告知できなかった『余命宣告』


サンケイスポーツの記事より。

【いかりやさんの長男で会社員、碇矢浩一さん(34)はこの日の喪主あいさつで、医師から「余命宣告」を受けていながらも、いかりやさんに告知できなかったことを打ち明け、天国の父に謝罪した。

 浩一さんは「本当に格好よく、私の自慢の親父でした。人生の師匠でもあり、親友でもあった」と父の思い出を振り返った後、「医者から余命宣告を受けました。オヤジにはその事実を伝えることができませんでした」と切り出した。

 関係者によると、「余命宣告」が下されたのは、遺作となった「恋人はスナイパー 劇場版」(4月公開)の撮影が終わった昨年9月ごろ。「もって2、3カ月」という非情な通告だった。

 浩一さんは、幼少のころ、いかりやさんから「3つの教え」を叩き込まれたという。「『ありがとう』のいえる人間になれ」「『ごめんなさい』の言える人間になれ」、そして「嘘をつく人間になるな」。

 これまでは、教えの通りに生きてきたが、父に対して「死」を告げることだけはできなかった。「私は最後の最後にオヤジの言いつけを破って、嘘をついてしまったことを本当に申し訳なく思っております」と遺影に向かって詫び、「本当に嘘をついて申し訳なかった」と深々と頭を下げた。】


<この話題に関する参考リンク>
「嘘も方便」はわがまま(『D−POINT』)
「私には告げて下さい」(3/25)(『Ocean of Storms』)

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 某巨大掲示板で、「『申し訳なかった』なんて謝罪は、みんなの前で言わなくてもいいことじゃないか?」という書き込みを見て、僕はとても悲しくなりました。「それでも、言わずにいられなかったんだろう?」って。これは、父親への謝罪であると同時に、自分の心にずっとしまっておくのが苦しかったからなんだろうと思います。そして、「どうしてこんなに急に亡くなられたのか?」という「周囲の疑問」への答えでもありますし。

 医者としての立場からすれば、「余命」などというものが明確にわかるわけではないですし、統計として「今までの同じような病状の患者さんではこのくらい生きられました」と言うしかないのです。そして、その予測は外れることも多々あります。良い方にも、悪い方にも。
 でも、「余命を伝えるのが、果たして本人にとって良いことなのか?」という結論は、僕の中ではいまだに出ていないのです。
 もちろん、どちらにもメリット、デメリットはあります。
 「余命を伝える」というのは、ある意味「あなたは助からない」というのを宣言することですから、それを言われた患者さんは、強いショックを受けますし、生きる気力をなくしてしまうかもしれません。もちろん、多くの人は、そこから「まだ自分は生きている」ということで、残りの人生を強く生きていこうとされるのですが。「思い残すことがないようにしたい」と。

 「余命を伝えない」という選択をした場合には、患者さんは「自分が生きられる可能性」を信じることができます。もちろん、体の状態で、なんとなく悟るところはあるにしても、医者から「余命宣告」を受けるよりは、はるかに希望は大きいはずです。「死ぬための準備ができない」というデメリットがありますが、最後まで「いつもと変わらない日常」を送れるというメリットもあるのです。

 今回のことで「いかりやさんに余命宣告をしていたら、本人や周囲も望んでいた『全員集合』をもう一度くらいやれたのではないか?」という意見もありましたが、僕は、正直どうだろうか?という気もします。

 いかりやさんは、亡くなる前のドラマでは声がかすれて出なくなってしまっていましたし、完璧主義の人だったようですから、そんな状況での「全員集合」に、果たして自分で満足できたかどうか?もっともそれは、僕の勝手な想像でしかないわけですが。

 僕は家族側として、「余命宣告」を受けたこともありますが、それを本人に伝えるかどうかには、正直なところ悩みました。その時期は、本人はとくに仕事をしていたわけではなかったし。

 僕が看取ってきた患者さんたちは、自分の余命を知らされると、旅行に行かれた方もいましたが、その一方で遺書を書いたり、財産の整理をされた方もいたのです。

 「残りの時間を自分のためにではなくて、死ぬための準備や周りの人に迷惑をかけないために使ってしまうこと」というのが、果たしてその人の「余命」にとって良いことなのかどうか?

 その一方で、「体力があるうちに財産を整理してもらわないといけないから、告知してください」と言われた親族もおられたりもするのです。もっとも、僕も自分の身内の死とその後の混乱を体験して、それもまた「オトナの判断」なのかな、とも思いましたけど。

 この御長男の言葉を聞いて、僕は自分の親のことを思い出してしまいました。
 迷っているうちに、意識が混濁してしまい、とうとう伝えることができませんでしたから。

 今でも、「もっと早く知らせていれば、心残りがないようにできたかもしれない」なんて考えることもあるし、その一方で、「知っていて苦しむよりは、最後まで普通に生きられて、これはこれで良かったのかもしれない」とも思うこともあるのです。

 「自分のことだから、本人が知っておくべきだ」というのは、ある意味当然のことでしょうし、僕は医者としては、患者さんもしくは御家族の意向に従います。そこで自分の感傷を押し売りするわけにはいきません。

 でも、率直に言うと「余命を知ったら、人間は『何か』ができるのだろうか?」とも感じています。普通に生き、普通に死んでいく人々にとって、「余命宣告」は、本当にメリットのほうが大きいのだろうか?

 いかりやさんの著書によると、いかりやさんのお父さんは、ずっと「堅気の仕事」にこだわっておられたそうです。「堅気だからこそ、芸人の芸を笑えるんだ」って。
 いかりやさんの長男が普通のサラリーマンとしてこの式に臨んでいること自体、いかりやさんにとっては、親孝行なことなのかもしれません。

 しかし、他人からそんなふうに言われても、やっぱり「言うことができなかった」家族というのは割り切れないものを抱えていくんですよね、ずっと。
 みんなの前で「申し訳ない」と言われたのは、たぶん、浩一さんの「懺悔」だったのです。自分の心の中だけにしまっておくのが、あまりに苦しかったから。

 「余命を知らされていようがいまいが、いかりや長介さんの人生は、幸せなものだったと思います。僕は、そう信じたい。