「老人介護」の理想と現実


参考リンク:医学都市伝説(9/26):老人介護を楽になる方法



まず、上の参考リンクの記事を読んでいただきたいと思います。

 僕は内科の医者なので、せん妄や異常行動が主訴でる患者さんを診ることはありません…と言いたいところなのですが、田舎に行くと、「うちの年寄りの様子が何かおかしい!」というときに、精神科を最初に受診されるというパターンは、ほとんどないようです。まず「脳とか他の臓器に何か異常があるのでは…」というようなことで、内科(あるいは脳外科)に来られることが多いのです。あるいは、他の病気(たとえば肺炎など)で入院されたはずなのに、その病気が治っても、徘徊や問題行動などがみられ、御家族から、「退院しろと言われても、家では面倒みきれません!」ということで、医療者側も苦慮してしまう、ということもあります。
 そのような患者さんと接していて感じるのは、「愛情を持って」というのも大事なのかもしれないけれど、愛情だけじゃどうしようもないことがある」ということなんですよね。僕は医者になるまでは、「どんな人だって、話せばわかる」と信じていた(ような気がする)のですけれど、少なくとも医療の現場では、それはやっぱりちょっと「非現実的」なことなのです。それこそ「愛情で癌が治らない」のと同じように。
 僕が研修医だったころには、大学病院の研修医は、とにかく、「受け持ちの患者さんに何かあったら呼ばれる」のが当然だったのですが、僕たちを悩ませたことのひとつが、「入院されている高齢者の夜間の不穏」でした。あまりに不穏が重度のときには、「先生、主治医でしょ。501号の患者さん、夜はすぐ起き上がってどこかに行こうとしたりして危ないから、ずっと部屋で患者さんについててくださいね。私たちは夜勤の人数も少ないし、忙しいですから」などとベテランの看護師さんに言われて、患者さんのベッドサイドに座って夜を明かすことになります。いや、僕たちだって、忙しいというか、全然寝てないんですけど、などと思いつつ、半分居眠りしながら椅子に座ってうつらうつらしていると、絶対安静で、昼はずっと寝ていたはずの患者さんが、いきなりベッドの柵を乗り越えようとする→必死で「危ないですよ!ベッドで休んでいてください」→しばらく説得して、なんとか患者さんはベッドに横になる→5分くらいで、また起き上がって柵を…以下朝までその繰り返し。覚えたての鎮静剤を使ってみたりしてもどうしようもなく、あのようなときは本当に辛かったし、自分の無力を感じました。何度「心をこめて」もう寝ましょうね、と言ってみても、本当に、同じことの繰り返しなのです。ギリシャ神話の、重い岩を坂の頂上まで押し上げたら、またすぐにごろごろと転がり落ちてきて、最初からやり直し、という「神罰」のことを思い出してしまうくらいに。
 結果的には、精神科の先生に相談して薬を調整してもらい、なんとか「付き添い連泊」からは解放されたのですが、そのときに感じたのは、一安心したのと同時に、「誠意」とか「愛情」よりも、1アンプルの鎮静剤のほうが必要なときもあるのだ、ということでした。まあ、これは内科にも言えることで、「痛みを気にしないように説得すること」よりも「鎮痛剤を処方すること」のほうが大事なときもある、ということなのでしょう。ただ、薬というのは副作用もあるし、僕たちとすれば、「安全性を考えれば、使わないほうがいいのかな」と思うことも多いのですけどね。

 「認知症による異常行動」というのは、「もう!おじいちゃんダメじゃない!こんな夜中に家の外に出ちゃ!」というくらいのイメージしかない人もいるのだと思うのですが、例えば「家の外に出て道路に飛び出して車にひかれる」なんてことがあれば、本人が傷つくのはもちろんですが、轢いてしまった側にも一生の心の傷になるでしょうし、なかには、被害妄想になって他人を傷つけてしまったり、いきなり車の運転をはじめてしまうなんてこともあります。そうなっては、「本人だけの問題じゃない」のですよね。相手が認知症だろうがなんだろうが、暴走してくる車に轢かれれば、死んでしまうことだってあるわけですから。しかしながら、いくら家族だって、誰か患者さんをずっと見張っているということになれば、「介護する側の生活」も滅茶苦茶です。
 基本的に、「めんどうみきれないから」というようなことで家族を施設に入れたりすることに対して、現代の日本の社会では、「身内なのに無責任だ!」と、まだまだ否定的な見方をする人が多いようですが、僕が実際にそういう患者さんと接してみた印象としては、重度の場合には、「本人の人間的な生活」よりも「とにかく自分と他人を傷つけないようにさせること」を優先させなければならない事態もあるのと思います。ただ、そういうケースを全部専門的にフォローできるほど精神科の医者は多くないですし。それに僕だって、さんざん困り果てて精神科に紹介した患者さんなのに、「このくらいだったら、とりあえずこの薬を飲んでもらってください」なんて、日中の様子だけみて軽い安定剤の処方だけでお茶を濁されてしまい、なんだかなあ、と思うことだってあるのです
 そして、「家族だから家で面倒をみなければ」という日本人の「家族観」みたいなものが完全に崩壊してしまって、「認知症なんだから、病院で診るのが当り前だろ!」と家族が言い切るような社会になってしまったら、それはそれで病院や施設というのは、あっという間にパンクしてしまうでしょう。というか、もうすでに、「入所予約をしても数ヶ月待ち」が常識なので、パンクしてしまっているんですけど。

 もちろん、「愛情」とか「敬意」を持って接することは大事です。でも、それだけじゃどうしようもないこともあるのですよね。「こんなにいろいろとしてあげているのに!」と自分を責めたり、相手を責めたりする前に、「これは、そういう病気なのだ」と受け入れるべきなのです。でもね、頭ではそうわかっていても、自分の大事な人に酷いことを面と向かって言われたり、暴力を振るわれたりしたら、気にするな、傷つくなというのが無理ですよね……
 「ボケて他人に迷惑をかけるくらいなら、死んだほうがマシ」ってみんな言うけれど、実際にそうなってしまうと「死」の方向よりも、食事とか排泄へのこだわりみたいな「過剰すぎる生への欲求」に向かってしまう場合も少なくないし、だからといって、家族も「死なせてしまう」わけにはいきませんし。

 ところで、参考リンクの文章のなかに、【痴呆老人への対応のエキスパートはそこらの医療福祉関係者ではなく、リフォーム詐欺などを生業にしている連中であろう。】という文章があって(内容は前後とのつながりまで含めて確認していただくようお願いします)、僕はこれを読んで、「お年寄りが、医者の処方する『医学的に正しい薬』に対して拒否的で、あやしげな『健康食品』に好意的な理由」が、少しわかったような気がしました。「理屈としての正しさ」だけで伝えようとするのは、あまりにも相手のことを知らなさすぎるのかもしれません。

 僕が以前教えていただいていた先生に、親の介護をしなければならないから、と、結婚もされずにずっとお母さんの介護をされていた方がいました。
 本当にいまは、60歳くらいの人が、90歳の親を介護している、そんな時代なのです。そして、今後の日本の見通しからすると、高齢者介護に対する行政サービスは、低下することがあっても、向上することは考えがたいように思われます。病院側にしても「手間ばかりかかって、あまり利益にならない仕事」であるようです。
 少なくとも、もう、「とにかく長生きすればいい」という時代ではなくなってきているのです。
 そう考えると、医者って、とくに内科医って何なのだろうな…という、暗澹たる気持ちにもなってくるのですが。