「災害報道」とマスコミの傲慢と「医療現場」と


参考リンク:別館「S3日記」の「新潟中越地震」

      「はてなダイアリー〜天漢日記」

      「お互い更新日記」の10/24,25(新潟県中越地震に言及したサイトのまとめ)

 今回の「新潟県中越地震」の報道のあり方について、僕もこれらの文章を読みながら考えた。
 正直、繰り返し「こんなに酷い崖崩れが!」とくりかえし流れる映像にも食傷気味だし、一昨日の朝の某「とくダネ」では、避難している長岡の人が「大丈夫です。みんなと一緒にいるので安心しています」と気丈に受け答えしていたのだが、インタビュアーや司会者たちは、いかにも「厳しい避難生活」という言葉を引き出したいという態度が伝わってきて悲しくなった。そんなの厳しいし辛いに決まっているじゃないか。なんて他人の前で弱音を吐いてみせる必要がある?
 要するに、「面白い映像」が撮れれば、取材対象というのは、どうでもいいのではないか?
 そもそも、こういう「災害報道」そのものの存在意義とはなんだろうか?
 どう考えても被害者のプライバシー侵害のような「猟奇殺人事件報道」なんていうのに「視聴者の知る権利」などというのを振りかざしているのと同じで、「いざ鎌倉」みたいな高揚感をメディアは抱いて、それこそ「国民の知る権利のために、川で溺れている子供がいたら、助ける前にカメラを回す」というのが本音なのではないか。
 確かに、「全国の人が心配している」というのはあるのかもしれない。でも、本当にそうなのだろうか?阪神・淡路の震災のときには、確かに地元が神戸だった同級生はすっとテレビの画面の前から離れられなかったから、「貴重な情報源」であることは間違いないんだけれど。
 ただ、「報道のヘリを飛ばすくらいなら、カメラより食料を運べ」というのが正しいのかどうか、僕には今のところよくわからない。ああいう「被害映像」みたいなのは、ある意味、どんな言葉よりも実情を雄弁に語っている面があるからだ。もし、ああいう報道が全くなければ、被災地にボランティアで行こうとする人の数とか義援金の総額とか災害対策に税金を使うことに対する国民の理解とか、そういうものに対する理解度というのは、まったく違ったものになるのではないか。現に、僕たちは一般的に地球の裏側の大地震への関心は薄いし、その理由は、「日本人が関連していないから」だけではなくて、やっぱり「報道されないから」でもあるような気がするし。
 極論すれば「戦地で弾に当たりそうな子供をカメラマンが助ける」ことよりも「戦地で弾に当たって死んだ子供の映像をカメラマンが撮影し、全世界に発信したほうが、長い目で見れば命を落とす子供の数は減るはず」という理論も成り立たなくはない。まあ、アメリカの「原爆投下の理由」(=原爆投下のおかげで、戦争が早く終結して戦没者の数は減ったはず)というのは、あまりに「暴論」だとは思うけれど、実際はどうだったのか?ということは、想像の範疇でしかありえない。
 ああいう「被害者感情を無視したような取材」や、「ヘリに救援物資を積むよりもカメラなどの機材を積む」ほうが、「長い目でみれば、はるかに有意義」なのかもしれない。
 もちろん、僕はそんなのに協力するのは御免蒙りたいが。

 とはいえ、正直なところ、一生懸命気丈に振舞っているのに「過酷な状況にある被災者」という枠にはめられていた今朝の女性の映像を観たり、被災者にコンビニおにぎり1700個とかの報道を聞いたりするにつれ、1個100円としたら、1万個でもたかだか100万円なんだから、テレビ局が都心で買い付けてヘリで送ってやればどうかね、とか思わずにはいられないのも事実。

 いや、それでは国民を啓発する意味がない、といわれるかもしれないが、それは「24時間テレビの理屈」だと思う。毎年24時間だけの効果の啓発を繰り返すくらいなら、そのスポンサー料をそのまま寄付したほうが、現実的に困っている人たちは助かるのではないか?とも考えられる。24時間テレビの「啓発効果」というのは、20年前ならともかく、現在ではほとんど無力化しているような気もするし、発信する側も、「わざと走れそうも無い人をチョイスしたマラソン」をやって、予想外に比較的ラクにゴールしたりすると「面白くない」とか視聴者に言われたりしているし。

 確かに、「報道も闘っている」のだろう。被災地に行くのは危険を伴うし、多くの報道関係者は、現実を広く世間に伝え、そのことによって何かを人々に訴えたい、という理念を持っているに違いない。
 だからといって、「報道も危険なのだから」というのは、取材しに行く側としては、あまり適切な態度ではないと思う。そもそも、「いざとなったら帰る家がある人」と「家が倒壊して、避難所を出たら行き場がない人」というのが、いくら同じ被災地に立っているからといって、「同じ立場」であるわけがない。

 しかしながら、こうしてマスコミのことを書けば書くほど、マスコミの立ち位置というのは、彼らが大嫌いな「傲慢な医者が仕切っている医療現場」と似ているのではないか、とつくづく思わざるをえない。
 「医者は患者のことを見ていない」という彼らの報道姿勢は、「取材者は被取材者のことを見ていない」という僕のマスコミに対するイメージと重なるし、「医者は所詮病気ではないし、患者の本心なんてわからない」という彼らの感覚は、「報道関係者は、現場にいるだけで、彼らが自分でイメージしているほどの『当事者』ではない」、という僕の印象と符合するものだ。取材者が被災者でないのと同様に、医者だって末期癌の患者ではないのだし。 
 医者と患者の関係のほうが、より「お互いに逃げ場がない」関係であることは間違いないとしても。
 先程の例で言うと、医者というのは、極論すれば「目の前のひとつの命を実験材料にすることによって、数百倍、数千倍の将来の命を救える可能性がある仕事」なのかもしれないし。
 ただし、そういう発想は甘美である一方、身勝手な拡大解釈の温床にしかならないことも多い。他人に「捨て石」になることを強要する人間は、大概において自分が「捨て石」にはならないものだから。

 僕たちは、さんざんマスコミ批判をしながら、彼らが送ってくるニュースがなければ批判する材料を持たない立場だし、多くの「医者嫌い」の人も、病気になれば病院の門をくぐらざるをえない。
 自分たちだけが「人々の味方」であると思い込んでいて、周りからは「鼻持ちならない、いけすかないヤツ」と思われている点でも、似ているのかもしれない。
 ひょっとしたら、これは「近親憎悪」みたいなものなのかな、と思うときもあるのだ。
 とはいえ、今のところは、医療者側の声は小さくて、いささかアンバランスな関係。

 僕は最近、医療者側も、「もう少しうまく伝えるための努力」をしなければならないのではないか、と考えることが多いのだ。
 もちろん、「伝えること」にばかり夢中になって、「伝えるべきこと」が、おろそかになってはどうしようもないとしても。
 いずれにしても、マスコミも医者も、今のままではあまりに傲慢すぎるような気がする。
 せっかく「誰かのために」やっていることなのに、その方法や説明のしかたが分かりにくいもののため、「受け手の無理解」を誘発しているのではないか?

あるいは「誰かのために」という大義名分に溺れすぎて、自省の気持ちを失っている人が多すぎるのではないだろうか?
 いや、こういうレポートを読んでいると、医者のほうがはるかにマシなんじゃないか、とつい安心してしまう、という面もあるのだけれど。