射水市民病院の「延命治療の中止措置」について


asahi.comの記事より。

【富山県射水(いみず)市の射水市民病院で、外科部長の男性(50)が00年から05年にかけてかかわった末期の入院患者7人の人工呼吸器を外し、全員が死亡していたことがわかった。麻野井英次院長が25日午後、記者会見して明らかにした。同病院はこの医師の「延命治療の中止措置」について、倫理上問題があると判断。院内調査委員会を設置するとともに、県警に届け出た。捜査1課と新湊署は殺人容疑も視野に、病院関係者から任意で事情を聴いている。
 麻野井院長によると、亡くなったのは同県内に住む50〜90代の患者7人(男性4人、女性3人)で、いずれも意識がなく回復の見込みがない状態だった。うち5人はがんだった。外科部長が治療の責任者だったという。
 この外科部長は病院側の調査に対し、人工呼吸器の取り外しについて「いずれも家族の同意を得ているが、うち1人は家族から本人の意思も確認できた」と説明。病院によると、いずれも本人の同意書はないが、カルテには「家族の同意」を示す記述があるという。
 外科部長は病院側に「信念をもってやった」という趣旨の説明をしているという。
 麻野井院長は外科部長の処置について「積極的な安楽死には相当せず、延命治療措置の中止という範畴(はんちゅう)に入る」と説明。同病院には末期を含む終末期の延命治療中止について明文化した規定はないが、「患者本人の意思が明確だったかどうかや、他の医師に確認するなどの手続きを十分にしていないのが問題だ」とした。
 病院によると、昨年10月12日、昏睡(こんすい)状態で運ばれた男性患者(78)=10日後に死亡=の人工呼吸器をはずすよう、この外科部長から指示を受けた看護師長が看護担当の副院長に連絡。副院長から報告を聞いた麻野井院長が外科部長を呼び、取り外しを中止させた。
 病院は同月12日付で外部委員を含む院内調査委員会を設置。外科部長がそれまでに担当していた患者についてカルテなどを調べたところ、7人の入院患者が人工呼吸器を取り外され、死亡していたことが判明したという。
 この外科部長は95年4月から同病院に勤務。調査委員会が発足後に自宅待機となり、金沢大で研修するよう指示されていた。
 病院側からの届けを受けた県警は、病院関係者から任意で事情聴取を開始。関係資料の提出も受け、立件の可能性について慎重に調べを進めている。ある捜査幹部は「殺人にあたるのか、嘱託殺人などになるのか。患者の同意の有無など慎重に調べたい」としている。
 射水市民病院は1950年に高岡市立新湊病院として発足。新湊市の誕生で新湊市立新湊病院に改称後、現在地に移転して新湊市民病院、昨年11月の市町村合併で射水市民病院になった。知事が認定する救急告示病院で、外科、脳神経外科、整形外科、内科など13科がある。ベッド数は200床。
 横浜地裁は95年、「東海大安楽死事件」判決で、例外的に延命治療の中止が認められるのは、(1)回復の見込みがなく、死が避けられない末期状態にある(2)治療行為の中止を求める患者の意思表示か家族による患者の意思の推定がある(3)「自然の死」を迎えさせる目的に沿った決定である――の3要件を満たす場合のみ、との判断を示している。
 外科部長は25日夜、射水市の自宅前で、「私の方からのコメントは差し控えさせてほしい。コメントすべき立場ではない」と話した。 】

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 テレビのニュースなどでもかなり大きく取り上げられているこの件なのですが、僕は実際の状況を知っているわけではないので、射水市民病院で起こったことが「正しかったのかどうか?」を判断することはできそうにありません。でも、この「伝えられかた」を観ていて、いろいろと考えさせられました。
 僕は最初、この一報をネットで見たとき、「ああ、この『外科部長叩き』が巻き起こるだろうなあ…」と思いました。それこそ、「殺人医師!」という扱いで。
 でも、実際は、テレビのニュースとかでも、「いや、これは難しい問題ですね…」と、テレビの司会者やコメンテーターたちはみんな、言葉を濁していました。「安楽死・尊厳死」というのは、本当に人間にとって「簡単には結論が出ない問題」なのです。もちろんそれは、実際に医療をやっている僕にとってもそうなのです。
 最近現場で感じていることは、「僕が医者になってからの10年あまりで、『延命治療』に対する患者さんの姿勢は、確実に変わってきている」ということです。10年前に比べて、「延命治療は望まない」という意思を持っている患者さんや家族が、確実に増えてきたのは間違いないと思います。僕が10年前に大学で研修医をやっていたころは、大学病院などではとくに、「患者さんの命があるかぎり、命を長らえるための全力をつくす」というのが一般的な考えで、それをもとに、末期癌の患者さんに対しても、かなり多くの割合で、呼吸が止まったら人工呼吸器をつけ、心臓が止まったら心臓マッサージを行っていました。当時の僕は、「医者とはそういうものなのだ」と思っていましたし、そういう「延命治療」に消極的な先輩たちの姿に、内心疑問を感じてもいたのです。医者だったら、患者さんが少しでも長生きできるようにしてあげるのが当然なんじゃないのか、なんて。御家族も「できるだけ生かしてください」と言われる方が多かったですし。

 ところが、研究室生活を終え、数年前に同じ病院で働いたときには、だいぶ状況は変わっていました。「末期癌」の患者さんでは、「人工呼吸器や心臓マッサージは行わず、苦痛が少ないように「死の瞬間」を見守る、というのが、一般的な認識となり、御家族もそれを望まれる場合が大部分になっていたのです。もちろん、「死に目」に一緒にいてあげたい、という希望で、「家族が不在のときに心臓が停止した場合には、家族が到着するまで心臓マッサージを行う」というようなことはありますし、残された家族の後悔が少ないようにという意味では、それは十分に意義があると思いますが、「末期癌でもなんでも、とにかくできるだけ長く生かしてくれ」と望まれる患者さん・御家族は、かなり少なくなってきています。そして「とにかく苦痛を少なくすることを第一に、なるべく『自然な死』を」と望まれることが、非常に増えてきました。
 少なくとも、僕が日頃接している患者さんたちの「死生観」というのは変わってきています。そして、医者たちも「とにかく一秒でも長く心拍が続くのが正義」だとは、考えなくなってきたのです。

 たぶん、今から考えると、医療者やメディアよりも早く、患者さんや社会の側は、「延命治療」という虚しさに気づいていたのだな、という気がします。

 医者としての僕は、正直、この「人工呼吸器外し」が事実であるとするならば、それは「少なくとも現代医療のルール上では、許されないこと」だと思うのです。しかしながら、その一方で、この外科部長は、なんでこんなことをしたんだろう?と思えてしかたありません。どうして、そんな(自分の医者としてのキャリアにとって)危険な選択を、あえてしたのでしょうか?
 最近の報道では、「末期」の患者さんだとされていますが(癌だけではなく、回復の見込みが極めて乏しい脳梗塞などの疾患の患者さんも含んでいる、とのことです)、そのような状態の患者さんであれば、「わざわざ人工呼吸器を外さなくても、『結果』は見えている」はずなのに。僕だったら、「こんな状態で、人工呼吸器で『生かされている』なんて…」と思ったり、呼吸器を止めることを御家族から要請されたとしても、人工呼吸器を外すなんてリスクは冒しません。それは率直なところ、「問題にでもなったら怖いし…」という、僕自身の保身の要素も含んでの選択でもあるのです。「御本人も頑張っていらっしゃるのですから…」と説得すれば、「それでも外してくれ」という御家族は、まずおられませんし。
 この「人工呼吸器外し」が本当に行われていたのだとしたら、この外科部長には、非常に大きな「決意」が必要だったと思うのです。自分の医者としてのキャリアが傷ついてしまうかもしれないし、そもそも、いくら末期癌の患者さんでも、「自分が呼吸器を外したことで、誰かが死んでしまう」というのは、実際にその行為をやる人間にとっては、けっして、「喜ばしい記憶」にはならないはず。それでも、なぜ、この外科部長は、こんな選択をしたのでしょうか……その理由は、少なくとも、彼自身にとっての「悪意」ではありえないような気がするのです。「信念に基づいてやれば、なんでも許される」というわけではないことは、先日、「信念の建築士」が証明してくれたばかりなのですが。

 あと、もうひとつ気になったのが、メディアでの「こんな重大な選択が、誰にも相談せずに行われていたなんて…」という論調です。いや、この病院でも、院長先生が会見で「外科はチーム制」と仰っていましたが、僕のような中小規模の一般病院の勤務医や開業医にとっては、医学的に自分が「わからない」「自信がもてない」状態の患者さんに対して、他の先生のアドバイスを求めることは多々ありますが、日常診療上、「誰にも相談しないで、ひとりで判断しなければならない」という状況は非常に多いのです。逆に言えば、自分から相談しようとしなければ、他の人にはその「行き詰まり」というのは非常に伝わりにくいのです。もしある医者が、精神的に錯乱していて異常な行動をしていても、それが、明らかに人目につくようなものでなければ、みんな自分のことでいっぱいいっぱいの病院のなかでは、「わからない」んですよね。そう考えると、「ひとりの患者さんをひとりの主治医が診る」という今の日本の一般的な主治医制度というのは、リスクがかなり高いのかもしれません。僕がなにかの妄想にとりつかれてしまったり、重大な勘違いをしていたら、それでおしまい。医者が2人組になって、2人で1人の患者さんを診るようにすれば、そういう問題は解決するでしょうが、「どちらが主導権を握るのか?」というのが問題になりそうです。「チーム医療」というのは、田舎の医者の数が少ない大多数の病院では難しいし……

 「最後まで全力を尽くす」というのは、小説やドラマでは美しく見えるけれども、実際に患者さん本人がそれで救われているのかは、死んだ経験を持たない僕にはよくわからりません。逆に、「安楽死が本当に安楽なのか?」というのもよくわからないんですけど。
 ただ、残された人々にとって、「延命治療」が、精神的・経済的な負担になってしまうことがあるのも事実です。「死を待つ病室」で、御家族の疲労困憊している姿を見ていると、いたたまれない気持ちにもなりますし。今のところ、急性の病気で人工呼吸器を祖着されたり、病気が不治で「死んでいくしかない」ことを本人に伝えるべきなのかどうか逡巡しているうちに状態が悪くなってしまった患者さんに人工呼吸器をつけている場合が多いので、「本人の同意を得る」というのは、基本的に難しいことが多いんですよね。患者さんの病状は日々変わっていくし、意識のある患者さんに人工呼吸器をつけることはまずありませんから。もちろん、家族は本人ではないけれど、結局のところ、家族に意思を確認するしかなくて。
 これからは、「人工呼吸器が必要になるまえの意思表示」が求められる時代になってくると、僕は考えています。でも、その一方で、人の心なんてちょっとしかことで変わってしまうものだし、元気なときは、「人工呼吸器に繋がれるくらいなら死んだほうがマシ」と言っていた人でも、実際に死に直面したときに同じ気持ちを維持できるかというのは、正直、僕には全くわからないのですよね……

 むしろ、「なんでもやれることはやって、生きられるだけ生きてもらう」か「本当に全く何もしない」のどちらかに決めてしまったら、ラクになるのかもしれないけれど。