「ひどい医者」ができるまで。


参考リンク:『医学都市伝説(12/18)』〜「こんな治療を受けている人もいる」


 まず、上記リンクを御参照下さい。
 これは酷い、なんて酷いんだ…と僕も読んでいて愕然としました。「起こりうるべき当然の範囲のこと」に関しても「医療ミスだ!」と大声で叫びたがる人もいれば、このように、酷い扱いを受けていてもなお、「担当医の言うことに逆らえない」という強迫観念めいたものに縛られている患者さんもいる。
 しかしながら、これを読んでいて、僕は「自分にこの医者を非難する資格があるのだろうか?」とも思えてきたのです。僕は内科医ですから、いままでに何人もの癌の患者さんの治療および末期医療に携わってきました。もちろん自分で手術をすることはないのですが、抗がん剤の治療やモルヒネなどの麻薬も使っています。もちろん、すべての患者さんを「助けられた」わけではありません。というか、内科に入院される癌の患者さんの中には、言葉は悪いのですが、いかに苦痛を少なく末期を迎えていただくようにするか、というのが目的の場合も少なくないですし。
 以前、あるがん患者さんを担当したときのことです。その人は、全身的に転移がみられ、いわゆる「末期がん」の状態でした。しかしながら、家族が告知を望まず、かつ、治療を希望しておられたため、内科で抗がん剤の治療をすることになりました。本人は「放っておくと悪性になる可能性があるから、早めに治療しましょうね」と説明された上で、僕たちは「抗がん剤に近い薬」の使用を始めたのですが、実際問題として、そういう状況下での抗がん剤や放射線での治療というのは、そんなに上手くいくものではないのです。結局、副作用が強く、がんの転移で体力も低下していたため、これ以上の治療は難しい、ということで、その患者さんは「痛み止め」としてモルヒネを内服され、「リハビリのため」ということで、地元の病院に転院されていきました。「大きな病院・先進的な病院には、そこでしかできない治療があるのだから、助けられる患者さんのためにベッドをあけて、ターミナルケアは、他所の病院でするべきだ」というのが上の先生たちの意見で、僕もそれは確かなことだと思います。ただ、その転院させられた患者さんをその状態で「リハビリ」と称して転院させるのには後ろめたい思いもありましたし、転院先の先生には、申し訳ないなあ、と感じていました。その一方で、もし自分の身内がその病院でしか治療できないような病気であれば、素直に「ベッドが一床空いたこと」を喜んでいただろう、とも思うのですが。

 上の文章を読んで僕が思ったのは、あのときの患者さんにとって、僕は、こういう医者に見えたのではないかなあ、という罪の意識でもあったのです。ここには「患者さんから見た病気の経過」が書かれているのですが、果たして、この女性に対して語られてきたことは、常に「事実」であったかどうか、僕には判断できません。たとえば、「まだ初期ですが、根本的な治療をします」と医者が言った時点で、本当に「初期」だったのだろうか?とも感じます。今から数年前の話であれば、本当に「初期」なら、乳房全切除+同側大胸筋というのは、あまりに過激な術式だし、術後の抗がん剤や放射線療法も必要があったのかどうかは疑問もあります。ホルモン療法の適応に関しては、僕たちの研究室には初回治療の患者さんの効果判定依頼がたくさん来ますから、これに対しては「少なくとも良心的ではない」とは感じますけど。せめて再発時にでもそれをやっていれば…と思うのは確かです。
 ただ、もし初診時にすでに「末期」で、それでも患者さんが若いということで、なんとか根治できないものかとこういうハードな治療を行ったのかもしれないな、と考えられなくもないのです。そういうキツイ治療をするときには、「告知」をちゃんとしておく、というのが現在のスタンダードなのですが、家族サイドから、「『癌』と本人に言うのは、治療を行っていく上で仕方がないけれど(だって、癌じゃないけど手術します、とか、抗がん剤を使います、では、患者さんも納得して治療を受けられないし、治療にも耐えられませんから)、まだ早期で治る可能性が高いとか、本人が希望を持てるような感じで『告知』してもらいたい」という希望を出されることも少なくないのです。仮に「もう手の施しようがなくて、ペインコントロールしかできない」という状況であったとすれば、「あなたはもうダメです」という「事実」を告知して、希望を奪うことが正しいのかどうかは、僕にもなんともいえません。確かに「死の宣告」を受けて絶望しても、多くの人はそこから残りの人生を充実したものにするために、立ち上がってくるものなのだとしても、それは、あくまでも周りからみた「客観」でしかないから。

 この例では、この医師の状況判断能力や患者さんに対する姿勢には、大きな疑問を感じます。ただ、実際に臨床の現場にいると、仮に自分では「正しい医療」を行っているつもりでも、「酷い医者」になってしまうこともあるのだろうな、とも思うのです。前述した僕が体験した例でも、患者さんから「見捨てられた」と思われていたかもしれないな、と感じていますから。とくに最近では、「在院日数」なんていうのが重視されるようになったために、そういう傾向は強くなっているのではないでしょうか?「どうして良くなってないのに『転院』なの?」と問われて、「地域医療全体として、この病院のベッドを空ける必要性」とか「医療経済」というようなことは、個々の患者さんにとっては、「納得いかない」のもよくわかります。

 せめて、この医師が、患者さんの話に耳を傾けて、モルヒネの使い方や痛みのコントロールに関して、もっと親身になって話をしていたら、こんな恥ずべき状況にはならなかったかもしれなかったのに…
 こういう「先生も自分のために治療してくれているんだから」とか「お医者さんの言うことに逆らえない」という善意の患者さんがほったらかしにされて苦しんで、「何かあったら訴えてやるからな!」という「患者様」が「待たせるとうるさいから」というような理由で優先されるという状況というのは、やっぱり医者としても腑に落ちないのです。でも、そういう「大きな力」に逆らえない自分というのが現実にはいるわけで。

 「良くならない病気」の場合には、「いかに患者さんに納得してもらうか」というのが勝負どころだったりもするのです。しかしながら、「あなたは末期がんで、ほとんど助かりません。余命は3ヶ月くらいです」と言い放つことは、少なくとも今の社会的な常識から考えると難しい場合も多いし、その「告知」が、その人にとってプラスかマイナスかなんてことは、本人にしか(あるいは、本人にさえも)わからないことなのです。

 「結局、病気さえ治れば名医」というのも一面の真実なのですが、「治らない患者さん」にいかに接していくかというのは、医者という職業にとっては非常に大事なことだし、そういうところには、医者としてというより、人間としての良心が問われているのだと思います。
 しかしながら、「治らない患者さん」の病室に行くのは、どうしても足が重くなってしまうんですよね。一度ウソをつくと、ウソの上にウソを重ねていかなければならないし、だからといって、「いまさら本当のことも言えない」というような状況になると、本当に行き場がなくなってしまうのです。一番「行き場がない」のは、患者さん本人に決まっているのですが…

 そして、こういう「ものわかりのいい」患者さんというのは、えてして、医者からすれば、「何も症状を言わない、扱いやすい患者」なのだろうなあ、という気がします。そうやって医者側の勝手な解釈で、「病状は厳しいけど、これも寿命だろ」とか思っている一方で、患者さん側の苦悩は深まるばかり。
 「何でも自分の心のうちにしまって、表に出さない人」というのは、医者側からすれば、逆に気をつけておかなければならないなあ、とあらためて考えさせられました。
 少なくとも、文句を言われないから、訴えられないから、「いい医者」なわけではない、というのは、肝に銘じておくべきでしょう。そりゃ、「しょっちゅうクレームをつけられたり、訴えられるよりははるかにマシ」なんですけど。

 きっと誰かから「酷い医者」って、僕も言われているのだろうと自分でも思うのです。「いい医者」だと言ってくれる人もいると信じたいのに、正直それには自信が持てない。
 「医者の不養生」と言うけれど、自分がどんな医者であるかなんて、自分にはなかなか見えてこなくて、ときどき凄く不安になるのです。