「人間」と「機械」はそんなに違うのか?


参考リンク:人間はどこまで機械か(玄倉川の岸辺)


 僕はあの大臣の発言内容に関しては、「デリカシーがない人だなあ」とか「こんな人が大臣なんて情けない」という感想しかなかったのですけど、「人間は機械じゃない!」と清々しく言い切る人たちに対しては、ちょっと違和感もあったのです。人間っていうのは、そんなに「特別」なのだろうか?と。僕は医療を生業としていますので、この参考リンクで触れられているような「器官の集まりとしての人間」というのを意識することが多いものですから。

 僕が子供の頃に読んだ『銀河鉄道999』では、永遠の命を持つ「機械人間」たちは、限りある命の「生身の人間」の対極として描かれていました。読んでいくにつれ、僕も「人間というのは命に限りがあるから一生懸命に生きようとするのだ」と思うようになったのですが、その一方で、「人間って、永遠の命を得たら、本当にあんなふうに退廃的な生き物になってしまうのだろうか?」とも感じていたんですよね。もしかしたら、「機械の体」を手に入れた人間は、無気力にはなるかもしれませんが、もっと穏やかに暮らしていけるのではないか、とか。あのマンガの「機械人間」たちは、いかにも!という感じの「機械的なルックス」でもありましたしね。

 僕自身は、「人間」(あるいは生命)と「機械」の違いって、「人間に『設計図』が描けるか」というのと「再現性があるか」の違いだけしかないのではないかな、と考えてしまうのです。人間を「人間らしく」しているはずの「感情」だって、実際は薬でかなり確実にコントロールできますし、昔の人たちは考えもしなかったような外科手術や臓器移植によって、多くの人間が救われました。人間の「心」だって、今はそのプログラムが複雑すぎて解析できていないだけなのかもしれないのです。もちろん、その完成までには、まだ道のりは遠そうですが。僕たちが「勘」とか「思いつき」だと自分では考えていることだって、一定のプログラムにしたがった「反応」でしかない可能性は十分あるのです。ただ、今の医学では、その「プログラムを解析しきれていない」から、人間というのは「神秘的」に見えるだけのことで。少なくとも医学の世界においての技術的な進歩は、「人間を機械的な存在として意識すること」に基づいているんですよね。でなければ、祈祷師の時代に逆戻りするしかありません。そして、代理出産や脳死患者からの臓器移植、あるいは、今後行われていくであろう遺伝子治療のように、いままでは「技術の限界」が「医学の限界」とイコールであったはずなのに、現代は「技術的には可能だけれども、それを行うことは人間の生物としての変質につながるのではないか?」というのが問われる時代になってきています。「人間」としてのモラルを問わなければ、臓器移植の提供者となるための人間を「養殖」する「臓器牧場」みたいなのだって、技術的には全然不可能ではないわけで。

 実は、「人間は特別なんだ、機械じゃないんだ」と思っているのって、われわれが人間だから、ということ以外にとくに根拠はなさそうな気がします。逆に、それ以上に強力な「人間を特別視する理由」っていうのもないのでしょうけど。僕は「人間は機械だ!」って言われてみんなが嫌な気分になるのって、本当は「人間だって機械なのだ」ということを認めるのが恐いからじゃないか、とも思うのです。そもそも、「機械」っていうのは、「人間の仕事を代わりにやってくれるもの」として作られたのですから、機械には「人間的」な面もあるのです。人間が作ったもの、ですし。
 僕は「心」だって、将来的には解析されつくして、コンピューターの中でその人の「人格」が生き続けるような世の中になるのではないか、とか時々考えるのです。それが人間にとって「幸せ」なのかどうかはさておき。

 少子化問題とは全然関係ない話ですみません。