「医龍」第2回と「抗がん剤治療」の意義
というわけで、昨日も「医龍」を観てしまったのですが、昨日のドラマで取り上げられていた「新薬の抗がん剤を使っていた、末期がんのおばあさん」のエピソードに、僕は違和感をおぼえずにはいられませんでした。
僕自身は、個人としては「延命治療消極派」なのだけれど、それはあくまでも個人的な見解であって、現場ではなるべく患者さん本人や御家族の意向に沿うようにしたいと考えているし、実際にそのようにしているつもりです。もっとも、すべての患者さんや御家族が満足・納得してくださっているのかと問われたら、正直、そんな自信はありません。「死んでしまう」という現実の前に、「100%の満足」なんて無理なのはわかりきっていることだし。
「医龍」に出ていたおばあちゃんは、末期がんに対して「少しでも効果があるなら」と新薬の抗がん剤を使用されて、吐き気などの副作用に苦しめられていた。にもかかわらず、「効くかもしれないから」と抗がん剤の使用を続ける医療側。「死ぬのはともかく、苦しんでいるところを夫に見せたくない」という患者さんに、朝田龍太郎は言い放ちます。「あなたは末期がんだ。あの抗がん剤は、効きませんよ」と。
そして、おばあちゃんは抗がん剤の治療をやめ、緩和ケアを受けて穏やかな日々を過ごす。大好きな甘いものも食べられるようになった。亡くなる日、おばあちゃんは、主治医だった研修医に感謝のメールを送る……
なんて「美談」なんだろう、と僕も思います。でも、本当にこれで「めでたしめでたし」でいいのでしょうか?
リリー・フランキーさんの『東京タワー』では、このドラマとは逆に、「抗がん剤による治療に消極的な医者」に対して、「1万分の1でも可能性があるなら、自分の母親がその1万分の1になるかもしれないから」と、リリーさんたちは抗がん剤の使用を求めます。結果は、「医者がやりたがらない理由もわかった」というくらいの重い副作用で、お母さんは苦しまれることになりました。でも、このベストセラーを読んだ人の多くは、この「可能性に賭ける姿」に共感を抱いたのではないかと、僕は思うのです。僕はつい「医者としての立場」から読んでしまうのですが、それでも、「この抗がん剤の治療は無意味だ」と言い切る自信はありません。
そういえば、「ブラックジャックによろしく」にも、抗がん剤をめぐるエピソードがありました。結果的に、主人公・斉藤英二郎は、新薬による抗がん剤治療を選択するのですが、この漫画での描写では、多くの人が、「がん」という病気と闘うというのは、けっしてムダではない、と感じたはずです。
でも、考えてみれば、「医龍」第2回のエピソードと、「ブラックジャックによろしく」の「涙のがん病棟編」の状況には、そんなに大きな違いはないはずなんですよね。その治療にあたる医師の描かれ方が、「医龍」では非常に露悪的であり、「ブラックジャック」では良心的であるということが違うというくらいで。
ある有名な詩人が「人間のかかる最大の病は、『希望』である」というようなことを言ったそうです。もちろん、多くの人は、「末期がん」を告知されても、その後の自分の人生に希望を見出すことができないわけではないし、余命を告知されたからこそできることというのも存在します。
でも、その一方で、「抗がん剤」による治療そのものが、生きたいという人間にとっての「希望」であるならば、「そんなのは効かない!」と「正直に言う」ことが正しいのか?と悩んでしまう面もあるのです。「1万人に1人は効いた」という「可能性」があるとしても、それは「無意味」なのでしょうか?
僕は自分ががんになったら、一部の抗がん剤が劇的に効くがんでないかぎり、抗がん剤による治療は受けないつもりです。でも、こうして生きて、いろんな人たちの姿を見ていて思うのは、「体調がいいとき、命の危険を真剣には意識していないとき」の僕たちの「覚悟」なんていうのは、全然アテにはならない、ということなんですよね。僕だって、自分がそういう立場になれば、怪しげな民間療法とかに一縷の望みをかけてしまうかもしれません。
そして、同じひとりの人間であっても、「やっぱりなんとかして生きたい」というのと「そこまで辛い思いをしてまで、わずかな可能性に賭けたくない」という気持ちのなかで、揺れ動くのが普通だと思うのです。「医龍」に出てきたおばあちゃんだって、「やっぱり治療しておけばよかったかな」と思ったことはあったでしょうし、「東京タワー」のオカンだって、「こんな辛い治療なんて…」と感じたことがあったはずです。
結局、「正しい死にかた」なんていうのは、どこにもないのでしょう。どんな死にかたをするのにも、苦しみや迷いはついてきます。だからといって、死なないわけにもいかないのです。
「抗がん剤」のメディアでの扱われ方ひとつとっても、「死」に対する絶対的に正しい医療なんて存在しないのだということを痛感させられてばかりです。結局は「ケースバイケース」だと言うけれど、実際は、そのひとつの「ケース」をとってみても、患者さん本人にさえ、「正しい選択肢」なんて、わかるはずもないのに。