語りたがる「専門家」たち
共同通信の記事より。
【インターネットで知り合った男性3人が今年3月、富山市で集団自殺を図り1人が死亡した事件で、生き残って自殺ほう助罪に問われた東京都西東京市の大学生(21)の公判が6日、富山地裁であり、手崎政人裁判官は「パソコンだけと向き合わない方がいい」と大学生を諭した。
手崎裁判官は、大学生が自殺サイトにアクセスしていたことに触れ「年齢を問わず人と付き合うことが君には欠けていたのかもしれない。人間はみんなで生活している」などと優しく説いた。
同裁判官が「最後に言っておきたいことは」と問い掛けると、大学生は「自殺というのは良くないと(他の人にも)言いたい」と素直に答えた。
この日は証人尋問などの後、検察側が懲役2年を求刑、弁護側が最終弁論を行って結審した。】
参考リンク:きんきょうほうこく(6/2)の「ど変態」「二度とやらないように」
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僕はこれらの記事と参考リンクの記事を読んで、今までなんとなく感じていた「違和感」の正体が、ちょっとだけ掴めたような気がしました。
確かに、こういう「語る裁判官」というのは最近増えてきたような印象があって、それに対して、公の報道では、上の共同通信の記事のように、好意的な見方をされている場合が多いようです。でも、考えてみてください。この裁判官の「説諭」は、自殺を図った大学生の心に、本当に届いたと思いますか?
なにはともあれ、「死という選択肢」を選ぶというのは、よほどのことに違いないはずです(まあ、そうであって欲しいという願望込みですが)。一方、この「諭した」裁判官は、司法試験に通っているくらいですから、比較的人生順風満帆で、周囲の人々と豊かな人間関係を築いていたのではないでしょうか。もちろん、エリートにはエリートなりの挫折もあれば、捨ててきたものもあるはずで、「裁判官=幸福」という紋切り型の見方をするのもまた偏見なのでしょうけど、少なくとも「パソコンだけと向き合わざるをえないような精神状態」に追い込まれたことはない場合がほとんどでしょう。
それでも、この裁判官は、「ひとりの大人として」大学生を諭しました。
ただ、こういうのって、近所のオッサンが語る「人生論」と似たようなものではないかなあ、と僕は思いますし、この大学生が「自殺が悪いことだ」と考えたのは、この裁判官に諭されたからではなく、仲間の死という現実から自分で学んだ教訓でしかないような気がします。あるいは、「せっかく生きられたのに、刑務所じゃかなわない」と、内心舌を出しながら「自殺はよくない」と答えてみせたのかもしれず。
僕は、医者という仕事をしてきて、困ってしまう瞬間というのがあるのです。
それは、亡くなられた患者さんの御家族に「ありがとうございました」と頭を下げられる瞬間。
そのとき、僕はいつも心のなかで逡巡するのです。
「さて、僕は、この御家族に何か言葉をかける、あるいは返事をするべきなのか?御家族は何か医療側からの言葉を期待されているのだろうか」と。
僕はそんなにたくさんの例を知っているわけではありませんが、こういうときの医者の反応というのは、本当にさまざまです。
「ご愁傷さまでした」という医者もいれば「残念でした」とか、「よくがんばっていただいたのですが…」と言う者もいます。
ちなみに僕は、最近は「黙って頭を下げる」ことしかできません。
僕の中では、「ご愁傷様」「残念でした」は、他人行儀すぎるし、「がんばっていた」なんてことは、人生の先輩に対して失礼な気もします。「ありがとうございました」も、ちょっとヘンだし。
結局、「沈黙は金」という、日本人的な反応で、黙って頭を下げるのみ、になってしまうんですよね。
上の記事のような「自分の言葉を付け加えてしまう裁判官」の気持ちはよくわかります。裁判の世界というのは、現状では「判例主義」であり、法律のプロである裁判官は、「その案件に対する、法律的常識を逸脱した判決」を下してはならないとされています。要するに、裁判官という仕事にはあまりクリエイティブな要素はなく、「判決決定マシーン」であることが望まれているのだし、なんのかんの言っても、周囲が裁判官に期待していることも「罪を犯した者に、順当な刑罰を科し、その一方で、冤罪を見抜くこと」でしょう。
でも、現場の裁判官は、そういう「判例主義のルーチンワーク」に対して、飽きてしまったり、閉塞感を持っている人も少なくないはずです。そんな日常の中で、「自分らしさ」を出したい、という欲求が出てくるというのは、ある意味自然なことなんですよね。
それで、こういう「語る裁判官」というのが、出てきてしまう。
太平洋戦争後に、極東軍事裁判で裁かれたA級戦犯たちに対して、「このような、戦勝国が一方的に敗者を罰するような裁判は、国際法上許されない」という「個人的見解」を示した判事がいたのですが、そういう例は別として、個々の犯罪レベルで「自分をアピールしてしまう」という裁判官には、僕は、あまり好感は持てません。やっぱり、「それは裁判官がやるべきことではない」と思うから。
彼らの仕事は「裁くこと」であって、「諭すこと」ではないはずです。
医者という仕事にしてもそうで、僕は、医療者というのは、あくまでも「黒子」だと思っています。自分が優秀な医者であることをアピールしたり、自分の死生観を患者さんや家族に押し付けようとしても、僕が家族だったら「語るより治せよ!」としか感じないでしょう。そもそも、医者というのは、宣教師ではないのですから。患者さんや家族の人生をサポートするための存在で、自分を前面に押し出すのは筋違いです。
でもね、医者という仕事も、やっぱり「ルーチンワークの閉塞感」に囚われやすい面があるんですよね。ある病気に対する治療法の「正解」に、そんなにたくさんの種類があるわけでもないし、とくに内科などでは、薬を使って、あとは経過を見守るだけになったりしがちです。そうなると、やっぱり、「これは、自分じゃなくてもできる仕事なんだな」という不安に襲われたりもするんですよね。
だから、そういう「人間の死」というドラマチックな場面において、ついつい「自分を出してしまいたくなる」のかなあ、とも考えるのです。そして、そうやって「語る」ことも、相手によってはプラスだったりもしますから、あながち、間違いでもないのでしょう。
僕はむしろ、「自分は遺族ではない」と、無用の不快感を与えることを避けようとしてしまうのですが……
結局、裁判官も医者も、そういう「職業的公正」と「人間性」のあいだで、常に揺れ動いている存在なのかもしれません。まあ、そう言いつつ僕も、臨終直前に御家族が「聞こえていますよね」と言いながら呼びかける声に、「医学的には、聴こえてないと思いますよ」と答えられるほどの「完璧医療マシーン」にはなれませんけどね。