「じゃあ、私たちのビニールシートは?」


「風に舞いあがるビニールシート」(森絵都著・文藝春秋)より。

(表題作「風に舞いあがるビニールシート」の一部です)

【「あなたは怖いもの知らずの勇者でありたい。いつでもすべてを投げだしてフィールドへ飛んでいける身分でいたい。だから妻だとか家庭だとか子供だとか、そんなお荷物はまっぴらごめんなのよ。あなたが守らなきゃならないものも、あなたを守ろうとするものも」

「聞いてくれ、里佳。たしかにそれもあるかもしれない。でも、それだけじゃないんだ」

「ほかになにが?」

「ビニールシートが……」

「え?」

「風に舞いあがるビニールシートがあとを絶たないんだ」

 夜、うなされたときのあの悲痛な声をエドがしぼりだすものだから、里佳は一瞬、本気で彼がどうにかなってしまったのかと思い、ぞっとした。が、しかしエドはよどみのない冴えた瞳でカルバドスのグラスを見つめている。このぼんやりとした温泉地の煤けたホテルの薄暗いバーの中で、誰よりも冴えた目をしている。

「もう君は聞き飽きたと思うけど、僕はいろんな国の難民キャンプで、ビニールシートみたいに軽々と吹きとばされていくものたちを見てきたんだ。人の命も、尊厳も、ささやかな幸福も、ビニールシートみたいに簡単に舞いあがり、もみくしゃになって飛ばされていくところを、さ。暴力的な風が吹いたとき、真っ先に飛ばされるのは弱い立場の人たちだ。老人や女性や子供、それに生まれて間もない赤ん坊たちだ。誰かが手をさしのべて助けなければならない。どれだけ手があっても足りないほどなんだ。だから僕は思うんだよ、自分の子供を育てる時間や労力があるのなら、すでに生まれた彼らのためにそれを捧げるべきだって。それが、富める者ばかりがますます富んでいくこの世界のシステムに加担してる僕らの責任だって」

「責任?」

「もしくは、贖罪」

「………」

 里佳はウエイターにもらったぺリエで口を湿らせ、これ以上ないほどに深々と吐息した。
 ほかになにができるだろう?

「ねえエド、あなたには私が血縁だとか、遺伝だとか、DNAだとかにこだわるエゴイストに見えるかもしれない。実際にそうよね。でも、なんと思われても私、あなたの子供が欲しいのよ。この世界にたった一人しかいないあなたの子供が……。これからも二人でUNHCRの仕事にできるかぎりの力をそそぎながら、一方で私たちの子供を育てることはできないのかしら」

「地球にはもう十分すぎるほどの人間がいるんだよ。十分すぎてとても救いきれないほどの命がひしめいていて、さらに増えつづける。空を真っ黒に塗りつぶすほどのビニールシートがつねに舞っているんだ」

「じゃあ、私たちのビニールシートは? 誰が支えてくれるの?」

 里佳はついに叫んだ。抑えきれなかった。

「私たち夫婦のささやかな幸せだって、吹けば飛ぶようなものなんじゃないの? あなたがフィールドにいるあいだ、私はひとりでそれに必死でしがみついているのよ。あなたはなにをしてくれたの?」

 これを言ったらおしまいと胸に押しこめていた一言――。
 エドの答えは、その「おしまい」をより完全にしてくれるものだった。

「仮に飛ばされたって日本にいるかぎり、君は必ず安全などこかに着地できるよ。どんな風も君の命までは奪わない。生まれ育った家を焼かれて帰る場所を失うことも、目の前で家族を殺されることもない。好きなものを腹いっぱい食べて、温かいベッドで眠ることができる。それを、フィールドでは幸せと呼ぶんだ」】

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 第135回直木賞を受賞された、森絵都さんの短編集の表題作の一部です。文中のUNHCRというのは、国連難民弁務官事務所のことで、主人公の里佳は、転職先のこの組織で9歳年上のエドと知り合い、結婚したのです。
 しかしながら、フィールド(難民たちがいる最前線)での活動を生きがいとしつづけているエドと、「夫婦のささやかな幸せ」を渇望するようになっていく里佳の間には、「価値観の違い」が表面化していくのです。
 この2人の会話の場面で、僕は自分の「仕事」を考えていたのです。医者という仕事も、病気と闘う「弱い立場の人々」と接していく仕事であり、世間には、それこそ「プライベートを犠牲にして、医療に身を捧げている医者」がたくさんいるのです。彼らは「名医」として患者さんたちから讃えられます。まさに、この作品でのエドのように。
 でも、そういう「身を粉にして働く医者」が、本当に身近な人を幸せにできているかというと、必ずしもそうではないのですよね、きっと。もちろん、夫や妻の「仕事」に理解や誇りを持っている家族のほうが多いのでしょうけれども、それでも、「ずっと病院にいてくれる先生」というのは、家族からすれば「家庭を顧みない夫や妻、全然家に帰ってこない父親や母親」なのです。そりゃあ、「働かないよりマシ」なのかもしれないけれども。
 「他人のために、身を削って働く」というのは、非常に尊いことです。赤の他人からみれば、「マイホーム医者」よりも「医療にすべてを捧げている医者」のほうが、頼りがいがあるでしょう。ただ、実際問題として、「仕事と家庭の両立」というのは、仕事を高いレベルでやろうとすればするほど、難しくなっていくのは間違いありません。
 それでも「他人のために働く」というのは「正しいこと」であり、そしてそれが「正しいこと」であるからこそ、「家庭を維持していく」という、もうひとつの「正しいこと」との対立は深刻なのです。
 今まさに病気で苦しんでいる人がいるのだから、幸せな家庭生活なんて贅沢だ、というのは、ひとつの「考えかた」であって、正しいとか、正しくないとか評価できるものではありません。でも、それについていける人ばかりとはかぎらないのです。
 難民たちのように生命の危険にさらされることはないとしても、「普通の」医者や医者の家族だって、所詮「ビニールシート」でしかないのかもしれません。

 僕はさまざまな場所で、「いい先生」の家庭が、「仕事熱心なあまりに」崩れていった例をいくつも見てきました。もっとも、「オンナ好きだったために」崩れていった例は、もっとたくさん知っていますけど。