはもったいない」と言い切れる人でも、その「70歳のお年寄り」が自分、あるいは自分の親だったら話は全然違ってくるのではないでしょうか。

 医療現場でも、「75歳だから」とか「癌で余命が短いから」ということで「何もしない」あるいは「コストがかかるからという理由で治療の質を落とす」ことは難しいことなのです。「日本人全体」として、医療にかかるコストを落とすことの必要性はみんな理解していたとしても、「コストがかかるという理由で自分の親の延命治療を望まない」という人はほとんどいません。実際には、「これ以上苦しめたくない」「本人も日頃から延命治療は望んでいなかった」ということで、ほとんどの死に瀕した患者さんには「それなりの、なるべくゆるやかにその瞬間を迎えられるような治療」が施されている、というのが現状です。

 僕の実感としては、僕が医者になった10年前よりも確実に、御家族も「延命治療は望まない」という場合が増えてきている気がします。

 このエントリで紹介されている、

【しかも、ここにデータがある。厚生労働省のこの制度を中心になって作ったらしい人は、「後期高齢者の人が亡くなりそうなときに、家族が一分でも生かしてほしいと要望して、いろいろな治療がなされたなら、500万とか1000万円の金額になってしまう」と言っている。
 しかし、東京医科歯科大学大学院の医療経済学の教授が10万例以上の調査をしたレポートがある。死亡前一週間にかかった平均医療費は、がんなどの「悪性新生物」が約32.8万円。心疾患で38.9万円。脳血管疾患で22.3万円である。500万とか1000万とかいう金額はどんな根拠で出されたものなのだろうか。】

 というデータに関しては、「500万とか1000万になる」というのは、よほど特殊な状況で、急性かつ重症な病気に対して、緊急手術が行われたり、集中治療室で血漿交換が行われている場合くらいだと思います。そして、これらの高額な医療が行われる場合というのは、「家族の希望があること」はもちろんですが(場合によっては家族を説得して治療する場合もあります)、あくまでも「医療を行う側が、救命・回復の可能性があると判断し、その治療が保険医療として妥当と考えられる場合」なんですよね。ですから、いくら御家族が希望されたとしても、末期がんの患者さんに血漿交換を行うことはありません。現実的にも、「回復の見込みはありませんが、一日何百万円か『生きていてもらう』ためだけにかかります」とお話をすると、ほとんどの御家族は、納得はできなくても、受け入れざるをえないのです。末期がんの億万長者が自由診療の病院に行って、「金は払うから一日でも長生きできるように血漿交換をやってくれ」とでも言えば話は別なのかもしれませんが……

 「500万とか1000万になる」というのは、「宝くじが当たって3億円になることもある」というような話で、「ありうる話だけれども、確率としてはごくわずか」なのです。そういうレアケースをあたかも「よくあること」のように提示して、現在行われている「なるべく穏やかに人間が死んでいくための終末期医療」の平均的なレベルまで落とす必要はないと僕は考えています。

 その一方で、長年寝たきりの状態で施設に入っていた高齢者が死に瀕したとき突然現れて「こんな施設じゃなくて、もっと大きな病院で診てもらわなかったからだ!」と大騒ぎする親類の人などには、「人間には寿命というのがあるのだ」ということを受け入れてもらいたい、とも思うのです。有史以来、死ななかった人間はいないのだから。

 そうしないと、遺された家族も、かえって不幸になるばかりでしょうし……

ところで、ここで紹介されている「その他」(路上や公園などで亡くなった人)に関しては、2030年に47万人まで増えるという数字は眉唾ものです。この「人口動態」(リンク先を見るには、Excelが必要です)を参考にしていただきたいのですが、このデータを見てみると、「2030年には『その他』が47万人」というのは、さすがにリアリティが無いような。

 これはおそらく、「政策によって病院のベッド数や長期療養型病床が減らされており、その上、少子化・核家族化・平均寿命が長くなったことにより、『自宅での死』もそれほど増えないであろう」ということで、今後増えるであろう死亡者たちをみんな「その他」に入れてしまっているのかな、と思われます。

 おそらく、実際にはそんなことはありえない、と信じたいところではあります。

社会不安も招くでしょうし、「47万人の路上での死」に対応するコストのほうが、病院や施設での死を推進するより、はるかに高くつくように思われますし。

 「どんなに高齢者が路上で死んでいっても、お金がないから、これ以上病院や施設は増やさない」という確固たるポリシーがあるとすれば、本当に怖いことなんですけどね……

 それにしても、本当にこれからの日本に必要なのは、「現在の医療コストを削減していくこと」なのでしょうか?

 自分や家族の将来を考えると、北欧諸国のような「高負担、高福祉」という道はないものだろうか、と思うのです。

 もちろん、現在と同じくらいの負担で、それなりの医療レベルを維持していける(あるいは、もっと向上させられる)のならそれが良いに決まっているのですが、どうして、今の政治、そして、日本人には、「働ける世代の負担は増えても、安心して年をとれる社会」という選択肢が無いのでしょうか?

 「働ける世代」も、もう「限界」なのだろうか……

 僕がこの「後期高齢者(長寿)医療制度」に対していちばん感じているのは、もう、年を取ることは喜ばしいことだ、という「建前」さえも失われてしまったのだな、ということでした。

 若者たちがネットで「年寄りにコストをかけてもしょうがない」って言っているのを読むたびに、それは「客観的な事実」なのかもしれないけど、お前らは自分の親が死に瀕したり、自分が年を取ったときにどうなるかという想像力が決定的に欠けているんじゃないか?と考えてしまうんですよね。

 僕も日本が「姥捨て山」になってほしくはありません。

 ただ、実際にいま自宅で介護をしている御家族の姿を目の当たりにしていると、「それは家族の責任だからしょうがないだろ!」って言い切れるような状況じゃないな、とも常々感じているのです。

今は、「90歳の親を60歳の『子供』が介護している社会」です。

親の介護が終わったら、次はもう自分が介護される番。

こういうのは、ある意味「姥捨て山」よりも、はるかにいびつな状況なのではないでしょうか……