「人体の不思議展」に殺到する人々


「週刊SPA!」2005年3月1日号の鴻上尚史さんのエッセイ「ドン・キホーテのピアス」より。



【この『人体の不思議展』にこれだけ多くの人が殺到しているということは、つまりは、人体という「自然」をみんな知りたいんじゃないのか。

 それは、人間が作り上げる「理論」に対する反発や嫌悪、懐疑が根底にあるのじゃないか。

 で、人体を見ながら、おいらの体も同じなんだよなあ、と思いました。同じものを持っていて、自分ではわかってないだけなんだ。

 ベタなものが流行ること、ウェルメイドが主流になること、それは、「共同体への郷愁」だと僕は書きました。ハリウッド映画が世界的に流通するのは、「どんなに世界がバラバラになっても、ほら、同じ物語で私たちは感動して、泣くんです。だから、人間はきっと理解し合える、わかり合えるんです」という信仰を意図して作り出す戦略があるからです。だからこそ、ベタな物語で、誰もがハラハラ・ドキドキする展開を目指すのです。

 孤絶が嬉しい人間なんていません。誰かとつながっていること、一人ではないと、そこに人間は郷愁と希望を感じます。

 人体標本を見ながら、「そうだよなあ。理論がどんなにバラバラになっても、僕たちは同じ身体構造を持ってるんだよなあ。同じ内臓と同じ血管と同じ筋肉なんだよなあ。知らない人の体を見て、自分を知ることができるんだよなあ」としみじみしました。

 多くの人が『人体の不思議展』に殺到することに、僕は希望を感じたのです。

 それは、引きこもって、ネットが生活の中心になっていく人たちが、自分の身体を忘れ(簡単にいえば激しく太り)身体を無視していく方向と逆のことです。】

参考リンク:人体の不思議展ホームページ(京都展)

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 この「人体の不思議展」が東京ですごい数の人を動員している、という話は聞いていたのですが、取り上げようと思っているうちに2月28日で東京展は終わってしまい、4月2日からは京都展がはじまるようです(参考リンク参照)。ちなみに、この「人体の不思議展」では、プラストミックという方法で、本物の人間の身体を処理して展示しているのだとか。

 僕たちにとっては、人間の身体というのは、まさに「仕事の対象」ではあるのですが、内科医である僕は、病理という世界に足を踏み入れる前までは、「生の人間の中身」というものを、学生時代の解剖実習、あるいは、医者になってからの内視鏡検査などで部分的にしか、見ることはありませんでした。もちろん、CTとか単純X線、エコーなどで「情報」としては臓器の状態をイメージしてはいるのですが、それはあくまでも「写真」という2次元の世界に焼き付けられたもの、ではありましたし。

 そして、病理という仕事で、人間の「中身」を見せていただくようになると、やはり、今まで「知識」として持っていたものと、実物とのギャップというのは、けっこう大きなものだったのだな、とあらためて思い知らされました。まあ、正直言って、仕事の対象として考えると、人間の身体というのは複雑でありながら合理的ではあるし、素晴らしい機能美も持っているんだけど、たくさん血が出たりするのは、あんまり気持ちのいいものじゃないなあ、とか感じてもいたんですけどね。

 そういう意味では、僕はどうしてこんなにたくさんの人たちが「人体」を観るために足を運ぶのか、ちょっと不思議にも思っていました。だって、人間の「中身」を知ったからといって、仕事に関係していたりしなければ、現実的なメリットなんてあんまりなさそうだし。

 でも、この鴻上さんが書かれているものを読んで、僕にもなんとなく「人体の不思議展」に人々が魅かれる理由というのがわかったような気がします(【引きこもって、ネットが生活の中心になっていく人たちが、自分の身体を忘れ(簡単にいえば激しく太り)身体を無視していく方向と逆のことです。】というのは、ちょっと偏見が酷いなあ、とは思いましたけど)。

 僕は、ハリウッド映画やベストセラーの「あまりにも典型的すぎる内容」に対して「どうしてあんなベタな物語しか創れないのだろう?」と疑問に思っていたのですが、ここに書かれているように、「共有するための物語」であれば、あまり前衛的なものやマニアックなものでは、その目的を達することは難しくなります。「物語」そのものというよりも、「他人と感情を共有するためのツール」になってしまっている、ということなのでしょう。その一方で、「自分にしかわからない」と観客に優越感を与えるような「マニアックな物語」も存在しているのですが。

 でも、いくら「共同体への郷愁」を目的として物語をつくりあげても、現実的には、それを受け取る人たちの宗教的・政治的な背景などによって、あるいは、ひとそれぞれの「個性」によって、「100%の共有」というのが不可能であるのは言うまでもありません。ある文化の中では感動を呼ぶ物語が、他の文化では「宗教的冒涜」になったりするのは、けっして珍しいことではないですし。

 そんな、顔かたちや使う言葉や肌の色や信じる神が違う生き物たちが、同じ「人間」であり、「仲間」であるという最大の「よりどころ」って、実は「一皮剥けば、同じ内臓がつまっている生き物」だという点なのかもしれません。逆に、同じ「生き物」でも、中身が人間に近い哺乳類などは、人間にとって「親近感」を抱かせる存在ですから。

 そう考えると、こんな時代だからこそ「同じ人間である証拠」を再確認したくなる、という気持ちが高まるのは、当然のこと、という面もあるような気もします。たくさんの人間の「中身」を見ていくと、逆に「全く同じものは2つとして存在しない」んですけどね。

 …とか言いながら、僕自身は自分の胸部レントゲンとか胃カメラの写真とかを見ながらも、「自分の体の中に内臓がつまっている」ということに対して、今ひとつ「実感」が湧いてこなかったりもするのですけど。

 ひょっとしたら、自分だけは精巧な機械なんじゃないか、とか、たまに考えてみたりもするのです。ほんと、「自分も同じ」と「自分は違う」のあいだを行ったり来たり……