「人間が生き物の生き死にを自由にしようなんて」


「大野病院事件」については、下記の参考リンクを御参照ください。

参考リンク:「ザウエリズム」(2006/3/3)

以下は、逮捕された医師の弁護団が721日に出したプレスリリースの一部です。

全文はこちらを御参照ください。

【しかしながら、本件の問題点は、加藤医師が過失を争わなければならないことだけではありません。

 加藤医師のように、年間200人以上の新生児をとりあげ、年間40人の帝王切開を担当している医師が、明白な過失もなく、患者さんが亡くなったという理由で、逮捕されてしまったということの意味は大きいと思われます。患者さんが医療の途中で死亡するということはどんな治療にも内在する危険です。そもそも医療は身体の侵襲行為であり、危険を伴うものです。患者さんの持つもともとの様々な因子によって、何でもない医療行為で亡くなる可能性も否定しきれないのです。また、その患者さんの住む地域が、僻地であるがために、例えば東京に住むものと同じレベルの医療を受けることができずに亡くなる可能性は常にあるのです。

 このような医療行為の特殊性や地域の特性を考えたとき、患者の死という結果からレトロスペクティブ(後方視野的)に過失を探し、それを業務上過失致死という犯罪、例えば酒気帯び運転による交通事故で人が亡くなったときと同じ罪に問うことに疑問を禁じ得ません。 医療過誤の裁判は年々増え続け、患者さんが亡くなっている事件もかなりの数になっていると言われます。しかし、加藤医師を起訴した論理を貫けば、全ての医療事故によって患者が亡くなれば医師は業務上過失致死罪に問われかねません。しかし、厳しい労働条件の下で、医師としての誇りと良心を支えに医療行為に従事する者に対し、このような結果は酷に過ぎます。全ての医師に神になれとわれわれは要求することはできるのでしょうか。

 そして、国の無策からきた産科医不足という現実の中で、24時間、365日オン・コール態勢の中で、身を粉にして働く地域医療の担い手を逮捕・起訴することに妥当性はあるのでしょうか。現に加藤医師の逮捕により、大野病院の産科は閉鎖されました。住民にこのような犠牲を強いるほどに、加藤医師の逮捕・起訴は価値あるものでしょうか。それにより国民が得るものは何なのでしょうか。

 本件の裁判は、すぐれて今日的な観点を提供するものです。医療の現状、医療の限界、医療の危険とは何なのかという、ややもすれば見過ごされてきた問題点を浮かび上がらせています。地域医療が直面する現実を知らせてくれております。そして我々に、そのような問題に我々がどう対応すべきなのかということを考えさせ、どこまでが刑罰をもって規制されるべき限界なのかというような問題点にも向き合うことを求めています。

 この裁判に意義があるとすれば、そのような問題点を認識する機会であるということですが、ただ遺憾なのは、それを加藤医師が、自らの業務上過失致死事件の裁判という、人生を左右するような状況で個人的に担わされていることです。】

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 まず最初に、不幸な転帰でお亡くなりになられた患者様に、謹んで哀悼の意を表させていただきます。

 僕もこの事件に関しては憤りと悲しみと恐怖を感じています。僕自身も田舎の病院で現在いわゆる「一人医長」にあたる職務についていますし、その中で、怖いと思ったことも一度や二度ではありません。自分の「守備範囲」の患者さんばかりを診られるという環境でもないですし。それでも、目の前に患者さんがいれば、逃げるわけにはいかない。「そんなの大きな病院に送ればいいじゃないか」なんていうのは、大都会の理論であって、現実問題として、田舎では、「ここでなんとかするしかない」という状況はけっして少なくないんですよね。いや、都会だって、難しい状況の患者さんを積極的に受け入れてくれる病院というのは、けっして多くないはずです。

 この事件での警察の対応や、初期のメディアの報道に対して僕が疑問に感じているのは、要するに「人が死ぬというのは、必ず他の誰かの責任になってしまうのか?」ということなのです。先日の「割りばし事件」の裁判でもそうなのですが、「子供が割りばしを持ったまま転んで、誤ってノドに箸を突き刺してしまって、その結果命を落としてしまった」というのは、「誰かのせい」なのでしょうか?

 あの裁判のとき、某巨大掲示板では、「医者が悪い」という書き込みもありましたが、その一方で、「子供から目を離した親の責任」という書き込みもけっこうありました。僕は、あの稀で偶発的な事故が死につながったのが「医者のせい」にされることに対しては激しい憤りを感じたのですが、だからといって、「親のせい」というのも、やっぱり違うのではないかと思うのです。

 あれは、「神様以外の誰にも防ぐことができなかった、不幸な事故」だとしか、僕には思えない。そしてそれは、「誰のせいでもない、偶然の出来事」なのです。そして同じようなことは、この世界があるかぎり、絶対に起こりうることなのに。

 そういうふうに考えるのは、間違っているのでしょうか?

 そこまでして、無理やり「誰かのせい」にしなければならないのでしょうか?

 いや、みんな「自分のせいだと思いたくない」のはわかるのです。その傷を負って、生きていかなくてはならない人間にとってはなおさら。

 でも、だからといって、それを「他の(顔が見える)誰かの責任にすること」を第三者であるはずのメディアや警察や裁判所が認めるのが妥当だとは思えません。むしろ、そういう「転嫁」を防ぐために、「公」というのは存在しているはずなのに。医療者というのは、本質的に「感謝されること」も多い一方で、「恨まれる」ことも少なくありません。人は「経過」ではなくて、「結果」で判断しがちですし、不治の病に人に恨みの言葉を浴びせられても、身内を失くした人が、「もっと大きな病院に連れていけば…」なんて後悔の言葉を仰っていても、それは、ある程度「給料のうち」だと多くの医者は無念さを飲み込んでいます。自分では、ベストの治療ができたと思っていても、ベストの結果が得られるとは限らないのが、この仕事だから。
 でも、「逮捕される」とか「訴えられる」というのは、全く別の次元の問題なのです。

 そして、医療事故に限らず、「誰のせいでもない不幸な事故」が、どんどん「国や地方の管理責任」として訴えられ続けているのです。そういう事故の多くは、「親の責任」ではありません。でも、どうみても「誰のせいでもない事故」で他者を訴える人をみていると、なんだか、「どうせ裁判に負けてもこっちが損するわけじゃないんだから、とりあえず訴えてみるか」というふうに考えているのではないかとすら思えてきます。
 訴えられた側にとっては、一生を左右されるような「傷」になってしまうのに。

 率直に言うと、僕だって、後から考えれば「こうしておいたら、もっと良い結果だったかもしれない」と後悔していることは、たくさんあるのです。でも、その時の自分にとっては、最良の選択をするように心がけてきました。

「もしあなたが医者だったら?」と想像してみてください。

 目の前に病気で苦しんでいる人がいたら、その人のことを「助けたい」「なんとかしたい」と思いませんか?

 ごく普通の人間である医者の卵たちが、医師免許を持ったとたんに「金の亡者」になったり、「手抜き医療をする」なんてことはありません。そもそも、「手抜き医療」をやることには、何のメリットもないのです。

 ただし、世の中には、「難しい病気」や「進行が速い病気」も存在しますし、残念ながら、そういう病気と闘う「現場」に、最良の設備・最良の人員が配備されているとは限りません。僕は、この事件での「不測の事態」に対して「与えられた状況のなかで、できるかぎりのことをやった」加藤医師の心境を思うと、涙が出てきます。加藤医師だって、「ここが大学病院で、応援が大勢いてくれたら…」と、術中に考えたのではないでしょうか。あるいは、プレッシャーに逃げ出したい気持ちもあったかもしれません。

 でも、逃げるわけにはいかなかった。
 加藤医師が医者として失格だというのなら、医者として「合格」な人間は、果たしてどのくらい残るのでしょうか。
 もちろん、僕は「失格」です。

 僕は、明らかな「医療ミス」に関しては、医療者は責任を負うのが当然だと考えています。でも、人間は「誰のせいでなくても死んでしまう生き物」なのです。
 たぶん、すごい大金持ちが、毎日人間ドックに入って精密検査を受け続けていても、永遠の命は得られないでしょうし。

「人間が生き物の生き死にを自由にしようなんておこがましいと思わんかね」(本間丈太郎)

 現代の医者とか医学というのは、買いかぶられすぎているのではないかなあ、と、僕はときどき怖くなります。

 有史以来、死なない人間はひとりも存在しないのに。